表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新宿少女  作者: 深澤敏朗
6/7

第六話

バーの中は、煙と音楽で薄く満たされていた。


低音だけが腹に響くみたいに流れている。


カウンターの奥では、無口なマスターがグラスを拭いていた。


凪海はソファ席に浅く座り、細いストローを噛みながらグラスを揺らしている。


向かいでは、優子が笑っていた。


「でさ、その客が急に泣き出して」


「なんで」


「知らない。“俺ほんとは寂しいんだ”とか言い始めて」


凪海は少しだけ笑う。


「酒弱いんじゃない」


「いや普通にキモかった」


優子が肩を震わせる。


テーブルの上には空いたグラスが増えていた。


照明は暗い。


他の客の顔までは、はっきり見えない。


「ねえ、お姉さんたち」


甲高い男の声だ。


酔っている。


優子が顔を上げる。


男が二人、テーブルの横に立っていた。


片方は黒髪。

もう一人は金髪。


金髪の方が、やけに近い距離で笑っている。


耳に光るピアスが、照明を反射した。


凪海は一瞬だけそこを見る。


左右で形が違う。


片方だけ、黒い石が埋め込まれている。


そのまま視線を戻す。


優子が営業用の笑顔を作る。


「なにー?」


「一緒飲まない?」


金髪が言う。


酒の匂いが強い。


「俺ら奢るし」


優子は凪海を見る。


凪海はグラスを傾けたまま。


「いい」


短かった。


金髪が少し笑う。


「えー冷たくない?」


「友達といるから」


優子もやんわり返す。


普通なら、ここで引く。


けれど男は動かなかった。


黒髪の方は苦笑している。


止めたいのに止められない顔。


金髪はテーブルに手をつく。


「ちょっとくらい良くね?」


距離が近い。


優子の笑顔が少し薄くなる。


「今日はいいかな」


「なんで?」


「気分」


「その気分、変えればいいじゃん」


凪海はグラスを置く。


氷が、小さく鳴る。


「しつこい」


声は低かった。


金髪が凪海を見る。


数秒。


それから笑う。


「何、お前そういう感じ?」


凪海は返さない。


男は凪海を上から下まで見る。


フード。

ピンク髪。

ピアス。


そして、少し口元を歪めた。


「あー」


何か気づいたみたいに笑う。


「君らさ、未成年でしょ」


優子の指先が、わずかに止まる。


金髪はそれを見逃さない。


「図星じゃん」


嬉しそうだった。


「これ店に言ったらヤバくない?」


優子の笑顔が消える。


空気が少し変わる。


周囲の客も、ちらちら見始める。


金髪は調子に乗ったみたいに続ける。


「てか補導とかされんじゃね?」


「大丈夫?」


優子が小さく舌打ちする。


けれど、何も言い返さない。


凪海は男を見る。


じっと。


感情のない目。


男は少しだけ居心地悪そうに笑う。


「……何」


凪海はゆっくり口を開く。


「じゃあ聞くけど」


男の眉が動く。


「未成年って分かってて飲ませようとしてたの、そっちだよね」


金髪の笑顔が止まる。


凪海は続ける。


「さっき“一緒飲もう”って言ったじゃん」


周囲が少し静かになる。


黒髪の男が「あー……」と小さく漏らす。


金髪はすぐに言い返す。


「いや、俺は知らなかったし」


「今わかったんでしょ」


凪海は即答する。


「じゃあ今すぐ離れないとまずくない?」


男の顔が少し引きつる。


凪海は淡々と続ける。


「未成年に飲酒すすめた上に、断られて脅してるってことでしょ」


「店のカメラ残ってるよ」


金髪が黙る。


凪海は男の耳を見る。


ピアスが揺れている。


「あとさ」


凪海が言う。


「本当に通報したら困るの、たぶんそっち」


黒髪の男が吹き出す。


周囲でも、誰かが小さく笑った。


金髪の顔が赤くなる。


「……は?」


「だって」


凪海は首を傾ける。


「未成年引っ掛けようとして失敗してるの、普通にダサいし」


周囲で笑いが漏れる。


今度は、はっきり聞こえた。


黒髪の男が「お前もう帰ろうぜ」と肩を掴む。


金髪はそれを振り払う。


けれど、もう勢いはない。


視線だけが周囲を泳ぐ。


笑われている。


それが分かってしまっている顔だった。


「……クソ」


吐き捨てるみたいに言う。


凪海は何も返さない。


ただグラスを持ち上げる。


もう男を見てもいない。


金髪は数秒立ち尽くし、それから踵を返す。


黒髪の男が「だからやめとけって言ったのに」と苦笑しながら後を追う。


二人の姿が、煙の向こうに消える。


空気がゆっくり戻る。


優子が数秒黙ったあと、吹き出した。


「やば……」


肩を震わせながら笑う。


「顔見た?」


凪海はストローを噛む。


「別に」


優子はまだ笑っている。


「絶対トラウマなってるって」


凪海は返事をしない。


ただ、さっき男の耳で揺れていたピアスだけは、まだ頭のどこかに残っていた。




翌日の夕方。


空は曇っていた。


雨は降っていない。


凪海は新宿駅西口近くの高架下を歩いていた。


竹田に呼ばれた場所は、派手な店でも喫茶店でもなかった。


古い雑居ビルの裏。


人通りの少ない路地。


竹田は自販機の横に立っていた。


煙草を咥えている。

火はついていない。


凪海が近づくと、竹田は小さく手を上げた。


「悪いな、急に」


凪海は返事をしない。


フードを被ったまま、自販機の白い光をぼんやり見ている。


竹田は煙草をポケットに戻した。


「昨日、新宿で死体が出た」


前置きなく言う。


凪海の表情は動かない。


竹田は続ける。


「二十代前半、女」


「路地裏で刺されてた」


遠くで車の音が流れる。


凪海は壁に背を預ける。


「で」


「新宿で動いてるやつ、一応洗ってる」


竹田は凪海を見る。


「君、最近なんか見てないか」


凪海は小さく息を吐く。


「警察って、なんでも知ってるんじゃないの」


「知ってるなら苦労しない」


竹田は即答する。


「この辺、目撃者が消えるの早いんだよ」


新宿の空気はそうだった。


見て見ぬふり。


関わらない。


忘れる。


それが一番楽だからだ。


竹田はポケットから写真を取り出す。


透明なビニールに入った現場写真。


「一応、見といて」


凪海は少しだけ視線を落とす。


濡れたアスファルト。


血。


倒れた女。


長い髪が顔にかかっている。


けれど耳元だけは見えていた。


ピアス。


黒い石。


左右で形が違う。


その瞬間。


凪海の中で、昨夜のバーの光景が戻る。


“未成年でしょ”


笑っていた金髪。


耳元で揺れていたピアス。


同じだった。


凪海の指先が、ほんのわずかに止まる。


竹田はそれを見逃さない。


「……なんかある?」


凪海は数秒黙る。


写真を見ている。


頭の中で、記憶が勝手に並び始める。


煙。

酒。

笑い声。

金髪。

黒い石。


凪海はゆっくり写真を竹田に返す。


「知らない」


竹田は受け取る。


けれど視線は凪海から外さない。


「ほんとに?」


「昨日も言ったけど」


凪海はポケットに手を入れる。


「薬は協力しないから」


「これは殺しだよ」


竹田が返す。


凪海は少しだけ目を細める。


「だから知らないって」


風が吹く。


ビルの隙間を抜ける冷たい風。


竹田はしばらく黙っていた。


それから、小さく息を吐く。


「……まあいい」


写真を封筒へ戻す。


「思い出したら連絡くれ」


凪海は返事をしない。


竹田は続ける。


「どんな小さいことでもいい」


「ピアスでも、服でも、店でも」


その言葉で、凪海の視線が一瞬だけ揺れる。


本当に、一瞬だけ。


竹田は気づく。


でも追及しない。


代わりに、静かな声で言う。


「君、自分で思ってるより顔に出るよ」


凪海は少し眉を寄せる。


竹田は小さく笑う。


「豊島相手の時は隠せても、まだ完全じゃない」


凪海は舌打ちしそうな顔をする。


竹田は肩をすくめる。


「まあ、そのくらいの方が人間っぽいけど」


凪海は何も返さない。


数秒だけ黙る。


それから、低く言った。


「……なんか思い出したら言う」


竹田は頷く。


「助かる」


凪海はそのまま背を向ける。


ネオンの滲む通りへ戻っていく。


歩きながら、頭の中には昨夜の男の顔が残っていた。


笑っていた顔。


少し赤い目。


そして——


耳元で揺れていた、黒い石のピアス。


凪海はグラスを置く。


氷が、小さく鳴る。


優子がまだ怪訝そうに見ている。


「……ほんとになに」


凪海は少しだけ視線を逸らす。


「ちょっと気になるだけ」


「なにが」


「ピアス」


優子は「ふーん」とだけ返す。


そこまで興味はなさそうだった。


凪海は立ち上がる。


「帰る」


「は?」


優子が顔をしかめる。


「まだ来たばっかじゃん」


「用事できた」


優子は少し呆れた顔をする。


「最近ほんと勝手」


凪海は返事をしない。


フードを深く被り直すと、そのまま店を出る。


地下階段を上がる。


夜の空気が、少し冷たかった。


凪海はポケットに手を入れたまま歩き出す。


向かう先は、歌舞伎町の外れ。


雑居ビルが並ぶ裏通りだった。


古いゲームセンター。

シャッターの閉まった店。

怪しいマッサージ店。


その隙間みたいな場所に、小さなバーがある。


看板もほとんど光っていない。


凪海は扉を押す。


ベルが鳴る。


中は暗かった。


カウンター席に数人。


煙草の煙。


酒の匂い。


そして、少し甘ったるい、薬の匂い。


カウンターの奥にいた男が、凪海を見る。


細い目。


痩せた頬。


腕にタトゥー。


「おー」


男が笑う。


「珍しいじゃん」


凪海はカウンターに肘をつく。


「健斗」


健斗は煙草を咥えたまま笑う。


売人だった。


豊島ほど大きくない。


けれど、新宿の流れには詳しい。


「今日はなに」


凪海は単刀直入に聞く。


「金髪の男探してる」


健斗の眉が少し動く。


「どんな」


「左右違うピアス」


「黒い石」


健斗は少し考える。


煙を吐く。


「あー……」


思い出したみたいに笑う。


「たぶん分かった」


凪海は黙る。


健斗は続けた。


「最近よく見た」


「薬買ってたよ」


凪海の視線が少し細くなる。


「どこで」


健斗はカウンターを指で叩く。


「東の方の雑居ビル」


「古いとこ」


「三階で受け渡ししてる」


凪海は覚える。


番地も、入口の看板も、階段の位置も。


健斗は凪海を見る。


「知り合い?」


凪海は答えない。


健斗は少し笑う。


「まあいいけど」


「でも最近見ないよ、そいつ」


その言葉が、少し引っかかった。


凪海は店を出る。


夜風が煙草の匂いを流していく。


教えられた雑居ビルは、十分ほど歩いた場所にあった。


古いビルだった。


外壁は汚れていて、看板の半分が消えている。


入口は暗い。


奥へ細い階段が伸びていた。


凪海は中へ入る。


湿った匂い。


酒。

煙草。

カビ。


足音だけが響く。


三階まで上がる。


途中、誰ともすれ違わない。


妙に静かだった。


廊下の奥。


扉が半分だけ開いている。


中は暗い。


けれど、何かが倒れているのが見えた。


凪海は足を止める。


嫌な予感が、ゆっくり形になる。


近づく。


床に、男が倒れていた。


金髪。


黒い服。


耳元には、あのピアス。


黒い石が、薄暗い部屋の中で鈍く光っている。


男の目は開いたままだった。


口元には血が流れている。


乾き始めていた。


凪海は動かない。


部屋の奥を見る。


散乱した注射器。


小袋。


倒れた椅子。


争った跡。


そして——


壁際。


見覚えのある紙片。


ロッカー番号。


豊島の店で見たものと、同じ形式だった。


凪海の呼吸が、少しだけ浅くなる。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ