第二話
優子はそのまま缶を拾い上げた。中身の残りを一気に飲み干して、顔をしかめる。
「ぬる……」
舌で歯の裏をなぞる。指先で缶の縁を弾くと、からん、と軽い音が鳴った。
少し間を置いて、視線を落としたまま口を開く。
「さっきのさ。“飛ぶ”って、ほんとにそうなん?」
凪海は缶の口を見たまま、短く返す。
「大体ね」
優子は小さく息を吐く。
「じゃあさ、飛ぶ前に、もう一回くらい引っかけとこうかな」
スカートの裾を撫でる指先が、同じところを何度もなぞっている。
「別にいいけど」
凪海は肩をすくめる。
「あとで面倒になるの、自分だよ」
「知ってる」
優子は間髪入れずに返す。
「でもさ、面倒にならんと、やめられんのよ」
足元の空き缶を靴先で転がす。まっすぐ転がらないと、同じ方向に蹴り直す。その繰り返し。
そのとき、背後で靴音が止まる。
規則正しい、迷いのない足取り。
優子の動きがぴたりと止まる。
「……ほら来た」
小さく、息を吐く。
凪海は気に留める様子もなく、缶を口に運ぶ。
「ねえねえ」
柔らかい声が聞こえた。
「またここ?」
顔を上げると、見慣れた制服の男が立っていた。口元にはうっすら笑みがある。けれど目だけは笑っていない。
優子がすぐに表情を作る。
「だめ?」
首を傾ける。少し甘えた仕草。
「だめっていうかさ」
警官は肩をすくめる。
「何回同じこと言わせるの。ここで飲まないでって」
優子は笑う。
「ちょっとくらい良くない?」
「その“ちょっと”が毎日なんだよ」
軽く指で地面を示す。
足元の缶が視界に入る。
「ほら、それもそのままだし」
優子はちらっと見て、足で転がして隠す。
「あとで片すし」
「“あとで”って、だいたい来ないよね」
視線が凪海に移る。
「君もさ」
凪海は視線だけを返す。
「迷惑かけてる自覚、ある?」
缶を膝の上に置き、考える。
「どこに?」
警官は一瞬だけ言葉を探す。
「いや、だからさ。ここ、人通り多いでしょ」
「うん」
「そこで座り込んで飲んでたら、通りづらいって思う人もいるわけ」
凪海は周りを見る。
人は流れている。
誰も足を止めていない。
「今、止まってる人いる?」
警官もつられて一瞬だけ視線を動かす。
誰もいない。
優子が横で、くすっと笑う。
警官は軽く息を吐く。
「そういう問題じゃなくてさ」
「じゃあどういう問題?」
凪海の声は変わらない。
警官は少しだけ笑う。
困ったような顔。
「屁理屈強いなあ」
「事実だけど」
警官は頭をかく。
「まあいいや。じゃあこうしよ」
少しだけ腰を落として、目線を合わせる。
「ここで飲むのやめてくれたら、今日は何も言わない」
優子がすぐに食いつく。
「毎日それ言ってくれたらやめる」
「それは無理」
優子が笑う。
凪海は缶を持ち上げる。
「じゃあ今日は?」
警官と目が合う。
「今日は……まあ、もういいよ」
肩をすくめる。
「ただし、次見たらまた言うからね」
優子が手をひらひら振る。
「はーい」
軽い返事。
警官は小さく笑ってから、立ち上がる。
「ほどほどにね」
それだけ残して、人の流れの中に戻っていく。
優子はその背中を見送ってから、息を吐き出す。
「優しすぎじゃない?」
笑いを含んだ声。
凪海は何も返さず、缶を口に運ぶ。
優子はまだ少し笑っている。
「てかさ、あんた絶対、ああいうの好きでしょ」
凪海が視線を向ける。
「何が」
「困ってる顔させるの」
凪海は缶を傾ける。
「別に」
優子は「出た」と小さく笑って、また足元の缶を転がした。
さっきよりも、少しだけ強く。
優子は次の客を探すみたいに、立ったまま人の流れを眺めていた。
誰かと目が合うたびに、ほんの少しだけ顎を引く。その動きは小さいのに、相手の足が止まるかどうかだけは、きちんと捉えている。
凪海はそれを横目で見て、足元の缶をつま先で寄せた。
「行く」
凪海はか細い声で優子の耳元で囁いた。
優子は振り向かない。視線は人の流れに置いたまま、片手だけが後ろに伸びる。
ひらひらと、形だけの見送り。
「お仕事頑張ってー」
抑揚のない声だった。
凪海は立ち上がる。フードを少し深く被り直すと、視界の端が暗くなる。
そのまま歩き出すと大通りから裏路地に入る。
幅は人が二人すれ違える程度。壁は近く、湿った空気が溜まっている。貼り紙が剥がれかけて、下の層が露出している。
人の流れから外れるだけで、音の密度が変わる。背中側にだけざわめきが残って、前は薄くなる。
通りの光を離れると、足元の色が鈍くなる。看板の光が届かない場所は、どれも似た温度をしている。
遠くの音が遅れて届く。
凪海は迷わず、角をひとつ抜けると、さらに奥へと進む。
匂いが少し変わる。油と煙、それに混じって、甘さの抜けきらない焦げたような匂い。
足音だけが、やけに響く。
人影は少ない。けれど、完全にいないわけでもない。
凪海は足を止めない。
やがて、路地の奥に、地下へ続く階段が見える。
階段を下るほど、空気が重くなる。
地上のざわめきが薄れて、代わりに低い声と、グラスの触れる音が混じる。
最後の段を降りると、扉がある。
木製で、塗装は剥げている。取っ手に触れると、わずかに湿っていた。
押し開けると中は暗い。
一瞬だけ、何も見えないが、すぐに目が慣れる。
煙が溜まっている。
天井近くに層を作って、照明の光を鈍く拡げている。視界の奥がぼやけて、距離の感覚が曖昧になる。
おまけにタバコの匂いが強い。
古い煙に、新しい煙が重なって、抜けきらないまま滞っている。
客の数は多くないが、空いている感じもしない。
それぞれが自分の場所に収まっていて、隙間がない。
誰かがグラスを置くと、氷が触れる音が、やけに響く。
凪海は立ち止まらずに煙の中をそのまま進む。
奥にある照明が少しだけ強い。
その光を目印に一直線に凪海はカウンターに向かった。
カウンターの前で、凪海は立ち止まる。
目の前には無口なマスターが立っている。
マスターは何も口にせず、ひたすらバーカウンターの掃除をしていた。
ボトルが三本、並んでいる。
順番も、間隔も、崩れていない。
最初の一本。
透明な液体。ラベルの端に、小さく刻まれた数字。
2014。
凪海は一度だけ瞬きをする。
2の14。
凪海は迷うことなく、ウォッカトニックを選ぶ。
二本目。
琥珀色のボトル。ラベルの中央に、擦れた数字。
2003。
視線を止める必要はない。
店の奥、三つ目の席。
凪海はそのまま視線を横に流す。
煙の向こうに足を組んだまま動かない男が黒いキャップを被り、机に肘をついている。
三本目。
濃い褐色。ラベルの端が剥がれて、数字が半分だけ見えている。
2016。
区切りはない。
けれど、見ればわかる。
前半が届け先。
後半が置き場所。
20、16。
頭の中で地図が開く。
新宿東口、16番。
秋葉原西口、20番。
一瞬で固定される。
グラスがカウンターに置かれる。
透明な液体。氷がひとつだけ沈んでいる。
凪海はそれを持ち上げ、そのまま、煙の奥へ歩く。
三つ目の席に座っていた男の前に立つ。
視線は合わせない。
机の上に、グラスを置く。
氷が、かすかに鳴る。
男の指が、机を二度叩く。
凪海はコツコツと軽くグラスを2回机にぶつけた。
男は怯えたような声で凪海に声をかける
「場所は」
その声はとても小さく震えていた。
凪海は椅子に触れず、立ったまま、ほんの少しだけ身を屈める。
男の肩越しに、周囲を一度だけ確認する。
誰も見ていない。
凪海は視線を落としたまま、口を開く。
「新宿東口。16番」
男の指が、わずかに止まる。
凪海は続ける。
「秋葉原、西口、20番」
凪海はそれ以上の説明はしなかった。
「時間は」
男が口を開く。
「今日中」
凪海は短く答えた。
男は一度だけ頷く。
目線は下げたまま、指で机を二度叩く。
凪海はそれを見て、グラスの底を軽く机に当てる。
男は凪海の顔を見上げるとそのまま店を後にした。
しばらくして、凪海も店を出る。
空気は、軽くならない。
煙の匂いが、喉の奥に残っている。
路地に出ると、音が戻る。
遠くの車の音、誰かの声、どれも薄く重なっている。
足を止めず、そのまま抜ける。
角をいくつか曲がると、行き慣れた店の看板の光が見える。
さっきの店より、わずかに明るい。
けれど、中身は同じだった。
凪海は扉を押す。
ベルは鳴らない。
グラスの触れる音と、低い笑い声だけがある。
店内は狭い。
カウンターを一瞥するだけで、奥へ向かう。
視線を合わせる必要はない。
誰も止めない。
奥に、扉がある。
他より、少しだけ重い。
取っ手に触れると、冷たさが残っている。
一瞬、間を置き、扉を押す。
扉の向こうは、別の空気だった。
煙が薄い。
光は均一で、影が少ない。
ソファが並び、テーブルには手をつけられていないグラスが置かれている。
部屋の中央に男が一人、座っている。
足を組み、背を深く預けている。
指先に挟まれた煙草から、細い煙が立つ。
豊島だった。
凪海は中に入る。
扉が、背中で静かに閉まる。
豊島は視線だけを上げる。
それ以上、動かない。
凪海も、何も言わない。
距離を詰め、テーブルの手前で止まる。
豊島の口元が、わずかに歪む。
「終わったか」
声は低く、沈む。
「伝えた」
凪海は短い返事をした。
豊島は煙を吐く。
細い線が、ほどける。
「遅くはないな」
独り言のように言う。
凪海は返さない。
豊島の視線が、わずかに下がる。
「余計なことは」
「してない」
間を置かずに凪海は返す。
豊島はしばらく黙る。
煙だけが動く。
やがて、灰を落とす。
「座れ」
凪海は、首をわずかに振る。
「いい」
豊島の目が、細くなる。
それでも、何も言わない。
煙をもう一度吐く。
部屋の空気が、ゆっくりと重くなる。
凪海は動かない。
沈黙が伸びる。
豊島は煙草を灰皿に押し当てる。
火が潰れる音が、小さく鳴る。
新しい煙草には手を伸ばさない。
代わりに、指先でテーブルを軽く叩く。
「なあ」
声は変わらない。
凪海は動かない。
「運び屋、もう一人欲しくてな」
視線は凪海に向けられたまま。
「お前、やれよ」
軽い。
当たり前みたいに言う。
「やらない」
間を置かない。
空気が、一瞬だけ止まる。
豊島の指が止まる。
すぐに、また動く。
「割はいいぞ。今みたいな伝言より、よっぽどな」
凪海は何も言わない。
「顔も覚えられてる。動きも悪くない」
豊島の視線が、測るみたいであった。
「怖いか」
豊島は笑う。
凪海は返さない。
「別に難しいことじゃない」
「拾って、運んで、置くだけだ。それで金になる」
指で机をなぞる。
「お前に向いてる」
凪海は、わずかに視線を上げる。
それでも、何も言わない。
次の瞬間。
豊島が立ち上がる。
音はほとんどない。
距離が、一気に詰まる。
目の前。
拳が振り上がる。
凪海の体が、先に反応する。
腰が引ける。
肩がわずかに下がる。
呼吸が止まる。
それでも、倒れない。
立ったまま。
拳は、止まっている。
顔のすぐ手前。
あと少しで届く位置。
豊島が、口元を歪める。
「やっぱりか」
低く、笑う。
「残ってるな」
拳を、ほんの少しだけ近づける。
凪海の頬の横。
触れはしない。
「親父にも、こうやってやられてたんだろ」
その言葉で、空気が変わる。
凪海の目が、わずかに揺れる。
奥に残っていたものが、浮かぶ。
消えないままの記憶。
凪海の喉が動く。
目が潤む。
それでも——
「……やらない」
凪海の声は小さく、震えている。
けれど、折れていない。
豊島はしばらく値踏みするみたいに見ている。
やがて、拳を下ろし、ソファに腰を落とす。
空気が、わずかに緩む。
「まあ、いい」
興味を失ったみたいに言う。
「お前みたいなのは、貴重だからな」
灰皿を指で弾く。
「下手に運ばせて、捕まられても困る」
視線だけで、扉の方を示す。
行け、という合図だった。
凪海は何も言わない。
そのまま背を向ける。
扉を開けると、外の空気が、流れ込む。
少しだけ軽い。
それでも、完全には変わらない。
凪海は振り返らず、そのまま、外へ出る。




