第十二話
優子は缶を揺らしながら、まだ少し笑っていた。
「てか想像できないんだけど。凪海がカウンセリングで泣くとか」
凪海は顔をしかめる。
「だから泣いてない」
「いや絶対泣いてた」
優子が笑う。
その時。
ポケットの中で、スマホが震えた。
凪海の動きが止まる。
画面を見る。
“豊島”
胸の奥が冷える。
優子は気づいていない。
まだ缶を弄っている。
スマホが二度、三度震える。
凪海は一回だけ俯く。
呼吸を整えるみたいに。
それから通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『遅ぇな』
声には怒気が混じっている。
凪海は何も言わない。
豊島が続ける。
『なんでワンコールで出ねぇんだよ』
声の奥が苛立っていた。
『誰からの電話か分かってるよな』
凪海の指先が少し冷える。
「……ごめん」
『今どこだ』
「新宿」
『ならすぐ来い』
短かい命令だった。
凪海は少しだけ目を閉じる。
頭の中に、さっきの診療室が浮かぶ。
静かな部屋。
悠太の声。
“あなたは、まだ戻れる”
胸の奥が少し揺れる。
凪海は小さく息を吸う。
「……今日、ちょっと」
断ろうとした。
本当に少しだけ。
でも。
豊島が笑う。
冷たい笑い。
『優子』
その名前だけで、凪海の喉が止まる。
『最近また買ってるらしいな』
凪海の視線が横へ動く。
優子は何も知らない顔で、空き缶を足で転がしている。
『警察に流れたら困るよな。お前も、あいつも』
凪海は何も返せない。
豊島は続ける。
『十分で来い。待たせんな』
通話が切れる。
無機質な電子音だけが残る。
凪海はしばらくスマホを見たまま動かなかった。
優子が顔を覗き込む。
「なに?」
凪海はスマホをポケットへ戻す。
「……用事できた」
優子は「えー」と不満そうな声を出す。
「また?。最近ほんとすぐどっか行くじゃん」
凪海は少しだけ笑う。
「ごめん」
優子は肩をすくめる。
「まあいいけど。今度ちゃんと付き合ってよ」
何も知らない顔で笑う。
その笑顔を見て。
凪海は、ふと胸の奥が少しだけ緩むのを感じた。
前なら、多分イラついていた。
無防備で、
何も知らなくて、
笑っている優子に。
でも今は違った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
微笑ましい、と思った。
凪海は立ち上がる。
フードを被り直す。
「じゃ、また」
優子がひらひら手を振る。
「死なない程度にねー」
軽い声。
凪海は背を向けて歩き出す。
胸の奥では、
さっき悠太に握られた手の感触が、まだ少しだけ残っていた。
いつものバーは、相変わらず煙で満ちていた。
低い音楽。
グラスの触れる音。
誰かの笑い声。
凪海はそれを通り過ぎる。
カウンターも見ない。
奥の扉へ向かう。
取っ手に触れる。
冷たい。
扉を開ける。
部屋の空気は、外より重かった。
豊島はソファに深く腰掛けている。
煙草の火だけが赤い。
部屋の端には部下が二人。
誰も喋らない。
凪海が入った瞬間。
豊島が立ち上がる。
次の瞬間、頬に衝撃が走った。
乾いた音。
凪海の顔が横へ弾かれる。
数歩よろける。
頬が熱い。
遅れて痛みが広がる。
じんじんする。
豊島は怒っている。
「電話」
凪海は顔を戻す。
豊島の目は笑っていない。
「反抗的だったな」
凪海は何も言わない。
頬が熱を持っている。
痛い。
なのに。
胸の奥では、別の感覚もあった。
暖かい。
妙に安心するみたいな感覚。
殴られたのに。
そのことに、自分で少し吐き気がした。
豊島は煙草を咥える。
「最近、お前変わったな」
火をつける。
「変な男でもできたか?」
凪海の指先が少し動く。
悠太の顔が頭をよぎる。
静かな目。
触れた手。
凪海はすぐにその記憶を押し込める。
「……要件は」
豊島が笑う。
「素直じゃねぇな」
煙を吐く。
「また流せ」
短く言う。
「警察の動き」
凪海は黙る。
豊島は続ける。
「最近、歌舞伎町で張り込み増えてる。どこ見てるか、誰が動いてるか。全部」
凪海は数秒だけ目を閉じる。
豊島は待たない。
「聞いてんのか」
凪海は返す。
「……分かった」
躊躇いは見せない。
それが今の自分の役目だった。
豊島は満足そうに笑う。
「いい子だ」
その言葉が気持ち悪い。
でも、凪海は何も言わない。
豊島は灰を落とす。
それから、少し声を落とした。
「あともう一個」
凪海が視線を向ける。
豊島の目が細くなる。
「竹田」
空気が少し変わる。
「家どこだ」
凪海の呼吸が一瞬止まる。
豊島は続ける。
「家族は?。女いるか?。弱みになるもん、全部欲しい」
淡々としていた。
まるで当たり前みたいに。
「万が一の時、脅せるようにな」
凪海は少し黙る。
ほんの少しだけ。
豊島の目が鋭くなる。
「……なんだよ」
凪海は視線を落とす。
頭の中に二人の顔が浮かぶ。
優子。
笑っていた顔。
そして竹田。
“今ならまだ戻せるかもしれない”
その声。
豊島が急に声を荒げる。
「考える必要あるか?」
机を叩く。
凪海の肩がわずかに揺れる。
「お前、誰のおかげで優子守れてると思ってんだ」
脅しだった。
凪海は唇を噛む。
分かっている。
ここで逆らえば、終わる。
優子も。
自分も。
部屋の空気が重い。
煙草の匂い。
酒の匂い。
息が詰まりそうだった。
凪海はゆっくり口を開く。
「……家は杉並」
声が掠れる。
「独身」
「親は地方」
「一人暮らし」
言葉が落ちるたび。
胸の奥が冷えていく。
豊島は静かに笑った。
満足そうに。
凪海は視線を落としたまま動けなかった。
頭の奥で。
悠太の声だけが、妙に遠く響いていた。
豊島の店を出たあとも、頬の熱は消えなかった。
夜風が当たるたび、じんじんする。
凪海はフードを深く被ったまま歩く。
胸の奥が重い。
竹田の情報を流した。
口にした瞬間、
自分の中で何かが少し壊れた気がした。
それでも歩く。
止まれない。
止まったら、多分全部考えてしまう。
待ち合わせ場所は、高架下だった。
竹田は缶コーヒーを片手に立っている。
スーツ姿。
少し疲れた顔。
凪海を見ると、小さく手を上げた。
「遅かったな」
凪海は返事をしない。
壁にもたれる。
気まずかった。
視線を合わせづらい。
竹田はそれに気づいているのかいないのか、いつも通りの声で言う。
「で、最近なんか動きあるか」
凪海は少しだけ考える。
豊島の話はできない。
絶対に。
喉の奥が重い。
だから、別の情報を口にする。
「西側のグループ」
竹田の目が少し動く。
凪海は続ける。
「最近、歌舞伎町の外れで回してる。売人は二人。受け渡しは深夜。今週、場所変える」
竹田は黙って聞いている。
凪海は淡々と続ける。
「駅裏の古い駐車場。黒のワゴン。多分、木曜」
竹田が少し眉を寄せる。
「……薬の話じゃん」
凪海の指先が少し止まる。
竹田は続ける。
「お前、薬には関わらないって言ってなかったか」
凪海は一瞬だけ動揺した顔をする。
それを誤魔化すみたいに鼻で笑う。
「……気が変わった」
竹田はじっと凪海を見る。
探るみたいに。
凪海は視線を逸らす。
「別にいいでしょ。情報渡したんだから、ちゃんと金ちょうだい」
わざと軽く言う。
竹田は少しだけ黙る。
それからポケットから財布を出した。
中から、一万円札を抜く。
少ししおれている。
凪海に差し出す。
「ほら」
凪海は受け取る。
しわを見て顔をしかめる。
「なにこれ。もっと綺麗なのないの」
竹田が少し笑う。
「贅沢言うな」
凪海は文句を言いながら、ポケットへ突っ込む。
沈黙。
高架の上を電車が通る。
低い振動。
竹田がふと思い出したみたいに言う。
「そういや、藤堂んとこ、どうだ」
凪海は少し顔をしかめる。
「別に。相変わらず、いつも通り話さないし」
竹田が小さく笑う。
「そっか」
凪海は眉を寄せる。
「……何。なんで笑ったの」
竹田は缶コーヒーを見ながら言う。
「いや」
「最近、お前ちょっと顔明るいから」
凪海の顔が止まる。
すぐに嫌そうな顔をした。
「気持ち悪」
竹田は肩をすくめる。
「でもまあ」
少し空を見上げる。
「無言の時間でも、いい時間ってあるんだな」
凪海は数秒黙る。
悠太の診療室が頭に浮かぶ。
静かな部屋。
何も喋らない男。
なのに、不思議と落ち着く空気。
凪海はフードの奥で、小さく息を吐く。
「……まあ」
少しだけ間を置く。
「多少は」
竹田はそれ以上何も言わなかった。
ただ少しだけ安心したみたいに笑った。




