第七話
凪海は動かなかった。
薄暗い部屋の中で、金髪の男の目だけが開いたままこちらを見ている。
もう何も映していない目だった。
部屋の奥では、換気扇が壊れかけた音を立てている。
カタ、カタ、と一定のリズム。
血の匂いに混じって、甘ったるい薬の匂いが鼻に残る。
凪海はゆっくり視線を落とす。
凪海の喉が、小さく動く。
頭の中で、記憶が勝手に繋がっていく。
地下の店。
煙。
ボトル。
怯えた運び屋。
“場所は”
そして、豊島。
あの低い声。
“お前みたいなのは貴重だからな”
凪海は息を吐く。
冷たい。
指先が少し震えている。
この男は、薬をやっていた。
そして、死んだ。
被害者の女も、薬に関わっていた。
二人とも、豊島との関係がある。
それだけは、もう分かる。
凪海はゆっくり部屋を見回す。
争った跡。
倒れた椅子。
床の擦れ。
殺されたばかりではない。
けれど、時間もそこまで経っていない。
もし今、豊島側の誰かが戻ってきたら。
凪海の視線が、男の死体に落ちる。
“見られた”
そう判断されれば終わる。
胸の奥が、じわじわ冷えていく。
逃げたい。
今すぐここを出て、何も見なかったことにしたい。
いつもなら、そうしていた。
関わらない。
見ない。
忘れる。
新宿では、それが正しい。
けれど——
凪海は死体を見る。
この男は、昨日まで笑っていた。
ダサいナンパをして。
周囲に笑われて。
それでも生きていた。
なのに今は、床に転がっている。
次にこうなるのが、自分じゃない保証はない。
豊島は、必要なら人を消す。
その現実が、ようやく凪海の中で輪郭を持ち始めていた。
凪海は壁に背を預ける。
頭が熱い。
けれど思考だけは妙に冴えていた。
このまま黙っていても、いずれ巻き込まれる。
竹田に近づいていることがバレても終わる。
なら——
中途半端に怯えているより。
先に全部、潰した方がいい。
豊島グループごと。
その考えが浮かんだ瞬間、自分でも少し驚いた。
警察に協力する。
豊島を売る。
少し前までなら、絶対に考えなかった。
けれど今は。
床に転がる死体が、その考えを否定できなくしていた。
凪海はポケットからスマホを取り出す。
画面に、自分の顔がぼんやり映る。
顔色が悪い。
目だけが妙に冷えている。
連絡先を開く。
竹田。
指が止まる。
もし電話をすれば、もう戻れない気がした。
やがて、小さく息を吐く。
そして、通話ボタンを押した。
コール音。
一回。
二回。
すぐに繋がる。
「……もしもし」
竹田の声。
凪海は少しだけ目を閉じる。
それから、低く言った。
「今から言う場所」
凪海は死体を見る。
「たぶん、すぐ来た方がいい」
竹田が現場に来たのは、電話から十五分後だった。
階段を駆け上がる足音が、静かな廊下に響く。
「凪海!」
低い声。
凪海は壁際に立ったまま、顔を上げる。
竹田は部屋へ入った瞬間、死体を見る。
その目が、一瞬だけ鋭く変わる。
「……最悪だな」
小さく吐き捨てる。
すぐに無線を取る。
「現場確認。被疑者死亡。鑑識呼べ」
竹田の声は一気に仕事のものになる。
凪海は黙ったまま、それを見ていた。
数分後。
狭い雑居ビルに、警察の人間が次々入ってくる。
無線。
足音。
ビニール手袋の擦れる音。
部屋の空気が、一気に現実になる。
竹田は死体の前にしゃがみ込む。
耳元のピアスを見る。
それから、床の紙片。
ロッカー番号。
その視線だけで、竹田が何かを察したのが分かった。
けれど、何も言わない。
代わりに、立ち上がって凪海を見る。
「君、どこまで見た」
凪海は壁にもたれたまま答える。
「入った時には死んでた」
竹田は数秒、凪海を見る。
嘘を探るみたいに。
けれど、今はそこを追及しない。
「……今日は帰るな。事情聴取がある」
凪海は小さく息を吐く。
「だる」
竹田は少しだけ笑う。
「死体見つけたんだから諦めろ」
鑑識が部屋を調べ始める。
散乱した注射器。
小袋。
血痕。
倒れた椅子。
やがて、一人の鑑識が声を上げた。
「竹田さん」
竹田が振り返る。
鑑識は手袋をしたまま、男の腕を指す。
「抵抗した跡あります」
「爪の間、皮膚片残ってる」
竹田の目が細くなる。
「DNA取れるか」
「たぶん」
部屋の空気が、少し変わる。
凪海は黙ってそれを見ていた。
その瞬間。
この事件が、ただの薬中同士の揉め事では終わらないと分かった。
数日後。
犯人は捕まった。
新宿西側のラブホテル街で、逃げるところを押さえられた。
三十代の男。
痩せた顔。
腕に注射痕。
薬の売人だった。
取り調べで男はすぐ、自分が金髪の男を殺したことを認めた。
けれど——
豊島の名前だけは、一度も口にしなかった。
警察署の取調室。
竹田はファイルを閉じる。
「女の方が先だった」
低い声。
向かいに座る凪海は黙って聞いている。
竹田は続ける。
「取引してるところを、彼女に見られた。だから殺した」
凪海の視線が、少し落ちる。
竹田は煙草を咥えかけて、やめる。
「でも、それを彼氏が知り、脅され始めたらしい」
“薬タダで回せ”
“警察行くぞ”
そんなやり取りが、スマホに残っていた。
竹田は椅子に背を預ける。
「で、最後は男も消した」
部屋が静かになる。
時計の音だけが響く。
凪海は何も言わない。
竹田はそんな凪海を見ながら、机の上に写真を置く。
犯人の顔写真。
痩せた男。
無精髭。
死んだ目。
凪海は、その顔を見た瞬間に分かった。
知っている。
豊島グループの売人だった。
名前も。
縄張りも。
受け持ちの運び屋も。
全部、頭の中に入っている。
凪海は写真を見たまま、動かない。
竹田が言う。
「知ってる顔?」
凪海は数秒黙る。
否定することもできた。
知らないふりも。
けれど。
もう二人死んでいる。
凪海はゆっくり口を開く。
「……豊島のとこの売人」
竹田の目が変わる。
凪海は続ける。
「名前は高瀬」
「東側担当」
「薬流してる」
竹田は黙る。
その沈黙だけで、空気が変わる。
凪海は写真を見る。
高瀬。
何度も見た顔だった。
煙の中。
地下の店。
金を数える指。
全部、思い出せる。
竹田は聞く。
「どこまで覚えてる」
凪海は視線を上げる。
「豊島グループの売人くらいなら、だいたい全部」
その瞬間。
竹田が初めて、本気で凪海を見る。
“使える”
そう理解した目だった。




