川上
外に出ると、夜の湿った空気が肌に貼りつく。
凪海はフードを被ったまま、通りを歩く。
スマホが、一度だけ震える。
画面には、短いメッセージ。
──今から会える?
川上からの連絡だった。
凪海は数秒だけ画面を見る。
それから、短く返す。
──いいよ。
既読はすぐについた。
駅から少し離れた場所にある、古いホテル街。
ネオンの色が滲んで見える。
凪海はその一角で立ち止まる。
数分もしないうちに、向こうから男が歩いてくる。
黒いスーツに短く整えられた髪、ネクタイが少し緩んでいる。
川上だ。
川上は凪海を見ると、少しだけ眉を上げる。
「待った?」
凪海は首を振る。
「今来た」
川上は「そっか」とだけ返す。
川上は小さく笑う。
「今日、機嫌悪そう」
「いつもこんなだけど」
「そうだっけ」
川上は煙草を取り出し、火をつける。
白い煙が、二人の間を横切る。
凪海はその匂いを避けない。
川上が煙を吐きながら言う。
「会社、だるくてさ」
返事は求めていない口調だった。
「また上がうるさいの?」
「うるさい。ほんと」
川上は笑う。
乾いた笑いだった。
「数字数字ってさ。人間見てないんだよな」
凪海は何も言わない。
川上も、別に答えを待っていない。
煙草を持つ指だけが動いている。
凪海は川上を見る。
川上は視線を逸らしたまま、煙を吐く。
「奥さんは?」
「寝てるんじゃない」
軽く、感情のない言い方だった。
その瞬間だけ、凪海の視線がわずかに下がる。
川上の左手の指輪が、街灯の下で鈍く光っている。
凪海はそれを見ても、何も言わない。
川上が煙草を落とし、靴先で火を潰す。
「行こ」
短く言う。
凪海は黙ったまま歩き出す。
川上がその後ろを歩く。
ホテルのネオンが、二人の影をぼやけさせていた。
ホテルの入口は、通りから半分だけ奥まっていた。
紫色のネオンが、湿った地面に滲んでいる。
川上は慣れた様子で、自動ドアをくぐる。
凪海は少し遅れて後ろを歩く。
フロントには誰もいない。
パネルだけが白く光っている。
川上は迷わずボタンを押す。
短い電子音。
部屋番号が表示される。
エレベーターの中は狭かった。
鏡に、二人の姿がぼんやり映っている。
川上はネクタイを緩めたまま、壁に背を預けている。
凪海は鏡を見ない。
階数表示だけを眺めている。
上昇するたびに、数字が変わる。
その音だけが静かに響く。
部屋の扉が開くと、少し冷えた空気が流れてきた。
薄暗い。
間接照明だけが点いている。
ベッドは整えられていて、白いシーツがやけに浮いて見えた。
川上が先に入る。
ジャケットを脱いで、椅子に投げる。
凪海は扉の近くに立ったまま動かない。
オートロックの音が、小さく鳴る。
それで外と切り離される。
川上は冷蔵庫から水を取り出す。
一口飲んでから、凪海を見る。
「疲れてる?」
凪海は少しだけ肩をすくめる。
「別に」
川上は小さく笑う。
「それ、疲れてる時の顔」
凪海は返さない。
川上は近づく。
スーツについた煙草の匂いが、近くなる。
指先が、凪海の髪に触れる。
乾ききっていない毛先を、軽く摘む。
「またちゃんと寝てないだろ」
父親みたいな言い方だった。
凪海は、その手を避けない。
視線だけが、少し下がる。
川上はそのまま、凪海の顎に触れる。
上を向かせるみたいに。
「今日、なんかあった?」
低い声。
凪海は少しだけ間を置く。
「別に」
川上はしばらく凪海を見る。
何かを確かめるみたいに。
やがて、小さく息を吐く。
「……そっか」
その声は、どこか疲れていた。
部屋の外では、遠くで救急車の音が鳴っている。
けれど、この部屋には届かない。
川上が照明を少し落とす。
部屋の輪郭が、さらに曖昧になる。
凪海は黙ったまま、ベットに寝そべった。
スプリングが、小さく軋む。
天井を見上げると、間接照明の淡い色がぼやけて広がっていた。
川上はネクタイを外す。
その動きを、凪海は目で追わない。
聞こえてくる衣擦れの音だけが、部屋の静けさを揺らしている。
川上はベッドの縁に腰を下ろす。
マットレスがわずかに沈む。
「寒くない?」
凪海は首を横に振る。
川上は煙草の残り香をまとったまま、凪海の頬に触れる。
熱を確かめるみたいな手つきだった。
凪海は目を閉じる。
拒まない。
それだけだった。
川上の指が、耳の後ろをなぞる。
ピアスに触れないように避けながら、ゆっくり髪を掻き分ける。
「その髪、色落ちたな」
凪海は薄く笑う。
「金ないし」
「染め直せばいいのに」
「面倒」
川上は小さく息を漏らす。
しばらく、誰も喋らない。
エアコンの低い音だけが続く。
川上は俯いたまま、凪海の手首を軽く掴む。
強くはない。
逃げようと思えば、簡単に抜ける程度。
けれど凪海は動かない。
川上の指先が、脈を探るみたいに皮膚の上を止まる。
「……お前さ」
低い声。
「いつも、どっか遠いよな」
凪海は天井を見たまま、返事をしない。
川上も、答えを待っていない。
ただ、そのまま凪海の隣に身体を沈める。
川上の手が、凪海の頬を撫でる。
指先は優しい。
熱を確かめるみたいに、ゆっくり触れる。
凪海は目を閉じる。
そのまま、川上の指が首筋へ落ちる。
皮膚の上をなぞり、喉元で止まる。
最初は、軽かった。
触れているだけ。
けれど、少しずつ力が入る。
凪海の呼吸が浅くなる。
喉が鳴る。
川上は何も言わない。
暗い部屋の中で、ただ凪海を見ている。
凪海は川上の手首に触れる。
「……くるし」
掠れた声。
川上の目が細くなる。
指の力が、さらに少しだけ強くなる。
凪海の視界は狭くなる。
凪海の胸の奥で、別の記憶が浮く。
酒の匂い。
荒い息。
怒鳴り声。
振り下ろされる手。
小さい頃の部屋。
壁紙の剥がれ。
床に落ちた食器。
全部、一瞬で戻ってくる。
凪海の肩が震える。
「……やめて」
声は弱い。
川上は止めない。
代わりに、凪海の頬を強く叩く。
乾いた音。
顔が横に揺れる。
「ちゃんと見ろ」
低い声。
凪海は息を呑む。
怖い。
本当は、逃げたい。
身体のどこかは、ずっとそう叫んでいる。
それなのに——
川上の手が離れると、喉の奥に奇妙な空白が残る。
凪海は涙で滲んだ視界のまま、川上を見る。
怒っている顔。
疲れている顔。
煙草の匂い。
スーツについた外の空気。
その全部が、昔の父親と重なる。
なのに違う。
父親は、壊すために触れた。
凪海は、自分でも分からないまま、川上のシャツを掴む。
指先が震える。
「……ごめん」
何に対してかも分からないまま、そう言う。
川上はしばらく黙っていた。
やがて、小さく息を吐く。
そのまま凪海の髪に触れる。
今度は、少しだけ優しかった。
凪海は目を閉じる。
怖いのに。
逃げたいのに。
身体のどこかが、その手を待ってしまっている。
それが何より、気持ち悪かった。
川上はベッドの端に腰を下ろしたまま、スマホの画面を見る。
短く光った通知を確認すると、小さく息を吐く。
時刻を見なくても、凪海にはわかる。
もう帰る時間だった。
川上は立ち上がる。
脱ぎ捨てていたジャケットを拾い、皺を伸ばすみたいに軽く払う。
部屋の空気が、少しだけ現実に戻る。
凪海はベッドに横になったまま、それを見ている。
何も言わない。
川上も、急いでいることを隠さない。
ネクタイを締め直しながら、鏡を見る。
その横顔を、凪海はぼんやり眺めている。
「……帰る」
川上が言う。
凪海は小さく頷く。
「うん」
それだけだった。
引き止めない。
“帰らないで”なんて、言えるわけがない。
川上には帰る家がある。
待っている妻がいて、子どもがいて、朝になれば会社に行く。
凪海は、その全部を知っている。
知っていて、ここにいる。
川上は財布を確認し、スマホをポケットにしまう。
凪海は、シーツを胸元まで引き上げる。
「奥さん起きてるかもね」
冗談みたいに言う。
川上は少しだけ笑う。
「だったら面倒だな」
軽い声。
けれど、その言葉の中に凪海はいない。
川上が扉の前で立ち止まる。
一瞬だけ振り返る。
「ちゃんと寝ろよ」
父親みたいに言う。
凪海は薄く笑う。
「努力する」
川上はそれ以上何も言わず、部屋を出ていく。
扉が閉まる。
オートロックの音が、小さく響く。
それだけで、部屋が急に広くなる。
凪海はしばらく動かない。
天井を見る。
間接照明の色が、ぼやけて滲んでいる。
さっきまで首にあった手の感触だけが、まだ皮膚に残っていた。
凪海はゆっくり起き上がる。
乱れた髪を手で適当に整え、パーカーを羽織る。
部屋を出ると、廊下は静かだった。
エレベーターを降りると、夜の空気が流れ込む。
ホテルの中よりは息がしやすい。
凪海はポケットに手を入れたまま歩き出す。
ネオンが滲む。
酔った笑い声。
客引きの声。
タクシーのブレーキ音。
新宿の夜は、誰かの孤独に慣れきっていた。
凪海はフードを少し深く被る。
歩きながら、自分の首に触れる。
まだ少し熱を持っている。
その感触を確かめるみたいに指先を止める。
しばらくして、手を離す。
そのまま、人混みの中へ溶けるように歩いていった。




