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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第二章 紬がれた記録
9/12

展示番号08号 『標本資料室、紬がれた記録(下)』

 並んだ写真には、どれも三人だけが写っていた。


 作業台の上で、古い写真の端が反っている。紙の表面には青い水槽の光が焼きついていて、弱い蛍光灯の下でも、そこだけ濡れたように鈍く光って見えた。乃愛の腕が伸び、伊織とアリスがその内側に収まっている。何枚も。何枚も。表情も、角度も、写り込んだ水の光も、一枚ごとにわずかに違っていた。


 そのどこにも、紬はいなかった。


「知らない」


 紬は言った。


 声にした途端、その言葉は作業台の上に頼りなく落ちた。


「私も、分からない」


 乃愛は写真から目を離さなかった。作業台の縁に置いた指が硬く曲がり、爪の先が白くなっている。


「なにそれ、さっきから何回目?」


「じゃあ、何て言えばいいの」


 紬は写真ではなく、乃愛の指先を見ていた。


「覚えてないのは本当だから。分からないのも本当だから。ほかの言葉、出てこない」


 言い終えたあとで、自分の声が思ったより震えていたことに気づいた。


 標本資料室の奥で、瓶の触れ合うような音がした。ほんの小さな音だったのに、首筋が冷える。濁った液体の中に浮かぶ魚の影が、棚の奥でじっとこちらを向いているように見えた。


「乃愛ちゃん」


 伊織が作業台の角に手を置いた。


「今のは、ちょっときついかも」


「きついって何。聞いてるだけじゃん」


「聞き方の話だよ」


 伊織は写真を見下ろしたまま言った。いつもなら軽く流せるはずの語尾が、今はうまく持ち上がらない。


「紬ちゃんだって、分からないものは分からないんでしょ。私たちだって、自分の名前も、ここに来た理由も、何も覚えてないんだから」


「でも、あんただけ写ってない」


 乃愛の声はすぐに返ってきた。


 伊織は一度、言葉を飲み込んだ。それから、作業台ではなく床の方へ視線を落とす。


「でもさ、スマホケースには書いてあったじゃん」


「紬をひとりにしないで、って」


 その言葉が出た瞬間、標本資料室の空気が重く沈んだ。割れたスマートフォン。外れたピンク色のケース。内側に残されていた黒い文字。紬は、あの黒い線の濃さを思い出した。


「私は、紬ちゃんを仲間はずれにするなって意味だと思う」


「どっちの意味か分かんないけどね」


 乃愛が低く言った。


「ひとりにしないで、が、守れって意味なのか、見張っとけって意味なのか、分かんないじゃん」


「それは……そうだけど」


「それに」


 乃愛は、ようやく写真から目を上げた。


「あんたが、先に進もうとしてたよね」


「……何の話?」


「私が見つけた時、あんたはもう伊織たちと一緒にいたじゃん」


 乃愛の視線が、写真から紬へ移る。


「名前も知ってて、ここがどういう場所なのかも、受け入れてた。放送が流れても、驚くっていうより、次に進むしかないって顔してた」


「そんなこと……」


 紬は言いかけて、言葉を失った。


 違う、と言い切りたかった。けれど、乃愛と出会った時、自分はすでに伊織とアリスの名前を知っていた。水族館らしいことも、館内放送に従うしかないことも、いつの間にか受け入れ始めていた。


「私だけ、あとから混ざったみたいだった」


 乃愛は写真を指先で押さえる。


「なのに、この写真にはあんただけいない」


 その続きが、来る。


 乃愛が次に何を言うのか、分かる気がした。考えたわけではない。思い出したわけでもない。ただ、喉の奥に冷たいものが引っかかった瞬間、同じ声が頭の中で先に響いた。


 ――嘘ついてないって、どうして分かるの。


 紬は息を止めた。


 作業台の上には、三人だけの写真が並んでいる。青い水槽の光。乃愛の腕。伊織とアリスの顔。そこにいない自分。


 自分は前にも、ここに立っていた。


 そう思った。


 いつのことなのか、誰がいたのか、何があったのか、分からない。ただ、乃愛の声だけが、薄い膜の向こうから戻ってくる。


「嘘ついてないって、どうして分かるの」


 乃愛が言った。


 紬の背中を、冷たいものが落ちていった。


 今、聞いた。


 今、初めて聞いたはずなのに。


 乃愛の指が、写真の端を押さえる。


「自分でも分からないって言えば、何でも通るじゃん」


「乃愛ちゃん!」


 伊織の声が、強くなった。


「それは言いすぎだよ」


「言いすぎじゃない。写真にいない。学生証もない。持ち物もない。なのに、合流した時には、もうここに慣れてるみたいに見えた」


 乃愛は紬を見た。


「おかしいって思う方が普通でしょ!」


「だからって」


 伊織の声が、資料室の中で割れた。


 乃愛が顔を上げる。アリスも、作業台の上の写真から目を離した。


「だからって、紬ちゃんが嘘ついてるって決めつけていいわけじゃないでしょ!」


 伊織は作業台の角を掴んでいた。手の甲に筋が浮き、握ったままの指がわずかに震えている。いつもなら笑ってごまかすはずの顔に、笑いの形は残っていなかった。


「私たちだって何も覚えてないじゃん。名前も、ここに来た理由も、自分が何をしたかも分からない。だったら、私たちだって嘘ついてない証拠なんかないよ」


「でも、あんただけ――」


「分かってるよ」


 伊織は乃愛の言葉を遮った。自分でも驚いたように息を止める。けれど、もう笑ってごまかさなかった。


「写真にいないのも、学生証がないのも、怪しいのも分かってる。でも、分からないって言うしかない人に、嘘ついてるんでしょって言うのは違うでしょ」


 乃愛は唇を噛んだ。


「……じゃあ、どうすんの」


「分かんない」


 伊織はすぐに答えた。その答えがあまりに早くて、乃愛は一瞬黙った。


「分かんないけど、今ここで紬ちゃんを敵みたいに扱うのは違うよ」


 資料室の奥で、水の流れる音だけが続いていた。


 アリスは、作業台の上に並んだ写真へ視線を落とす。


「乃愛さんの言っていることは、間違っていません」


 伊織の肩が小さく動いた。


「紬さんだけが写真にいない。ここに名前がない。最初に状況を言葉にして、わたくしたちを動かしたのは紬さんです。疑問に思うのは当然です」


 アリスはそこで、紬を見た。


「ですが、伊織さんの言う通り、それだけで紬さんが意図して何かを隠しているとは言えません」


「断定できない、ってやつ?」


 乃愛が低く言った。


「はい。断定できません」


 アリスは乃愛を見る。


「だから、確かめる必要があります。写真だけで決めるには、まだ足りません」


「また探すの」


 乃愛が吐き捨てる。


 それでも、写真から手を離したのは乃愛が一番早かった。紙の端が指から外れ、作業台の上で乾いた音を立てる。


「探すしかないんでしょ」


「……まあ、そうだよね」


 伊織は少し笑おうとして、途中でやめた。


「ここで見なかったことにできたら、楽なんだけど」


 誰も返事をしなかった。


 見なかったことにするには、写真の中に紬がいなさすぎた。


 四人は、もう一度資料室の中を見回した。


 古い紙の匂いがする。薬品の匂いも混じっていて、吸い込むたび、鼻の奥がつんと痛んだ。床には薄く埃が積もり、歩くと靴底がざらりと鳴る。どこかで水が流れているらしく、壁の向こうから低い音が続いていた。展示室で聞いた穏やかな水音とは違う。配管の中を押し流される、硬い音だった。


 乃愛が棚のラベルを見ていく。


 最上伊織。鷹宮アリス。楠乃愛。また、最上伊織。また、鷹宮アリス。また、楠乃愛。


 白いラベルに残った名前を追うたび、紬の目も勝手に動いた。有沢紬という文字を探している。見つからないと分かっていても、名前の欄を見るたびに喉の奥が詰まる。


 棚の端まで見ても、やはり紬の名前はなかった。


 アリスが作業台の下を覗き込む。そこには、段ボール箱がいくつか積まれていた。湿気を吸った底が歪み、角が潰れている。ひとつの箱には、黒いマジックで「切抜」と書かれていた。


 アリスが箱を引き出す。


 床をこする音が、部屋の中にざらざらと広がった。中には古い新聞や雑誌の切り抜きが入っている。紙は波打ち、端が茶色く変わっていた。束の上に指を置くと、乾いた紙の粉が薄く舞う。


「記事?」


 伊織が覗き込む。


 アリスは一番上の紙をそっと取り出した。端が指に引っかかり、小さく裂ける。アリスの眉がかすかに動いた。


 作業台の上に置かれた切り抜きには、大きな見出しが残っていた。


 白凪水族館、閉館後の事故で謝罪。


 紬は、見出しの一部を目で追った。


 白凪水族館。


 その文字を、どこかで見た気がした。記憶の中ではない。もっと近い、ここへ来てからのどこかで。大水槽のそばにあった案内板。チケットカウンターの上に残っていた古いロゴ。展示室の入口に剥がれかけていた館内マップ。


「ここ……この水族館の名前?」


 伊織が切り抜きを覗き込んだ。


 誰もすぐには答えなかった。古い新聞の見出しと、自分たちが歩いてきた場所の名前が、作業台の上で重なっていく。ただそれだけなのに、紙の端から冷えが滲み出してくるように見えた。


「おそらく、そうです」


 アリスが切り抜きの端を押さえる。


 紙は古く、インクはところどころ滲んでいた。日付も、関係者の名前も、詳しい経緯らしい部分も黒く塗り潰されている。それでも、塗り残された文字はいくつかあった。


 閉館後、安全確認、管理責任、謝罪。


 どれも、何かが起きたあとの言葉だった。けれど、それだけでは、誰が、どこで、何をしたのかまでは分からない。


「事故、って書いてある」


 伊織の声が薄くなる。


 アリスは記事に顔を近づけた。黒塗りの下から文字の端だけが見えている。けれど、文章にはならなかった。紙の上を追う指先に、古いインクの黒い粉がついている。


「詳しい内容は、読めません」


「じゃあ、関係あるかどうかも分かんないじゃん」


 乃愛が言った。


 切り抜きではなく、作業台の上の写真を見ている。大水槽前の三人。乃愛の腕が伸び、伊織とアリスが画面に収まっている。紬のいない写真。


「でも、関係ないものが、なんでこの箱に入ってるの」


 乃愛の声が落ちる。


 伊織は黙った。


 箱の中には、写真がある。学生証がある。スマートフォンケースの内側に残された文字がある。棚には三人の名前が並んでいるのに、紬の名前だけがない。その横に、古い新聞の切り抜きまで入っていた。


 ひとつずつなら、まだ別の理由を探せたかもしれない。けれど、ここに置かれているものは、どれも少しずつ四人へ近づいてくる。関係ないはずのものまで、同じ箱の中に入れられた途端、無関係ではいられなくなる。


 この部屋では、関係のあるものとないものの境目まで曖昧になっていく。


 紬は唇を噛んだ。


 違う、と言いたかった。


 何が違うのかは、自分でも分からなかった。自分の家も、昨日の夜も、学校で誰に呼ばれていたのかも思い出せない。学生証に書かれていた名前と、ここで呼ばれている名前だけがある。


 有沢紬。


 その名前が、自分のものなのかどうかさえ、だんだん分からなくなっていた。


「紬ちゃん」


 伊織が呼んだ。


 紬は顔を上げる。


 伊織の口元は、もう笑っていなかった。笑おうとした跡だけが残っている。


「まだ、決まったわけじゃないから」


 その言葉は紬に向けられていた。伊織自身にも向けているように聞こえた。


 乃愛が息を吐く。


「決まってない。そうだね。何も決まってない」


 写真の束へ目を落としたまま、乃愛の指が一枚の角を押さえた。紙が指の下で曲がる。


「だから気持ち悪いんじゃん」


 アリスは切り抜きを戻さなかった。作業台の上に置いたまま、下の紙をめくる。乾いた紙の重なりが、小さく鳴った。


 ほかの切り抜きも、似たような記事だった。白凪水族館の名前はどの紙にも残っている。けれど、記事の中心にあるはずの部分は、ほとんど黒く塗り潰されていた。夜間警備の不備。職員配置の空白。安全確認記録なし。責任者の会見欠席。読めるのは、何かが起きたあとに責任を探している言葉ばかりだった。


 それ以上のことは分からない。日付は黒く消されている。写真のあったらしい場所には、四角い空白だけが残っている紙もあった。記事の本文も、途中から何行かまとめて塗り潰されている。


 隠したいのなら、捨てればよかったはずだった。


 それなのに、切り抜きだけは残されていた。読ませたいのか、隠したいのか分からないまま。


 伊織がその空白を見て、嫌そうに顔をしかめる。


「なんか、見せたいのか隠したいのか、分かんないね」


 アリスは答えなかった。


 紬は切り抜きの束から目を離し、作業台の上に並べられた写真を見た。


 大水槽前の三人。


 どれも同じ場所で撮られている。大水槽の青い光。床に落ちた水の揺れ。乃愛の腕。寄せ合う肩。三人だけの顔。


 最初に目覚めた場所も、大水槽前だった。


 名前を見つけた場所も、あそこだった。


 写真の中の三人も、あそこで何度も肩を寄せていた。


「……戻る?」


 伊織が小さく言った。


 乃愛が顔を上げる。


「どこに」


「大水槽。だって、これ全部あそこで撮ってるんでしょ」


 誰もすぐには動かなかった。


 大水槽。


 その言葉だけで、青い光がまぶたの裏に浮かんだ。大きなガラス。水の揺れ。群れで泳ぐ魚。最初に目を開けた時の冷たい床。


 アリスは作業台の上の写真を見つめたまま、やがて静かに頷いた。


「ここで分からないなら、戻るしかないと思います」


「結局、最初の場所じゃん」


 乃愛は舌打ちした。


 そう言いながら、乃愛は写真を一枚だけ手に取った。紙の端が、指の間で少し曲がる。


「持っていくの?」


 伊織が聞く。


「置いていくの、嫌なだけ」


 乃愛は短く言った。


 証拠だから、とも、必要だから、とも言わなかった。けれど、その一枚を手放す気がないことだけは分かった。写真の中では、青い水槽の前で三人が肩を寄せている。伊織と、アリスと、乃愛。そこに紬はいない。


 乃愛はそれ以上何も言わず、写真を制服のポケットへ押し込んだ。紙が布の中で擦れる音がした。


 紬は、作業台の上に残った写真を見た。


 大水槽前の三人。


 そこにいない自分。


 喉の奥に、古い紙の味が残っていた。


 四人は標本資料室を出た。


 扉の外の通路は、さっきよりも暗く見えた。非常灯の緑がコンクリートの壁に滲んでいる。資料室の中で聞こえていたあの硬い水音が、通路の奥からも続いていた。壁の中を伝ってくる低い響きが、四人の足音の下に沈んでいる。


 足音が通路に重なっていく。


 大水槽へ戻る。


 四人の足だけが、同じ方へ向いていた。

展示番号08号 『欠けた記録』


 標本や資料は、ただ残されているだけでは意味を持ちません。いつ、どこで、誰が、どのように残したのか。その記録と結びつくことで、あとから見返すための手掛かりになります。しかし、記録はいつも完全な形で残るとは限りません。失われた部分は、何も語らないようでいて、時には残された文字よりも強く、そこに何かがあったことを示します。

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