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凪海  作者: 深澤敏朗
3/4

川上

外に出ると、夜の湿った空気が肌に貼りつく。


凪海はフードを被ったまま、通りを歩く。


スマホが、一度だけ震える。


画面には、短いメッセージ。


──今から会える?


川上からの連絡だった。


凪海は数秒だけ画面を見る。


それから、短く返す。


──いいよ。


既読はすぐについた。


駅から少し離れた場所にある、古いホテル街。


ネオンの色が滲んで見える。


凪海はその一角で立ち止まる。


数分もしないうちに、向こうから男が歩いてくる。


黒いスーツに短く整えられた髪、ネクタイが少し緩んでいる。


川上だ。


川上は凪海を見ると、少しだけ眉を上げる。


「待った?」


凪海は首を振る。


「今来た」


川上は「そっか」とだけ返す。


川上は小さく笑う。


「今日、機嫌悪そう」


「いつもこんなだけど」


「そうだっけ」


川上は煙草を取り出し、火をつける。


白い煙が、二人の間を横切る。


凪海はその匂いを避けない。


川上が煙を吐きながら言う。


「会社、だるくてさ」


返事は求めていない口調だった。


「また上がうるさいの?」


「うるさい。ほんと」


川上は笑う。


乾いた笑いだった。


「数字数字ってさ。人間見てないんだよな」


凪海は何も言わない。


川上も、別に答えを待っていない。


煙草を持つ指だけが動いている。


凪海は川上を見る。


川上は視線を逸らしたまま、煙を吐く。


「奥さんは?」


「寝てるんじゃない」


軽く、感情のない言い方だった。


その瞬間だけ、凪海の視線がわずかに下がる。


川上の左手の指輪が、街灯の下で鈍く光っている。


凪海はそれを見ても、何も言わない。


川上が煙草を落とし、靴先で火を潰す。


「行こ」


短く言う。


凪海は黙ったまま歩き出す。


川上がその後ろを歩く。


ホテルのネオンが、二人の影をぼやけさせていた。


ホテルの入口は、通りから半分だけ奥まっていた。


紫色のネオンが、湿った地面に滲んでいる。


川上は慣れた様子で、自動ドアをくぐる。


凪海は少し遅れて後ろを歩く。


フロントには誰もいない。


パネルだけが白く光っている。


川上は迷わずボタンを押す。


短い電子音。


部屋番号が表示される。


エレベーターの中は狭かった。


鏡に、二人の姿がぼんやり映っている。


川上はネクタイを緩めたまま、壁に背を預けている。


凪海は鏡を見ない。


階数表示だけを眺めている。


上昇するたびに、数字が変わる。


その音だけが静かに響く。


部屋の扉が開くと、少し冷えた空気が流れてきた。


薄暗い。


間接照明だけが点いている。


ベッドは整えられていて、白いシーツがやけに浮いて見えた。


川上が先に入る。


ジャケットを脱いで、椅子に投げる。


凪海は扉の近くに立ったまま動かない。


オートロックの音が、小さく鳴る。


それで外と切り離される。


川上は冷蔵庫から水を取り出す。


一口飲んでから、凪海を見る。


「疲れてる?」


凪海は少しだけ肩をすくめる。


「別に」


川上は小さく笑う。


「それ、疲れてる時の顔」


凪海は返さない。


川上は近づく。


スーツについた煙草の匂いが、近くなる。


指先が、凪海の髪に触れる。


乾ききっていない毛先を、軽く摘む。


「またちゃんと寝てないだろ」


父親みたいな言い方だった。


凪海は、その手を避けない。


視線だけが、少し下がる。


川上はそのまま、凪海の顎に触れる。


上を向かせるみたいに。


「今日、なんかあった?」


低い声。


凪海は少しだけ間を置く。


「別に」


川上はしばらく凪海を見る。


何かを確かめるみたいに。


やがて、小さく息を吐く。


「……そっか」


その声は、どこか疲れていた。


部屋の外では、遠くで救急車の音が鳴っている。


けれど、この部屋には届かない。


川上が照明を少し落とす。


部屋の輪郭が、さらに曖昧になる。


凪海は黙ったまま、ベットに寝そべった。


スプリングが、小さく軋む。


天井を見上げると、間接照明の淡い色がぼやけて広がっていた。


川上はネクタイを外す。


その動きを、凪海は目で追わない。


聞こえてくる衣擦れの音だけが、部屋の静けさを揺らしている。


川上はベッドの縁に腰を下ろす。


マットレスがわずかに沈む。


「寒くない?」


凪海は首を横に振る。


川上は煙草の残り香をまとったまま、凪海の頬に触れる。


熱を確かめるみたいな手つきだった。


凪海は目を閉じる。


拒まない。


それだけだった。


川上の指が、耳の後ろをなぞる。


ピアスに触れないように避けながら、ゆっくり髪を掻き分ける。


「その髪、色落ちたな」


凪海は薄く笑う。


「金ないし」


「染め直せばいいのに」


「面倒」


川上は小さく息を漏らす。


しばらく、誰も喋らない。


エアコンの低い音だけが続く。


川上は俯いたまま、凪海の手首を軽く掴む。


強くはない。


逃げようと思えば、簡単に抜ける程度。


けれど凪海は動かない。


川上の指先が、脈を探るみたいに皮膚の上を止まる。


「……お前さ」


低い声。


「いつも、どっか遠いよな」


凪海は天井を見たまま、返事をしない。


川上も、答えを待っていない。


ただ、そのまま凪海の隣に身体を沈める。


川上の手が、凪海の頬を撫でる。


指先は優しい。


熱を確かめるみたいに、ゆっくり触れる。


凪海は目を閉じる。


そのまま、川上の指が首筋へ落ちる。


皮膚の上をなぞり、喉元で止まる。


最初は、軽かった。


触れているだけ。


けれど、少しずつ力が入る。


凪海の呼吸が浅くなる。


喉が鳴る。


川上は何も言わない。


暗い部屋の中で、ただ凪海を見ている。


凪海は川上の手首に触れる。


「……くるし」


掠れた声。


川上の目が細くなる。


指の力が、さらに少しだけ強くなる。


凪海の視界は狭くなる。


凪海の胸の奥で、別の記憶が浮く。


酒の匂い。


荒い息。


怒鳴り声。


振り下ろされる手。


小さい頃の部屋。


壁紙の剥がれ。


床に落ちた食器。


全部、一瞬で戻ってくる。


凪海の肩が震える。


「……やめて」


声は弱い。


川上は止めない。


代わりに、凪海の頬を強く叩く。


乾いた音。


顔が横に揺れる。


「ちゃんと見ろ」


低い声。


凪海は息を呑む。


怖い。


本当は、逃げたい。


身体のどこかは、ずっとそう叫んでいる。


それなのに——


川上の手が離れると、喉の奥に奇妙な空白が残る。


凪海は涙で滲んだ視界のまま、川上を見る。


怒っている顔。


疲れている顔。


煙草の匂い。


スーツについた外の空気。


その全部が、昔の父親と重なる。


なのに違う。


父親は、壊すために触れた。


凪海は、自分でも分からないまま、川上のシャツを掴む。


指先が震える。


「……ごめん」


何に対してかも分からないまま、そう言う。


川上はしばらく黙っていた。


やがて、小さく息を吐く。


そのまま凪海の髪に触れる。


今度は、少しだけ優しかった。


凪海は目を閉じる。


怖いのに。


逃げたいのに。


身体のどこかが、その手を待ってしまっている。


それが何より、気持ち悪かった。


川上はベッドの端に腰を下ろしたまま、スマホの画面を見る。


短く光った通知を確認すると、小さく息を吐く。


時刻を見なくても、凪海にはわかる。


もう帰る時間だった。


川上は立ち上がる。


脱ぎ捨てていたジャケットを拾い、皺を伸ばすみたいに軽く払う。


部屋の空気が、少しだけ現実に戻る。


凪海はベッドに横になったまま、それを見ている。


何も言わない。


川上も、急いでいることを隠さない。


ネクタイを締め直しながら、鏡を見る。


その横顔を、凪海はぼんやり眺めている。


「……帰る」


川上が言う。


凪海は小さく頷く。


「うん」


それだけだった。


引き止めない。


“帰らないで”なんて、言えるわけがない。


川上には帰る家がある。


待っている妻がいて、子どもがいて、朝になれば会社に行く。


凪海は、その全部を知っている。


知っていて、ここにいる。


川上は財布を確認し、スマホをポケットにしまう。



凪海は、シーツを胸元まで引き上げる。


「奥さん起きてるかもね」


冗談みたいに言う。


川上は少しだけ笑う。


「だったら面倒だな」


軽い声。


けれど、その言葉の中に凪海はいない。


川上が扉の前で立ち止まる。


一瞬だけ振り返る。


「ちゃんと寝ろよ」


父親みたいに言う。


凪海は薄く笑う。


「努力する」


川上はそれ以上何も言わず、部屋を出ていく。


扉が閉まる。


オートロックの音が、小さく響く。


それだけで、部屋が急に広くなる。


凪海はしばらく動かない。


天井を見る。


間接照明の色が、ぼやけて滲んでいる。


さっきまで首にあった手の感触だけが、まだ皮膚に残っていた。


凪海はゆっくり起き上がる。


乱れた髪を手で適当に整え、パーカーを羽織る。


部屋を出ると、廊下は静かだった。


エレベーターを降りると、夜の空気が流れ込む。


ホテルの中よりは息がしやすい。


凪海はポケットに手を入れたまま歩き出す。


ネオンが滲む。


酔った笑い声。


客引きの声。


タクシーのブレーキ音。


新宿の夜は、誰かの孤独に慣れきっていた。


凪海はフードを少し深く被る。


歩きながら、自分の首に触れる。


まだ少し熱を持っている。


その感触を確かめるみたいに指先を止める。


しばらくして、手を離す。


そのまま、人混みの中へ溶けるように歩いていった。


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