第十三話
パトカーの中は静かだった。
赤色灯は回っていない。
竹田が運転席で前を見ている。
凪海は後部座席に座ったまま、窓の外を見ていた。
新宿の光が流れていく。
ぼやけて、滲んで、すぐ消える。
凪海が小さく言った。
「……最後に」
竹田は視線を前に向けたまま。
「何だ」
凪海は少し間を置く。
「悠太に会いたい」
竹田はすぐには答えなかった。
ワイパーが一度だけ動く。
やがて、小さく息を吐く。
「……少しだけだぞ」
凪海は何も返さない。
でも、少しだけ肩の力が抜けた。
診療所は、夜になると余計に静かだった。
白い灯りだけが点いている。
受付には誰もいない。
竹田が扉を開ける。
「藤堂」
奥から足音がする。
悠太が出てくる。
白衣姿。
相変わらず無表情だった。
けれど、凪海の後ろに立つ竹田を見た瞬間、空気が少しだけ変わる。
悠太は何も聞かない。
ただ静かに診療室へ視線を向ける。
「どうぞ」
凪海はゆっくり中へ入る。
いつもの部屋。
ソファ。
時計。
静かな空気。
なのに今日は、全部少し違って見えた。
竹田は壁際に立つ。
悠太は椅子へ座る。
凪海はソファへ腰を下ろした。
数秒。
誰も喋らない。
時計の音だけが響く。
やがて凪海が口を開いた。
「……私」
声が掠れる。
「捕まる」
悠太は黙って聞いている。
凪海は笑おうとする。
でも上手くできない。
「警察に情報流して、逆に利用されて、結局、普通に逮捕」
乾いた笑い。
「ダサ」
悠太は何も言わない。
その静けさが、逆につらかった。
凪海は俯く。
「……変われなかった」
声が震える。
「結局また犯罪して、また人裏切って、また捕まって」
喉が詰まる。
視界が滲む。
「私、結局」
涙が落ちる。
止まらない。
凪海は顔を隠すみたいに俯いた。
「何も変われてないじゃん……っ」
肩が震える。
悠太は静かに立ち上がる。
凪海の前まで来る。
少しだけ屈む。
低い声。
「変わってます」
凪海は泣いたまま顔を上げる。
悠太は続けた。
「最初に会った頃のあなたなら、今みたいに泣かなかった」
凪海の目が揺れる。
悠太は静かに言う。
「誰かを傷つけても、自分を傷つけても、どうでもいい顔をしてた。でも今は違う。苦しいって、ちゃんと分かってる。怖いって、ちゃんと言える」
悠太は凪海を見る。
「それは変化です」
凪海は涙を拭えないまま、悠太を見ている。
竹田が壁際で静かに時計を見る。
「……そろそろ」
低く言う。
凪海の肩が小さく揺れる。
けれどその瞬間。
「待ってください」
悠太が言った。
竹田が少し眉を上げる。
悠太は凪海を見たまま続ける。
「あなたが一番怖がってたのは」
少し間を置く。
「変わることです」
凪海は瞬きをする。
悠太は静かな声で言う。
「今までの生き方をやめること、傷つく側じゃなくなること、誰かを信じること、普通になること、全部、怖かった」
凪海は何も言えない。
悠太は少し笑う。
本当に少しだけ。
「でも、変わるのが怖かったのは、僕も同じでした」
竹田が静かに悠太を見る。
悠太は続ける。
「僕はずっと、彼女がいた場所から動けなかった。この街も、仕事も、全部、変わったら、忘れる気がしてた」
凪海の目が少し開く。
悠太は静かに言った。
「だから決めました。東京を出ます」
凪海が息を止める。
「壱岐島で、小さい診療所をやることになりました。長崎の離島です。不便で、何もない場所らしいです」
少しだけ笑う。
「でも、思い出はここに置いていかなくていい」
胸へ手を当てる。
「ちゃんと持ったまま、新しい場所で生きていける」
部屋が静かになる。
時計の音だけが響く。
悠太は凪海を見る。
「あなたも、多分できます。少年院に入って、苦しいこともあると思う。でも、今のあなたなら、乗り越えられる。昔のあなたとは違うから」
凪海の涙がまた落ちる。
なのに。
口元だけ少し笑っていた。
「……バカみたい」
泣きながら言う。
悠太も少しだけ笑う。
「君もです」
その空気を切るみたいに、竹田が静かに近づく。
「時間だ」
低い声。
悠太は少しだけ凪海を見る。
凪海も見る。
何か言いかける。
でも、言葉にならない。
竹田が二人の間へ入る。
凪海を立たせる。
凪海は最後まで悠太を見ていた。
悠太も、見ていた。
診療室の白い灯りの中で。
二人とも、少しだけ変わった顔をしていた。
警察署へ向かう車の中で、もう会話はほとんどなかった。
窓の外を、景色が流れていく。
赤信号。
コンビニの灯り。
歩道を歩く人影。
全部、いつも通りだった。
なのに凪海だけが、そこから切り離されていくみたいだった。
助手席の竹田は、ずっと前を見ている。
ラジオもつけていない。
ただ、エンジン音だけが静かに続いている。
やがて車が警察署の前で止まる。
古い建物。
白い灯り。
眠らない場所。
竹田がエンジンを切る。
沈黙。
数秒。
竹田が申し訳なさそうに言った。
「……悪かったな」
凪海は動かない。
竹田はハンドルを見たまま続ける。
「利用した」
「お前のこと」
声は静かだった。
言い訳をしない声。
凪海は少しだけ視線を向ける。
竹田の横顔は、いつもより疲れて見えた。
凪海は小さく鼻で笑う。
「それが仕事でしょ」
竹田は何も返さない。
凪海はドアに手をかける。
そのとき、竹田が言った。
「少年院入っても」
少し間を置く。
「ちょくちょく顔は出す」
凪海は一瞬だけ止まる。
それから嫌そうな顔をした。
「……気持ち悪」
竹田が少し笑う。
凪海は続ける。
「やめて、ストーカー多すぎなんだけど最近」
竹田は肩をすくめる。
「お前の周り変なのしかいないな」
凪海は少しだけ笑う。
ほんの少しだけ。
それが消える前に、ドアを開ける。
夜の空気が流れ込む。
凪海は車を降りる。
警察署の入口を見る。
もう後戻りはできない。
けれど、不思議と前みたいな絶望はなかった。
怖い。
それはまだある。
でも。
悠太の言葉が、胸の奥に残っていた。
──昔のあなたとは違うから。
凪海はフードを少し深く被る。
背後で竹田が見ている気配がした。
心配そうな視線。
凪海は振り返らない。
そのまま、一歩ずつ警察署の中へ入っていく。
白い灯りが、ゆっくり彼女を飲み込んだ。




