第十一話
悠太は静かに首を横に振る。
「満足してません」
凪海は少し眉を寄せる。
「じゃあ何」
悠太はすぐには答えなかった。
窓の外を見る。
灰色の空。
遠くを走る車。
しばらくして、ぽつりと口を開く。
「昔」
凪海が視線を向ける。
悠太は続けた。
「大学の頃から付き合ってた人がいました」
部屋の空気が少し変わる。
凪海は何も言わない。
悠太が自分から話し始めるのは、初めてだった。
悠太の声は静かだった。
感情を強く乗せない。
でも、どこか少しだけ柔らかかった。
「同じ大学でした。自分と違って、よく喋る人で」
ほんの少しだけ、口元が緩む。
「ずっと隣で喋ってるタイプの人でした」
凪海は黙って聞いている。
悠太は続ける。
「自分は静かな方だったので、よく“何考えてるか分かんない”って怒られてました」
凪海が少しだけ笑う。
「今もじゃん」
悠太は否定しない。
少し間を置く。
「でも、あの人は」
「分からないまま、ずっと隣にいた」
部屋が静かになる。
悠太は視線を落としたまま続けた。
「夜中に散歩したり、意味もなく電車に乗ったり、コンビニでアイス買って、公園で食べたり」
どれも、小さな話だった。
けれど、その一つ一つを、
悠太はちゃんと覚えていた。
「就職してからも、一緒にいました。忙しくても、できるだけ時間を作って、……ちゃんと大事にしてたつもりです」
その“つもり”という言い方が、
少しだけ引っかかった。
悠太はゆっくり続ける。
「それで」
少しだけ間が空く。
「婚約しました」
凪海の視線が少し動く。
悠太は淡々としていた。
けれど、声の奥だけが少し違った。
「指輪を買って、両親に挨拶して、式場も見に行って」
静かな声。
でも、その光景がちゃんと見えるみたいだった。
「やっと安心したんです」
悠太が小さく息を吐く。
「この人と、このまま生きていけるんだって」
凪海は何も言わない。
時計の音だけが響く。
悠太はしばらく黙る。
そして、静かに言った。
「婚約した次の日」
悠太は続ける。
「交通事故で亡くなりました」
空気が止まる。
悠太の声は変わらない。
怒ってもいない。
泣いてもいない。
でも、その静けさの方が苦しかった。
「信号待ちしてる時に、居眠り運転の車が突っ込んできたらしくて」
悠太は視線を落とす。
「病院に着いた時には、もう」
そこで言葉が止まる。
凪海は初めて、
悠太の顔をちゃんと見る。
感情が薄いと思っていた顔。
いつも静かな目。
その目が、少しだけ潤んでいた。
悠太は俯いたまま、しばらく動かなかった。
凪海も何も言えない。
いつもみたいに茶化す言葉が出てこなかった。
交通事故。
婚約した次の日。
帰ってこなかった恋人。
その話が、妙に現実感を持って胸に残っていた。
やがて悠太は、小さく息を吐く。
それから立ち上がる。
凪海は少しだけ身構える。
けれど悠太は何もせず、ゆっくり凪海の隣へ座った。
ソファが少し沈む。
距離は近い。
なのに、不思議と怖くなかった。
悠太は前を向いたまま、静かに聞く。
「大切な人を失ったこと、ありますか」
凪海は少し考える。
頭の中を探るみたいに。
優子。
竹田。
母親。
川上。
どれも違う気がした。
凪海は小さく首を振る。
「……ない」
悠太は数秒黙る。
それから静かに言った。
「いいえ」
凪海が眉を寄せる。
悠太は続ける。
「あります」
静かな声だった。
責めるわけでもなく、
決めつけるわけでもなく。
ただ事実を置くみたいに。
「あなたはずっと、自分を失ってる」
凪海が少し強張る。
悠太は前を向いたまま話す。
「犯罪を繰り返して、暴力を受けて、傷つけられても、それを“当然”だと思ってる」
凪海は反射的に笑おうとする。
でもうまくいかない。
悠太は続ける。
「自分で自分を壊してる」
部屋が静かになる。
凪海は視線を落とす。
悠太の声だけが続く。
「自分にはもう戻らないものがあります」
凪海は隣を見る。
悠太は前を見たままだった。
「彼女は、自分の全部だった。だから、あの日から」
小さく息を吐く。
「自分も、死んだままです」
その言葉は重かった。
でも、不思議と痛々しくなかった。
ただ静かだった。
悠太は続ける。
「でも」
そこで初めて、凪海を見る。
「あなたは違う」
凪海の呼吸が少し止まる。
悠太の目は静かだった。
でも、その奥だけが少し熱を持っている。
「今なら、まだ戻れる。暴力も、薬も、壊れるような生き方もやめられる」
凪海は何も言えない。
悠太は小さく首を横に振る。
「自分は、一生治りません。何年経っても、多分忘れない」
声は静かだった。
諦めにも似ていた。
だからこそ。
次の言葉が、凪海の胸に強く落ちた。
「でも、あなたは」
悠太が言う。
「もう苦しまなくていい」
そのまま。
悠太は凪海の手を握った。
強くない。
逃げようと思えば、簡単に逃げられるくらいの力。
でも、
押さえつける手じゃなかった。
初めてだった。
何も求められない手。
殴るためじゃない手。
試すためでも、
利用するためでもない手。
ただ、触れているだけの手。
その瞬間。
凪海の頬を、涙が流れた。
一滴。
それから、次々と。
凪海は少し目を見開く。
自分でも分からなかった。
なんで泣いてるのか。
悲しいわけじゃない。
怖いわけでもない。
なのに、止まらない。
視界が滲む。
呼吸が揺れる。
凪海は慌てて顔を逸らす。
「……っ、なにこれ」
掠れた声。
涙が止まらない。
悠太は何も言わない。
ただ隣にいた。
診療室を出たあとも、凪海の目は少し赤かった。
泣いたせいだ。
けれど、不思議と頭の中は静かだった。
雑居ビルの階段を降りる。
外の空気が、ゆっくり肺に入ってくる。
夕方の街。
コンビニの明かり。
全部がいつも通りだった。
なのに、自分だけが少し違う場所に立っているみたいだった。
凪海はポケットからスマホを取り出す。
画面を開く。
連絡先。
“川上”
指が止まる。
少しだけ。
煙草の匂い。
ホテル。
殴られた頬。
優しく撫でられた手。
全部が頭を過ぎる。
けれど、その奥に、
別の感触が残っていた。
何も求めない手。
静かな声。
“もう苦しまなくていい”
凪海は小さく息を吐く。
そして、川上の連絡先を削除した。
その瞬間。
胸の奥が少し空いたみたいだった。
軽いのか、
苦しいのか、
自分でも分からない。
凪海はスマホをポケットへ戻す。
そのまま、新宿へ向かった。
夜。
東口。
いつもの場所。
優子はいつも通り座っていた。
缶を片手に、スマホを見ている。
凪海に気づくと、少し笑う。
「遅」
凪海は隣に座る。
優子が顔を見る。
「……あんた、泣いた?」
凪海はすぐに顔を逸らす。
「別に」
「うわ、絶対泣いてるじゃん」
優子が笑う。
凪海は舌打ちする。
「うるさい」
優子は面白そうに缶を揺らす。
「なになに」
「男?」
凪海は少し黙る。
それから、ぽつりぽつり話し始めた。
悠太のこと。
昔付き合っていた婚約者のこと。
事故で死んだこと。
今日、手を握られたこと。
涙が出たこと。
全部。
途中でやめようと思った。
でも、気づけば話していた。
優子は途中から黙って聞いていた。
珍しく茶化さない。
最後まで聞いてから、小さく笑う。
「なにそれ」
缶を揺らす。
「凪海、聖人にでもなるの?」
凪海の表情が止まる。
その瞬間。
頭の奥に、別のことが浮かぶ。
豊島。
“優子、薬買ってるぞ”
あの声。
警察へ売ると脅された夜。
自分が警察の情報を流している理由。
優子を守るためだ。
なのに。
本人は何も知らずに笑っている。
胸の奥が急に重くなる。
凪海の顔が曇る。
優子が少し眉を寄せる。
「……え、何」
凪海は黙る。
優子は空気の変化に気づく。
少し困ったみたいに笑う。
「ごめん」
軽い声じゃなかった。
「冗談」
凪海は視線を落とす。
缶のプルタブを指でいじる。
優子が少しだけ小さな声で言う。
「……でも、なんか良かったじゃん」
凪海は返事をしない。
ネオンの光だけが、二人の間で揺れていた。




