第八話
高瀬が捕まってから数日後。
凪海のスマホが震えた。
画面には、知らない番号。
けれど、出る前から誰か分かっていた。
凪海は人通りの少ない路地で立ち止まる。
数秒だけ画面を見る。
それから通話に出る。
「……はい」
雑音。
その向こうで、低い声がした。
「来い」
豊島だった。
場所だけ告げて、電話は切れる。
短かった。
凪海はしばらくスマホを見ている。
嫌な予感じゃない。
もっと輪郭のあるもの。
“来た”
そんな感覚だった。
夜。
凪海は地下のバーへ向かう。
いつもの階段。
湿った空気。
煙草の匂い。
けれど今日は、店の空気が少し違った。
視線が多い。
客たちが、凪海をちらちら見ている。
誰も話しかけない。
凪海はそのまま奥の扉へ向かう。
ノックはしない。
扉を開ける。
豊島はソファに座っていた。
煙草を咥えている。
部屋には他にも男が二人いた。
どちらも見覚えがある。
豊島側の人間だった。
凪海は部屋へ入る。
扉が閉まる音。
その瞬間、逃げ場が消える。
豊島は煙を吐く。
「高瀬、捕まったな」
凪海は返事をしない。
豊島は続ける。
「しかも、その直前にお前が死体見つけた」
低い声。
責める口調ではない。
その方が逆に怖かった。
凪海は壁際に立ったまま言う。
「偶然」
豊島が少し笑う。
「新宿に偶然なんかねえよ」
部屋が静かになる。
豊島は凪海をじっと見つめる。
「最近、警察とも会ってるらしいな」
凪海の指先が、わずかに止まる。
竹田。
どこかで見られていた。
豊島は煙草を灰皿に押しつける。
「竹田、だっけか」
凪海は何も言わない。
豊島は続ける。
「別に警察と喋るなとは言わねえ」
「でもな」
視線が細くなる。
「こっちを売るなら話は別だ」
空気が重くなる。
部屋の奥の男たちも、黙ったまま凪海を見ている。
豊島はソファに深く座り直す。
「警察の情報流せ」
凪海の眉がわずかに動く。
「……は?」
「ガサの話とか、捜査の動きとか」
豊島は当たり前みたいに言う。
「竹田、お前に期待してんだろ」
凪海はすぐに返す。
「無理、「そんな深い話してない」
「じゃあ深くしろ」
即答だった。
凪海は豊島を見る。
視線がぶつかる。
「嫌」
短く言う。
「私は薬には関わらないって言った」
豊島は数秒黙る。
それから、小さく笑った。
「ほんと真面目だな、お前」
その笑い方が、逆に冷たい。
豊島はポケットからスマホを取り出す。
画面を数回触る。
そして、そのまま凪海へ向けた。
優子の写真だった。
知らない男と一緒にいる。
目が少し虚ろだ。
テーブルの上には、小さな袋。
凪海の目が止まる。
豊島は静かに言う。
「優子、最近うちから買ってる」
部屋の空気が、一気に冷える。
凪海は動かない。
けれど呼吸だけが少し浅くなる。
豊島は続ける。
「知らなかったか?」
凪海は何も言わない。
豊島は煙草に火をつける。
「別に珍しくねえよ」
「この街じゃ、みんな何かしら壊して生きてる」
煙がゆっくり流れる。
豊島はそのまま言った。
「警察に流せば、優子は終わる」
凪海の視線が揺れる。
「未成年」
「薬」
「援交」
豊島は指を折る。
「まとめて飛ぶぞ」
凪海の喉が、小さく動く。
豊島は低く続ける。
「お前一人なら好きにしろ。でも、周り巻き込まれても平気か?」
沈黙。
換気扇の音だけが響く。
凪海は唇を噛む。
頭の中で、優子の笑い声が浮かぶ。
胸の奥が、ゆっくり冷えていく。
豊島はもう追い込めたと思っている顔だった。
「どうする」
凪海はしばらく動かない。
やがて、小さく息を吐く。
視線を落としたまま、低く言う。
「……分かった」
豊島の口元が、わずかに歪む。
凪海は続けた。
「情報、流す」
その言葉は、喉に引っかかるみたいに重かった。
それからだった。
凪海は、竹田から聞いた情報を少しずつ豊島へ流すようになった。
「東口に私服いる」
「今日はガサ来るかも」
「西側の路地、張られてる」
そんな小さな情報だけ。
けれど、それだけで十分だった。
豊島側は動きを変える。
受け渡し場所を変え、
運び屋を変え、
薬を流す時間を変える。
そのたびに、竹田たちの捜査は空振りになる。
地下の店。
煙の中。
豊島は笑う。
「助かる」
凪海は何も返さない。
ただ、その度に胸の奥が少しずつ重くなっていった。
せっかく抜けられると思っていた。
竹田と関わって、
豊島から距離を取って、
普通に戻れるかもしれないと、
ほんの少しだけ思っていた。
なのに。
結局また、同じ場所にいる。
薬。
裏切り。
嘘。
新宿の湿った空気の中へ、また沈み直している。
凪海はその感覚に耐えられなかった。
だから酒を飲んだ。
前より増えた。
スト缶だけじゃ足りない。
バーで飲み、
路上で飲み、
酔ったまま朝を迎える日もあった。
酔っている間だけ、頭の中が少し静かになる。
記憶が繋がらない。
考えなくて済む。
その日も、凪海は酔っていた。
新宿東口。
ネオンが滲んで見える。
足元が少し揺れる。
フードを被ったまま、凪海は路地を歩いていた。
スマホが何度か震えていた。
見ない。
優子かもしれない。
竹田かもしれない。
どうでもよかった。
「お姉ちゃん」
声。
凪海は無視する。
「ねえ」
今度は腕を掴まれる。
中年の男だった。
スーツ姿。
酒臭い。
顔が赤い。
「一人?」
凪海は腕を振り払う。
「違う」
男は笑う。
「嘘じゃん」
距離が近い。
酒と加齢臭が混じっている。
凪海は顔をしかめる。
男は気づかない。
「ホテル行こうよ。金出すし」
凪海は歩き出す。
男がまた追ってくる。
「ねえって、無視すんなよ」
腕を掴まれる。
強く。
その瞬間。
胸の奥に溜まっていたものが、一気に溢れる。
豊島。
薬。
裏切り。
竹田。
死体。
全部が混ざる。
男はまだ喋っている。
「最近のガキほんと感じ悪——」
凪海が振り返る。
そのまま男の胸を突き飛ばした。
勢いは、自分でも思っていたより強かった。
男の体が後ろへよろける。
酔っていた。
足がもつれる。
そのまま、後頭部を地面へ打ちつける。
鈍い音。
男が動かなくなる。
空気が止まる。
周囲の通行人が振り返る。
誰かが小さく声を上げる。
「やば……」
凪海は立ち尽くす。
呼吸だけが速い。
頭の中が真っ白になる。
男の頭の横に、血が少し広がっていく。
その光景を見た瞬間。
父親の記憶がよぎる。
怒鳴り声。
振り下ろされる手。
床に倒れる音。
凪海の喉が震える。
「……っ」
自分がやった。
自分の暴力で。
その時、遠くでサイレンが鳴る。
近い。
誰かが通報していた。
数分もしないうちに、警察が来る。
人だかりができる。
逃げようと思えば、逃げられたかもしれない。
けれど凪海は動かなかった。
パトカーの赤色灯が、濡れた地面を照らす。
警官が駆け寄る。
「君!」
凪海はぼんやり顔を上げる。
酔いが少し冷め始めていた。
男は担架へ乗せられる。
警官が凪海の腕を掴む。
「傷害の現行犯で——」
その言葉を聞きながら。
凪海は、自分の手を見ていた。
震えている。
父親と同じ手だった。
留置場の朝は、相変わらず静かだった。
頭は少し痛い。
酒が抜けきっていなかった。
それ以上に、昨夜の感触が残っている。
男が倒れる音。
血。
自分の手。
凪海は目を閉じる。
胸の奥が、重い。
しばらくして、鉄格子の向こうから声がした。
「佐々木」
若い警官だった。
「出れるよ」
凪海はゆっくり顔を上げる。
「……は?」
警官は書類を見ながら言う。
「被害届が出てない」
凪海は数秒、意味を理解しなかった。
警官は少し苦笑する。
「まあ、多分、未成年ナンパしてホテル誘ってたの、会社にバレたくないんだろ」
軽い言い方だった。
「世間体ってやつ」
凪海は何も言わない。
警官は続ける。
「頭打って気絶しただけで済んだしな。運良かったよ」
運。
その言葉が少し引っかかった。
凪海は立ち上がり、留置場を出る。
署の廊下は妙に白かった。
外へ出ると、曇った空気が肺に入る。
そこで、竹田が待っていた。
壁に背を預け、缶コーヒーを持っている。
凪海を見ると、小さく息を吐いた。
「元気そうで安心した」
凪海は顔をしかめる。
「嫌味?」
「半分くらい」
竹田は缶を投げる。
凪海が片手で受け取る。
冷たい。
竹田は凪海を見る。
その目は、前より少し真剣だった。
「君さ」
凪海は缶を開ける。
「なに」
竹田は少し黙る。
言葉を選ぶみたいに。
「このままだと、そのうち本当に人殺すぞ」
凪海の指が止まる。
竹田は続ける。
「頭いいのは分かってる。記憶力も、判断力も、異常なくらいある。でも」
声が低くなる。
「壊れ方が危ない」
凪海は視線を逸らす。
竹田はポケットに手を入れる。
「だから条件つき」
凪海が少し眉を寄せる。
「何の?」
竹田は即答する。
「前と同じで報酬は出す」
「情報も買う」
「ただし」
少し間を置く。
「毎週一回、面談受けろ」
凪海は露骨に嫌そうな顔をした。
「は?。心理療法のカウンセリング」
凪海はすぐに鼻で笑う。
「無理」
「絶対行かない」
竹田はその反応を予想していた顔だった。
「まあそう言うと思った。でも条件」
凪海は睨む。
竹田は続けた。
「俺じゃ、もう君を抑えきれない」
風が吹く。
署の前の旗が揺れる。
竹田は珍しく真面目な顔をしていた。
「犯罪に慣れすぎてる。暴力にも。でも、完全には壊れてない」
凪海は何も言わない。
竹田は視線を少し落とす。
「だから今なら、まだ戻せるかもしれない」
凪海は小さく舌打ちする。
「勝手に決めんな」
竹田は苦笑する。
「決めてない。提案」
そう言って、ポケットから紙を取り出す。
診療所の住所。
名前。
“藤堂 悠太”
凪海は紙を見る。
「……誰」
「知り合い」
竹田は言う。
「昔の後輩」
凪海は興味なさそうに紙を見る。
竹田は続ける。
「二十八くらいで東大の院出てる」
凪海が少しだけ眉を動かす。
竹田は笑う。
「めちゃくちゃエリート。本来ならもっとデカい病院行ってるようなやつ。でも今は小さい診療所いる。変人だから」
凪海は少し呆れた顔をする。
「胡散臭」
「否定はしない」
竹田は即答する。
「背も無駄に高いしな。見上げると首痛い」
凪海は少しだけ笑いそうになる。
ほんの少しだけ。
竹田はそれを見て、小さく息を吐く
凪海は紙を見る。
白い紙。
診療所の住所。
知らない名前。
凪海はしばらく黙っていた。
やがて、紙をポケットへ突っ込む。
「……一回だけ」
竹田は頷く。




