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凪海  作者: 深澤敏朗
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第一話

凪海は、まるで誰かに押し出されたように、ベッドの端から身体を滑らせた。


落ちる、というより、崩れる、に近かった。

骨の芯に重さが残っていて、自分の体が自分のものじゃないみたいに鈍い。床に足が触れても、その感触は遅れてやってくる。


部屋は昼と夕方のあいだの、曖昧な光に満ちていた。カーテンの隙間から差し込む白っぽい光が、散らばった服や空き缶の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。


時計は見なくてもわかる。

この時間に起きるのは、いつものことだった。


凪海はしばらく、そのまま床に手をついた姿勢で止まっていた。呼吸だけがやけにうるさくて、静かな部屋に自分の内側の音が響いている。


起きる理由なんて、特にない。

かといって、ここにいても何が起こるわけでもない。


髪が頬に貼りついて、少し冷たい。寝汗のせいか、昨日のままの匂いか、よくわからないまま、凪海は指で無造作にかき上げた。


ゆっくりと立ち上がる。膝の奥が一瞬だけ抜けるように揺れて、それでもすぐに、何事もなかったみたいに体は動き出す。


床に落ちたままの黒いパーカーを跨いで、凪海は洗面所へ向かった。


洗面所に立つ。鏡は水垢でくすんでいて、顔の輪郭すら曖昧に滲んでいた。


蛇口をひねる。錆びた鉄が擦れる音とともに、水は途切れなく流れ出す。手で受けるでもなく、そのまま頭を突っ込むようにして、水を髪にかけた。


冷たさが、遅れて頭皮に染みてくる。


ピンクに染めた髪は、根元の黒がもう目立ち始めていて、色もどこかくすんでいる。指で軽く掻き分けると、水がぽたぽたと洗面台に落ちた。


シャンプーのボトルは端に寄せられたまま、触られた気配がない。整髪料も化粧品も、途中で放り出されたように並んでいるだけだった。


凪海はタオルも使わず、濡れたままの髪に櫛を通す。


引っかかるたびに、わずかに眉が動く。それでも手を止めることはなく、無理やり通していく。水気を含んだ髪が、重たく形を整えられていく。


鏡の中は、見えない。


櫛を置くと、そのまま背を向けて部屋に戻った。


床に落ちていた黒いパーカーを拾い上げる。袖に腕を通しながら、布の湿った匂いを一瞬だけ感じる。


フードを軽く被ると、視界の端が少しだけ暗くなる。


それが心地よかった。


玄関に向かい、散らばった靴には目もくれず、馴染んだ一足に足を突っ込む。


凪海は玄関のドアを押し開けた。


外の空気は、部屋の中よりも少しだけ軽かった。湿り気を含んだ風が、フードの隙間から入り込み、乾ききっていない髪に触れる。


風に押されてドアが閉まる音が、背中で小さく鳴った。


階段を降りる。コンクリートの段差はところどころ欠けていて、足裏に硬さが直接伝わる。手すりには触れない。触れれば、なにかが崩れそうな気がした。


アパートの外に出ると、藍色が街に薄く溜まっていた。遠くで車の音が響き、誰かの話し声が断片のまま流れてくる。


凪海はポケットに手を入れたまま歩き出す。


道は覚えている。考えなくても、足がそのまま駅の方へ向かう。


路地を抜けると、小さな商店の前を通る。シャッターは半分だけ下りていて、奥は暗く、揚げ物の匂いだけが残っている。


信号も見ずに横断歩道を渡ると、クラクションが一度だけ短く鳴った。それが自分に向けられたものかどうか、確かめる気も起きない。


フードの内側で、外の音がわずかに遠のく。


駅が近づくにつれて、人の数が増えていく。誰もがどこかへ向かっていて、その流れに紛れれば、自分の輪郭も薄くなる。


改札前のざわめきが、ぼんやりと耳に入る。


凪海は、そのまま人の流れの中に入っていった。




緩やかな振動とともに、電車が動き出す。


凪海はドア脇に背を預けたまま、窓の外を見ている。


誰とも目を合わせない位置だった。


車内は静かだった。アナウンスだけが響く。内容を確かめる必要はない。終点まで行く。


建物の壁、電線、看板、途切れた空。どれもすぐに後ろへ流れていく。


同じ速度で、同じように過ぎていく。


何度も見てきた景色だった。


覚えているわけじゃない。ただ、知っている。


余計なことを考えなくていい。


このまま乗っていれば、新宿に着く。


「次は新宿」


アナウンスが流れる。


目的地に着きドアが開いても、凪海は動かない。


降りていく人と肩が触れる。舌打ちが、背中のあたりに残る。


それでも、少しだけ離れた位置に立ったまま、外を見ている。


まだ、降りなくていいような気がした。


車内が空になり、吊り革だけが、わずかに揺れている。


少し間を置いて、凪海は一歩、ホームへ、足を下ろす。


その瞬間、さっきまで速かった鼓動が、何もなかったようにに落ち着く。




新宿の雑踏は、時間に関係なく同じ音を鳴らしていた。


人の流れを抜けて、いつもの場所に出る。看板の光が少しだけ強く当たる、路上の隅。


そこに、優子は座っていた。


しゃがんだまま、スマホをいじっている。長い髪を指に巻きつけてはほどき、また巻きつける。足元には、開いたままの缶が転がっている。


数歩手前で、凪海は足を止める。


少し遅れて、優子が顔を上げる。


「凪海、遅いじゃん」


声が、少し掠れている。


「そうでもないでしょ。いつもこんなもん」


凪海はそのまま隣に腰を下ろす。


優子は、温くなったスト缶を差し出す。


凪海は受け取って、プルタブを引く。


短い音がして、泡が少しだけこぼれる。


凪海はそれをそのまま口に運ぶ。


「昨日さ、変な客いて」


「どんな」


「なんかずっと同じこと言ってんの。三回くらい」


「それただの酔っ払いでしょ」


「そうかも」


少し笑う。


すぐに別の話になる。


「てかさ、そのピアス」


「ああ、これ?」


「似合ってる」


「でしょ」


それも、そこで終わる。


缶はいつの間にか空になって、足元に増えていく。


誰かが入れ替わりで横を通り、同じ場所に別の誰かが立つ。


看板の光が、少しだけ色を変える。


気づけば、優子の声も最初より低くなっていた。


凪海はそれに気づいているのかどうか、自分でもはっきりしないまま、ただ相槌を打つ。


凪海が次の缶に手を伸ばすと、優子が立ち上がる。


缶を足元に転がしたまま、スカートの裾を軽く払う。


「ちょっと仕事行ってくる」


そう言う。


凪海は顔を上げる。


一瞬だけ、目が合う。


「いつもの?」


「うん、すぐ終わるやつ」


それ以上は話さない。


優子はスマホを確認して、立ったままメッセージを打つ。


少しして、近くにいた男がこちらを見る。


優子も視線を返す。


どちらからともなく歩み寄って、短く何かを話す。


金額か、場所か、そのどちらか。


すぐに決まる。


優子は振り返らず、男と並んで、人の流れに入っていく。


二人の背中が、看板の光の中に紛れていく。


見えなくなるまでに、そう時間はかからない。


足元で、空き缶が一つ転がる。


凪海はそれを軽く止める。


何も言わずに、次の缶を開ける。


しばらくすると優子が戻ってくる。


さっきよりも少しだけ静かな顔で、凪海の隣に腰を下ろす。


何も言わずに、スマホを差し出す。


画面には、男の写真。


「さっきの」


優子が言う。


凪海は画面を見る。


指で少し拡大する。


ネクタイの結び目、時計、靴。


一通り見て、指を離す。


「この人、結婚してるでしょ」


優子が笑う。


「なんでわかんの」


「指輪の跡」


言われて、優子も画面を覗き込む。


うっすらと、跡が残っている。


「あと、この時計」


凪海は言う。


「会社員。そこそこいいとこ。たぶん、年収は…まあ、それなり」


優子はふっと息を吐く。


「へえ」


凪海はスマホを返す。


少しだけ間が空く。


「そのうち飛ぶよ、この人」


優子が顔を上げる。


「なんで」


凪海は肩をすくめる。


「こういうの、長く続かない」


優子はスマホの画面をもう一度覗き込むと、電源を落として、ポケットにしまった。

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