第五話
凪海はコンビニの前にしゃがみ込み、スト缶を膝の間に挟んでいた。
夜の新宿は相変わらず騒がしい。
笑い声。
客引き。
タクシーのブレーキ音。
全部が混ざって、遠くで鳴っているみたいに聞こえる。
優子は隣でスマホを見ている。
爪の先で画面を弾きながら、小さく舌打ちした。
「だる……」
「なに」
「客」
優子はスマホを凪海に向ける。
“今から行ける?”
“ホ別1で”
そんな文面。
凪海は一瞬だけ見て、缶を口に運ぶ。
「ケチ」
「ほんとそれ」
優子は笑う。
けれど、その笑いは少し疲れていた。
凪海は何も言わない。
優子の顔色が、最近少し悪いことに気づいていた。
寝不足だけじゃない。
酒と、男と、夜の匂いが、少しずつ身体を削っている。
でも、それを言ったところで、意味がないことも分かっていた。
優子はスマホをしまう。
「てかさ」
「ん?」
「最近、変じゃない?」
凪海は視線だけ向ける。
「なにが」
「ぼーっとしてる」
優子は缶を揺らす。
氷が小さく鳴る。
「前より喋んないし」
凪海は少し考える。
「元からこんなだけど」
「いや、なんか違う」
優子はそう言って、凪海の顔を見る。
凪海は視線を逸らす。
竹田の名刺はポケットの中に入ったままだった。
それだけが、妙に気持ち悪かった。
優子が煙草に火をつける。
「……なんかあった?」
煙が流れる。
凪海は少し黙る。
「別に」
優子はそれ以上聞かない。
聞いても言わないことを知っている。
それが二人の距離だった。
しばらくして、優子のスマホが震える。
画面を見た瞬間、優子の顔が少しだけ固まる。
「……は?」
小さく漏れる声。
凪海が見る。
「どした」
優子はすぐに笑う。
作ったみたいな笑顔。
「いや、前の客」
「うざい?」
「まあ」
けれど、スマホを握る指先が少し強い。
凪海はそれを見る。
既読のついた画面。
“会いたい”
“お前だけ特別だから”
“無視すんな”
何通も並んでいた。
凪海は視線を落とす。
「切れば」
優子は苦く笑う。
「そう簡単なら苦労しないって」
風が吹き、煙草の煙が流れる。
優子はスマホを消すと、急に明るい声を出す。
「ま、いいや。今日あと一件やったら帰ろ」
凪海は頷く。
そのときだった。
通りの向こうで、怒鳴り声が聞こえた。
酔っ払い同士の喧嘩かと思った。
けれど、人の流れが少し止まる。
ざわめきが広がる。
優子が顔を上げる。
「……なに?」
凪海も視線を向ける。
男が一人、女の腕を掴んでいた。
かなり強く。
女は嫌がっている。
けれど、男は笑っている。
周囲は見ているだけだった。
誰も止めない。
新宿では、珍しくない光景だからだ。
優子が小さく舌打ちする。
「最悪」
凪海は黙って見ている。
男の顔。
酒。
赤い目。
乱れたスーツ。
その瞬間、凪海の中で、別の顔が重なる。
父親。
川上。
豊島。
全部、一瞬で繋がる。
男が、女を引っ張る。
女の肩が揺れる。
凪海は立ち上がっていた。
優子が「あ」と声を漏らす。
凪海はもう歩き出している。
男の前まで行く。
「離して」
低い声。
男が振り返る。
「は?」
酒臭い息。
女は凪海を見る。
助けを求めているのか、怯えているのか分からない顔。
男が笑う。
「関係ないだろガキ」
凪海は男の手を見る。
女の腕を掴む指。
かなり強い。
痕が残るくらい。
その瞬間、凪海の中で何かが切れる。
気づいた時には、男の頬を殴っていた。
乾いた音。
周囲が静まる。
男の顔が横に流れる。
数秒遅れて、ざわめきが戻る。
「……っ、てぇな!」
男が怒鳴る。
凪海は自分の拳を見る。
骨が少し痛い。
男が掴みかかろうとする。
優子が後ろから凪海の腕を引く。
「やめなって!」
その声で、凪海は少しだけ我に返る。
呼吸が荒い。
胸の奥が熱い。
怖い。
でも、それ以上に——
殴った瞬間、少しだけ楽になってしまった。
遠くで、警察のサイレンが聞こえる。
男が舌打ちして離れる。
「クソガキ……」
吐き捨てるみたいに言って、人混みに消える。
女も何も言わず去っていく。
残ったのは、変な静けさだけだった。
優子が凪海を見る。
「……大丈夫?」
凪海は答えない。
拳を握ったまま。
指先が震えている。
優子は少し黙ってから、静かに言う。
「最近ほんと変だよ、あんた」
凪海はポケットに手を入れる。
指先に、硬い紙の感触が触れる。
竹田の名刺。
その瞬間、凪海はふっと息を吐く。
そして、スマホを取り出した。
少しだけ画面を見つめる。
通話履歴はない。
けれど番号は保存してあった。
凪海の親指が数秒止まり、そのまま、通話ボタンを押した。
コール音。
一回。
二回。
三回目で、繋がる。
「……もしもし」
低い男の声。
竹田だった。
凪海は少し黙る。
新宿の雑音だけが流れる。
それから、短く言った。
「……前の話」
竹田は何も言わない。
凪海は続ける。
「少しだけ、聞く気になった」
電話を切ったあと、竹田に指定された場所は、新宿駅から少し離れた喫茶店だった。
チェーンでもなく、洒落た店でもない。
古いテーブルと、薄暗い照明。
煙草の匂いが壁に染みついている。
凪海は店の前で数秒だけ立ち止まり、それから扉を開けた。
ベルが小さく鳴る。
店内は空いていた。
奥の席に、竹田が座っている。
昨日と同じスーツ。
テーブルには、湯気の消えかけたコーヒー。
竹田は凪海を見ると、小さく手を上げた。
「来ると思わなかった」
凪海は返事をしない。
向かいに座る。
椅子が小さく軋む。
店員が水を置いていく。
凪海は触らない。
竹田は少しだけ凪海を見る。
フード。
薄い隈。
まだ少し赤い拳。
全部見えているみたいだった。
「で」
竹田が口を開く。
「聞く気になった?」
凪海は視線を逸らしたまま言う。
「条件ある」
竹田は少し笑う。
「交渉から入るんだ」
「嫌なら帰る」
即答だった。
竹田は「怖いな」と小さく息を吐く。
それから姿勢を少し崩す。
「聞くだけ聞くよ」
凪海は数秒黙る。
周囲では、小さく食器の触れる音がする。
誰もこちらを見ていない。
「薬はやらない」
竹田は黙って聞いている。
「売人探しも、運び屋も、組の情報も」
凪海は続ける。
「そういうのは流さない」
「じゃあ何ならやる」
「殺し」
竹田の目が、わずかに細くなる。
凪海は続けた。
「行方不明とか、暴力とか」
「そういうのなら」
竹田は少し考える。
「……理由聞いていい?」
凪海は水の入ったグラスを見る。
透明な水面。
「薬は」
少しだけ間が空く。
「周りが普通に触ってるから」
竹田は黙る。
凪海は続ける。
「私が情報流したせいで誰か捕まったら、たぶん終わる」
声は静かだった。
けれど、本音だった。
竹田はしばらく何も言わない。
やがて、小さく頷く。
「なるほどね」
コーヒーを一口飲む。
「じゃあ、薬は切り離す」
凪海は竹田を見る。
竹田は続ける。
「元々、君に潜入捜査やらせる気はない」
「未成年だし、危なすぎる」
凪海は少しだけ警戒を緩める。
竹田はそれを見逃さない。
「ただ」
声が少し低くなる。
「人を見るの、得意だろ」
凪海は返事をしない。
「記憶もいい」
「観察力もある」
竹田は凪海を見る。
「そういうの、こっちには足りない」
凪海は視線を落とす。
竹田は続ける。
「君、“違和感”見つけるの上手いよ」
静かな声だった。
「普通なら流すもんを、ちゃんと覚えてる」
凪海は少しだけ笑う。
「褒めて伸ばすタイプ?」
竹田も少し笑う。
「扱い間違えると逃げそうだから」
その返しで、凪海は少しだけ肩の力を抜く。
短い沈黙。
凪海はやっと自分から口を開く。
「あと」
「ん?」
「報酬」
竹田が目を瞬かせる。
凪海は真顔だった。
「タダ働きしないから」
竹田は数秒黙ったあと、小さく笑う。
初めて少し自然な笑いだった。
「そこちゃんと言うんだ」
「危ないことするんでしょ」
「まあ、そうだな」
竹田はポケットから煙草を出しかけて、店内を見てやめる。
「情報の質による」
「事件に繋がれば出る」
「いくら」
「ケース次第」
凪海は眉を寄せる。
「雑」
竹田は苦笑する。
「警察の経費ってそんな自由じゃないんだよ」
凪海は机に頬杖をつく。
「じゃあ、最低ライン」
竹田は少し考える。
「……情報提供だけなら数万」
「事件解決レベルならもっと出る」
凪海は黙る。
頭の中で計算しているみたいだった。
竹田はその顔を見る。
「生活、きつい?」
凪海は即答しない。
代わりに、ストローの入ってない水を少し飲む。
「普通」
嘘だった。
竹田はたぶん気づいている。
けれど、それ以上聞かない。
「あと」
凪海が言う。
「私のこと、売らないで」
竹田の表情が少し変わる。
声が少しだけ真面目になる。
「君を雑に使う気はない」
凪海はその言葉を数秒考える。
信じてはいない。
でも、完全に嘘にも聞こえなかった。
竹田は椅子に背を預ける。
「じゃあ契約成立?」
凪海は少し黙る。
窓の外では、新宿のネオンが滲んでいる。
やがて、凪海は低く言った。
「……気が向いた時だけ」
竹田は笑う。
「それで十分」
その瞬間だけ、二人の間に少しだけ対等な空気が流れた。




