第四話
少し湿ってた空気が流れる日、凪海は新宿を歩いていた。
ネオンの光が濡れたアスファルトに滲んで、人の影をぼやけさせている。
凪海はフードを被ったまま歩く。
どこへ向かうでもない。
ただ、人の流れに紛れている。
酔った笑い声。
客引きの声。
遠くで鳴る救急車。
全部が重なって、街の音になる。
凪海はポケットに手を入れたまま、横断歩道を渡る。
そのときだった。
前から来た男が、不自然に進路を塞ぐ。
同時に、左右にも人影が止まる。
凪海は顔を上げる。
スーツ姿の男が三人。
そのうち一人が、胸元から黒い手帳を出す。
警察。
周囲の人間は、見て見ぬふりをして通り過ぎていく。
新宿では珍しい光景じゃない。
「佐々木凪海さん」
男の声は低かった。
「ちょっと話、いいかな」
凪海は返事をしない。
視線だけが動く。
逃げ道を探すみたいに。
けれど、もう塞がれている。
男はそれを見て、小さく息を吐く。
胸ポケットから紙を取り出す。
折り目のついた書類。
ゆっくり開く。
「捜査令状」
紙を凪海の目の前に向ける。
「麻薬取引への関与について」
文字が視界に入る。
凪海の表情は変わらない。
けれど、指先だけが、わずかに冷える。
男は紙を戻す。
「署まで来てもらう」
凪海はしばらく黙っていた。
周囲のネオンが、男たちのスーツに鈍く反射している。
逃げられない。
それはもう分かっていた。
「……逮捕?」
凪海が聞く。
男は少しだけ首を傾ける。
「任意で済めば楽だったんだけどね」
そう言いながら、声に柔らかさはない。
凪海は男を見る。
年齢は四十前後。
短く整えた髪。
疲れた目。
けれど、その奥だけは妙に鋭い。
男は凪海の視線を受け止めたまま言う。
「警視庁の竹田」
短い名乗りだった。
「君のこと、前から見てたよ」
凪海は返さない。
竹田も続けない。
ただ、その目だけが凪海を観察している。
試すみたいに。
測るみたいに。
遠くで、誰かが笑っている。
街はいつも通り動いている。
その真ん中で、凪海だけが、急に別の場所へ引きずられたみたいだった。
留置場の中は、妙に静かだった。
音がないわけじゃない。
遠くで誰かが咳をする。
鉄の扉が閉まる音。
巡回する足音。
水の流れる音。
けれど、全部が壁に吸われて、薄くなる。
凪海は壁にもたれたまま座っている。
薄い毛布は畳まれたまま、端に置かれていた。
フードは取り上げられている。
ピンクの髪だけが、白い蛍光灯の下でやけに浮いて見えた。
膝を立て、その上に腕を乗せる。
視線は落ちたまま。
表情は変わらない。
焦りも、怯えも、見えない。
まるで、少し面倒な場所に連れてこられただけみたいだった。
鉄格子の向こうを、警官が通る。
若い男だった。
歩きながら、ちらりと凪海を見る。
「……未成年でここ慣れてるの、どうなんだよ」
独り言みたいに言う。
凪海は反応しない。
警官も返事を期待していない。
そのまま通り過ぎる。
凪海は天井を見る。
白い。
汚れが少しだけ滲んでいる。
ぼんやり眺めているうちに、時間の感覚が薄くなる。
腹は減っている。
けれど、別に食べたくない。
留置所の空気は、不思議と落ち着いた。
誰も触ってこない。
怒鳴られない。
機嫌を読まなくていい。
ただ閉じ込められているだけだった。
凪海は壁に頭を預ける。
目を閉じる。
煙草の匂いも、酒の匂いもない。
静かだった。
その静けさの中で、自分が捕まっていることだけが、妙に現実感を持たなかった。
翌朝、凪海は取り調べ室に座っていた。
白い机と向かい合う椅子。
壁際の古い時計だけが、やけに大きな音を立てている。
窓はない。
蛍光灯の光が、ずっと同じ色で落ちている。
竹田は机の向こうに座っていた。
昨日と同じスーツ。
けれど、目だけが少し赤い。
寝ていないのかもしれなかった。
「で」
竹田がファイルを開く。
紙の擦れる音。
「豊島とは、いつからの付き合い?」
凪海は椅子に浅く座ったまま、視線を落としている。
「知らない」
「知らない相手の仕事、受ける?」
「名前知らなかったし」
竹田は小さく息を吐く。
「じゃあ、何してた?」
凪海は少しだけ間を置く。
「番号、伝えてただけ」
「誰に?」
「その時いる人」
「何の番号?」
「知らない」
即答だった。
表情を探るみたいに、竹田は凪海を見る。
「本当に?」
凪海は肩をすくめる。
「聞かされてないし」
竹田はファイルを閉じる。
乾いた音。
「新宿東口、16番」
「秋葉原西口、20番」
「これ、何だと思ってた?」
凪海は天井を見る。
少し考えるみたいに。
「ロッカーじゃない」
竹田の目が細くなる。
「じゃあ、その中身は?」
「知らない」
「知らないで運んでた?」
「運んでない」
竹田は黙る。
凪海も黙る。
時計の音だけが続く。
カチ、カチ、と一定の速さで部屋を刻んでいる。
取り調べは何日も続いた。
朝になれば部屋へ連れて行かれ、同じことを聞かれる。
豊島との関係。
番号の意味。
運び屋。
薬。
凪海は、同じ答えを繰り返した。
「知らない」
「頼まれただけ」
「中身は見てない」
「番号を伝えてただけ」
竹田は何度も言い方を変えた。
優しく聞く時もあった。
突然強くなる時もあった。
黙ったまま凪海を見続ける日もあった。
けれど、凪海は崩れなかった。
自分が麻薬取引に関わっていたとは絶対に認めない。
竹田は机に肘をつき、指で額を押さえる。
「君さ」
低い声。
「本当に、自分が何してたか分かってなかったと思う?」
凪海は視線を上げる。
竹田を見る。
「分かってたら、今ここで認めてるでしょ」
竹田はしばらく黙る。
嘘を見抜こうとするみたいに、凪海の顔を見ている。
けれど、決定的なものは出てこない。
証拠がない。
薬物を所持していたわけでもない。
運んだ映像もない。
金の流れも薄い。
残っているのは、“番号を伝えていた”という事実だけだった。
数日後。
留置場の扉が開く。
「おい」
警官が呼ぶ。
「出れるよ」
凪海はゆっくり顔を上げる。
驚いた様子はない。
最初から、こうなる気がしていたみたいに。
署の出口には、竹田が立っていた。
煙草は吸っていない。
ただ、壁に背を預けている。
凪海が近づくと、竹田は小さく息を吐く。
「今回はな」
悔しさを押し殺した声だった。
「証拠が足りない」
凪海は何も言わない。
竹田は続ける。
「でも、君が何も知らなかったとは思ってない」
凪海は竹田を見る。
数秒だけ。
それから、ほんの少し口元を歪める。
笑ったのかどうかも曖昧な顔。
「じゃあ、次は頑張って」
そう言って、竹田の横を通り過ぎる。
「なあ」
竹田が声をかける。
凪海は止まらない。
けれど、数歩先で足だけが少し遅くなる。
竹田は壁から背を離す。
「君、頭いいな」
凪海は振り返らない。
竹田は続ける。
「未成年で、あそこまで黙れるやつ、そういない」
静かな声だった。
怒っているわけでも、呆れているわけでもない。
どこか感心しているみたいな声。
「法律も分かってる」
「こっちが踏み込めないライン、ちゃんと知ってる」
凪海はゆっくり振り返り、竹田を見る。
竹田はポケットに手を入れたまま、凪海を見返していた。
「褒めてんの?」
凪海が言う。
竹田は少し笑う。
「半分くらいは」
短く息を吐く。
「普通、あの歳であんな受け答えできないよ」
「豊島の名前も、薬の話も、最後まで直接は認めなかった」
「こっちが欲しい言葉だけ、綺麗に避け続けた」
凪海は何も言わない。
竹田は視線を少し落とす。
それから、ゆっくり口を開く。
「もったいないと思ってさ」
凪海の眉が、わずかに動く。
「何が」
竹田は数秒だけ黙る。
「その頭」
真っ直ぐ言う。
「犯罪者に使われて終わるには」
空気が少し止まる。
署の外では、車の音が流れている。
竹田は続ける。
「協力しないか」
凪海は目を細める。
「警察に?」
「情報提供」
竹田は即答する。
「別に正義の味方やれって話じゃない」
「知ってることを流してくれればいい」
凪海は小さく鼻で笑う。
「裏切れってこと?」
竹田は首を横に振る。
「生き残れって話」
その言葉だけが、少し重く落ちる。
凪海は黙る。
竹田はポケットから名刺を取り出す。
白い紙。
シンプルな名前だけ。
警視庁 竹田。
「協力してくれるなら、身の安全はこっちで見る。謝礼も出す。薬の売人、一人でも飛ばせば金になる」
凪海は名刺を見る。
受け取らない。
竹田はそのまま続ける。
「豊島のとこ、長くないぞ」
低い声。
「君も分かってるだろ」
凪海の視線が、わずかに揺れる。
ほんの一瞬だけ。
竹田はそれを見逃さない。
「君、あそこに染まりきってない。だからまだ、こっちに来れる」
凪海はしばらく動かない。
やがて、竹田の手から名刺を抜き取る。
指先だけで挟むみたいに。
「勘違いしないで」
凪海は低く言う。
「薬とか、そういうのに協力する気ないから」
竹田は頷く。
「それでもいい」
凪海は名刺をポケットに入れる。
「気が向いたら」
それだけ言う。
竹田は小さく笑う。
「十分」
凪海は背を向ける。
今度こそ、止まらない。
夜の空気が、ゆっくり肺に入ってくる。
ポケットの中で、名刺の角だけが少し硬かった。




