表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
水槽少女展  作者: 電脳鯨
第二章 紬がれた記録
8/10

展示番号07号 『標本資料室、紬がれた記録(上)』

 誰も、それを否定しなかった。


 否定できるだけの記憶を、誰も持っていなかった。


 バックヤードの蛍光灯が、細く鳴っている。割れたスマートフォンは床に伏せたまま動かず、外れたピンク色のケースだけが、コンクリートの上で内側をさらしていた。そこに書かれた黒い文字は、見なかったことにするには濃すぎた。


 ――つむぎをひとりにしないで!


 紬は、自分の名前から目を逸らせなかった。


 書かれているのは、確かに自分の名前だった。


 意味は、すぐには追いつかなかった。ケースの内側に押し込められた黒い線だけが、ほかのものより濃く見える。その一文は、誰にも見つからない場所から、今になって声を上げたようだった。


「乃愛ちゃん、本当に覚えてないの?」


 伊織はケースではなく、乃愛の顔を見ていた。返事を待つ間、唇だけが小さく動いた。どうか違うと言ってほしい。そう聞こえるほど、語尾が弱かった。


 乃愛は唇を噛んだまま、ケースを見下ろしている。噛みしめたせいで、口元から血の気が引いていた。


「知らないって言ってるじゃん」


「でも、それ、乃愛さんが最初から持っていたケースですよね?」


 アリスが静かに言った。


「だから何」


「ケースを外さなければ、内側は見えません。誰かがあとから書いたのだとしても、乃愛さんの持ち物を一度は手にしていることになります」


「私が書いたって言いたいわけ?」


「そうは言っていません」


 アリスは言い切った。視線はケースから離れなかった。


「ただ、可能性を消せないだけです」


「そういう言い方、ほんと嫌い」


 乃愛の声は荒かった。けれど、スマートフォンを投げつけた時の勢いはもうない。足先が小さく床を擦り、握った手の爪が掌に食い込んでいる。


 紬は、乃愛の手元を思い返した。


 大水槽の前で合流してから、展示室を巡り、タッチプールへ行き、バックヤードへ入るまで、乃愛はずっとピンク色のスマートフォンケースを持っていた。途中でケースを外す仕草は見ていない。どこかに一人で隠れる時間もなかった。


 乃愛が知らないと言うなら、本当に知らないのだと思う。


 それでも、文字はそこにある。


 伊織も、アリスも、紬自身も、何も言わなかった。蛍光灯の細い音だけが、ケースの上に落ちてくる。


 伊織がしゃがみ込み、ケースの縁へ手を伸ばしかけて、途中で止めた。


「触っていいのかな、これ」


「普通に考えたら、そのままの方がいいと思います」


「普通が仕事してないんだよね、ここに来てから」


 結局、伊織はケースに触れなかった。


「でも、誰かが書いたんだよね」


「少なくとも、自然についた傷や汚れではありません」


「可能性があるとしたら、乃愛さんが記憶を失う前に、ご自身で書いたということも考えられます」


「は?」


 乃愛の声が低くなる。


「だから、それは知らないって言ってるじゃん」


「今の乃愛さんには、そうでしょう。記憶を失う前の乃愛さんが何を知っていたのかは、今のわたくしたちには分かりません」


 乃愛は言い返そうとして、口を閉じた。


 紬は、喉の奥が乾いていることに気づいた。


「ひとりにしないで、って……」


 思ったより声が小さくて、紬は一度言葉を切った。


「誰が、誰に言ってるんだろう」


 乃愛が紬を見た。


 その視線に、紬は息を詰めた。怒っているのとは違う。疑っている、と言い切るにはまだ早い。ただ、紬の名前がそこに書かれているせいで、乃愛はどうしても紬を見なければならなくなっている。


「つむぎを、って書いてある」


 乃愛は低く言った。


「だから、あんたをひとりにするなって意味でしょ」


「うん。たぶん」


 紬が答えると、乃愛は一瞬だけ何かを言いかけた。そのまま、言葉を飲み込んだ。


 その沈黙が、かえって嫌だった。


「……あんたは?」


 乃愛が低く言った。


 紬は、何を聞かれたのか分からずに乃愛を見る。


「え?」


「あんたは、何か覚えてないの」


 乃愛の視線が、床に落ちたケースから紬へ移る。


「自分の名前がそこに書かれてるんだよ。見覚えとか、思い出したこととか、何もないわけ?」


 言われて、紬はもう一度ケースを見た。


 つむぎをひとりにしないで。


 黒い文字は、何度見ても同じ形をしている。それでも、その筆跡にも、言葉にも、胸の奥を引っかくような懐かしさはなかった。見覚えがない、というより、見覚えがあるかどうかを確かめるための土台が、自分の中に残っていない。


「……ない」


 答えた瞬間、自分の声がひどく頼りなく聞こえた。


「本当に?」


 乃愛の声に棘が混じる。


「乃愛ちゃん、やめなよ」


 伊織が小さく止めた。


「今、紬ちゃんを責めてもしょうがなくない?」


「責めてない」


 乃愛はすぐに言った。


 その言い方は責めている時のものに近かった。乃愛自身もそれに気づいたのか、顔を伏せて、もう一度ケースを見る。


「ただ、何か一個くらいないのって思っただけ」


 アリスも紬を見ていた。


 その視線は乃愛ほど鋭くはなかったが、優しいだけでもなかった。確かめなければならないものを、丁寧に見ている目だった。


「紬さん。断片でも構いません。名前を見た時、文字を見た時、何か引っかかるものはありませんでしたか」


「ない、と思う」


「思う?」


「……分からない。何かを思い出しかけているのか、それとも怖いだけなのかも、分からない」


 言いながら、紬は自分の手が冷えていることに気づいた。


 ここに来てから、何度その言葉を口にしたのか分からない。名前も、場所も、映像の意味も、誰が見ていたのかも、どうしてケースの内側に自分の名前があるのかも。分からない、という言葉だけが、どんどん軽くなっていく。軽くなっていくのに、そのたびに足元は沈んでいく。


 乃愛は何も言わなかった。


 何も言わないまま、紬を見ていた。


 その視線から逃げるように、伊織がケースへ目を落とす。


「でもさ」


「逆にも読めるよね」


「逆?」


「紬ちゃんをひとりにするな、ってことじゃん。守れって意味にも聞こえる。でも……」


 伊織はそこで言葉を止めた。


 乃愛が顔を上げる。


「でも?」


「ひとりにしたら、まずいって意味にも聞こえる」


 紬は伊織を見た。伊織はすぐに困ったような顔をした。


「ごめん。今の、言い方悪かった」


「……ううん」


 悪くない、とは言えなかった。


 ケースの内側に書かれた文字が、さっきより黒く沈んで見えた。助けを求めているようにも、誰かに注意を促しているようにも見える。どちらにしても、その中心にあるのは紬の名前だった。


 アリスが割れたスマートフォンへ視線を落とす。


「この文字を書いた人は、見えない場所に残しました」


「だから?」


「すぐ見せるつもりなら、外側に書いたはずです。普段は見えなくていい。でも、いつか見つかってほしかった」


「いつかって、今?」


 伊織の声に、誰も答えなかった。


 乃愛は割れたスマートフォンを見下ろした。画面のひびに蛍光灯の光が入り、白い線がいくつも走っている。さっきまで自分の手の中にあったものなのに、今はもう、簡単に拾い上げてポケットへ戻せるものには見えなかった。


「……私の字じゃない」


 間が空いた。


「たぶん」


 その最後の一言で、伊織もアリスも黙った。


 乃愛は自分の字を覚えていない。自分がどんな文字を書いていたのか、どんな癖があったのか、丁寧だったのか乱暴だったのか、それすら今の彼女には分からない。だから否定も、完全な否定にはならなかった。


 紬は床のケースを見つめた。


 黒い線は、何度見ても同じ言葉にしかならない。


 つむぎをひとりにしないで。


 その言葉が自分を助けようとしているのか、自分から三人を守ろうとしているのか、まだ分からなかった。


 やがて、アリスが顔を上げた。


「ここで考えていても、答えは出ません」


「またそれ?」


「はい。またです」


 アリスは作業台の上を見た。そこには、古い鍵束が置かれている。白いプラスチックのタグに、擦れた文字でこう書かれていた。


 標本資料室。


 乃愛が先に動いた。


 スマートフォン本体は拾わなかった。外れたケースも、そのままにした。ただ、鍵束だけを掴む。


「行けばいいんでしょ」


 声は強かった。けれど、さっきまでのように誰かを押し返す強さではなかった。


 四人は作業場の奥へ向かった。


 非常灯の緑が、細い通路の壁を濡らしている。突き当たりの扉には、小さなプレートがついていた。


 標本資料室。


 乃愛は白いタグの鍵を差し込む。錆びた金属が擦れ、すぐには回らない。


「押しながら、かもしれません」


「分かってる」


 分かっていない手つきで、乃愛は扉に体重をかけた。紬も隣から手を添える。


 もう一度、鍵を回す。


 低い音がした。


 錠が外れる音だった。


 扉の隙間から、冷たい空気が流れてくる。古い紙と、防腐剤のような匂い。長い間閉じ込められていたものが、ようやく外へ漏れ出したような空気だった。


 誰も、最初の一歩を踏み出さなかった。


 暗がりの奥で、ガラスのケースがひとつ、非常灯の光を受けて鈍く光っていた。


 標本資料室は、思っていたより広かった。


 壁際には背の高い棚が並び、中央には長い作業台が置かれている。天井の蛍光灯は半分ほど消えていて、点いているものも明るさが足りない。光の届かない棚の下には黒い影が溜まり、奥へ進むほど、古い紙と薬品の匂いが強くなった。


 透明な瓶がいくつも並んでいる。濁った液体の中に、小さな魚の影が浮いていた。骨格標本。乾いたサンゴ。古い展示パネル。割れた水槽の部品。最初に目に入るものは、どれも水族館の裏側にあってもおかしくないものばかりだった。


 紬は入口に立ったまま、足を出せなかった。


 棚の奥に、魚ではないものが見えた。


 透明なケースの中に、学生証が入っている。


 一枚ではない。


 それは標本瓶と同じ棚に、同じ間隔で並べられていた。学生証、カードケース、壊れたヘアピン、古いスマートフォンケース、折れたシャーペン、黒く塗り潰された名札。どれも透明なケースに入れられ、白いラベルが貼られている。魚の名前や採集地を書くような細い字で、日付らしい数字と番号が並んでいた。


「……何これ」


 伊織の声が掠れた。


 乃愛は答えなかった。アリスも、すぐには動かなかった。


 紬は一番近くのケースに近づいた。中には古い学生証が入っている。透明なカバーは傷だらけで、角が欠けていた。写真の部分は水に濡れたように滲み、顔ははっきりしない。名前の欄だけは読めた。


 最上伊織。


 紬は息を止めた。


「伊織ちゃん」


 呼ぶと、伊織は嫌な予感をすでに知っていたような顔で近づいてきた。ケースの中の学生証を見る。名前を見る。写真を見る。自分と同じ名前がそこにあるのに、彼女はそれを自分のものだとは言えなかった。


「私の……なの?」


 言葉が、部屋の中で頼りなく落ちた。


 アリスが別のケースを見つける。


「こちらにもあります」


 その声に、誰もすぐには反応できなかった。


 棚の二段目には、別の学生証があった。名前の欄には、鷹宮アリスと書かれている。写真は半分黒く汚れていて、顔の輪郭しか分からない。だが制服は同じで、校章も同じだった。アリスはしばらくそれを見ていたが、やがて自分の胸元にある学生証へ手を当てた。


「わたくしの名前のものです」


 その言い方は静かだった。指先だけが白くなっていた。


 乃愛は何も言わずに、棚の奥へ進んだ。足音が乱れている。三つ目のケースの前で止まり、舌打ちをするように息を吐いた。


 楠乃愛。


 透明なケースの内側に、その名前があった。


 乃愛はケースを乱暴に掴みかけて、透明な蓋に指が触れる直前で止めた。触れれば何かが確定してしまう。そんなふうに見えた。


「ふざけてる」


 乃愛は低く言った。


「こんなの、ただの同姓同名かもしれないじゃん」


「同じ学校の生徒の学生証が三人分も揃っているのは、偶然とは考えにくいです」


「分かってるよ」


 乃愛が吐き捨てる。


「だからムカつくんでしょ!」


 言葉は荒かったが、乃愛の視線はケースから動かなかった。


 そこに入っているのは、ただの学生証ではなかった。透明なケースに収められ、白いラベルを貼られ、棚の上にきちんと並べられている。標本瓶の中の魚と同じように、壊れないように、失くならないように、あとで見返せるように保存されていた。


「なんで、こんなケースにきれいにまとめられてんの」


 伊織が呟いた。


「だって、おかしくない? 落としたとか、忘れたとかなら、こんなふうにしないでしょ。学生証って、普通、返すものじゃん。学校とか、家とか、警察とか。なのに――」


 伊織は言いながら、自分の声が震えていくのを止められないようだった。


「なのに、なんで水族館の資料室にあるの?」


 その一言で、紬は棚の奥を見た。


 濁った液体に浮かぶ小さな魚。乾いたサンゴ。古い展示パネル。割れた水槽の部品。その隣に、学生証がある。カードケースがある。髪留めがある。スマートフォンケースがある。


 水族館に残されるはずのないものが、水族館の資料として並べられている。


 その事実が、遅れて足元から上がってきた。


「同じものが、二つあるということですよね」


 アリスは自分の胸元にある学生証へ手を当てたまま言った。


「今わたくしたちが持っている学生証と、ここに保管されている学生証。同じ名前で、同じ学校のものが、別々に存在している」


「やめて」


 伊織が小さく言った。


「ちゃんと整理しないで。怖くなるから」


「整理しなければ、もっと怖いです」


 アリスはそう言ったが、その指先は白かった。


 乃愛がケースを睨む。


「誰がこんなことしたの」


 それは怒鳴り声ではなかった。もっと低く、抑えた声だった。


「誰が、何のために、こんなの集めてんの」


 透明な蓋の向こうで、楠乃愛という名前が動かずにある。


 伊織は棚の前から動けずにいた。ケースの中の自分の名前を見続けている。笑おうとして、口元を上げかけて、やめる。


 その仕草が、クラゲ水槽の前で映像を見た時と同じだったことに、紬は気づいた。


 紬は自分の名前を探した。


 棚の端から端まで、目で追う。ケースのラベル。学生証。カードケース。名札。黒く塗り潰された紙片。名前の読めるもの、読めないもの、ほとんど消されているもの。そこに最上伊織、鷹宮アリス、楠乃愛の名前は何度もあった。別々のケースに、別々の傷み方で残っていた。


 けれど、有沢紬という名前は、どこにもなかった。


「紬さん」


 アリスが呼んだ。


「ありましたか」


 その問いに、紬は首を振るしかなかった。


「ない」


 たった二文字が、標本資料室の中でひどく大きく聞こえた。


「見落としてるだけかもしれないけど」


 紬はすぐに付け足した。


 そう言わなければ、棚の中に有沢紬という名前が見つからないことを、自分で認めてしまう気がした。


 伊織が振り向く。


「見落としてるだけかも」


「うん」


 紬は頷いた。


 その声を、自分でも信じられなかった。


 乃愛は何も言わなかった。何も言わないまま、棚のラベルを一つずつ見ている。言葉にしない視線の方が、声よりもずっと痛かった。


 部屋の奥へ進むにつれて、標本資料室は、水族館の資料室という形から次第に外れていった。瓶詰めの魚や古い解説パネルの隣に、人の持ち物が増えていく。ヘアピン。メモ帳。壊れた時計。片方だけの靴下。折れた学生証のストラップ。誰かが実際に身につけていたはずのものが、分類され、番号を振られ、透明なケースに収められている。


 ここにあるものを見れば見るほど、ただ迷い込んだだけではないのだと分かってしまう。誰かが集め、分け、残している。捨てられたものでも、忘れられたものでもなく、あとで見返すためのものとして、ここに置かれている。


 アリスが作業台の下に置かれていた箱を引き出した。


「写真があります」


 箱の中には、古い写真の束が入っていた。輪ゴムは劣化して切れかけ、紙の端は丸まっている。アリスは慎重に一枚を取り出し、作業台の上へ置いた。


 大水槽前の写真だった。


 青い光に照らされた巨大な水槽の前で、三人の少女が肩を寄せている。顔を引きつらせた伊織と、姿勢を崩さないままカメラを見ているアリス。その手前に、片腕を伸ばした乃愛の顔が半分だけ大きく写り込んでいた。画面の端には、スマートフォンを持つ腕らしい影もある。


 紬は写真を傾けた。


 誰かが離れた場所から撮った写真ではない。三人の距離は近すぎて、画面の端は不自然に歪んでいる。乃愛の腕だけが、こちらへ伸びていた。


 自分たちで撮った写真だった。


 それなのに、写真は紙に印刷されていた。


 紬は写真の端を見つめた。紙の白い余白が、指の下で波打っている。スマートフォンで撮られた画像が、どこかで取り出され、印刷され、束にされて、この箱へしまわれた。そう考えるしかなかった。


 アリスが写真の余白を指で押さえる。


「これ、スマートフォンで撮ったものですよね」


「たぶん。腕、私っぽいし」


 乃愛は嫌そうに顔を歪めた。


「でも、なんで印刷されてんの」


 誰も答えられなかった。


 紬は、そこに自分の姿を探した。


 いない。


 写真の端にも、水槽の反射にも、三人の肩の隙間にも、紬らしい影はなかった。


「これ、私たち……?」


「少なくとも、そう見えます」


 アリスは写真を順番に並べた。


 大水槽前の三人。


 また、大水槽前の三人。


 さらに、大水槽前の三人。


 どの写真にも、大水槽の前で肩を寄せる三人が写っていた。画面の端には、乃愛の腕が斜めに入り込んでいる。伊織とアリスはその内側に収まり、背後では青い水槽の光が揺れていた。構図は似ている。まったく同じではない。伊織の顔が横を向いているもの。アリスの肩が内側へ寄っているもの。乃愛の腕の角度が変わっているもの。笑おうとしている写真もあれば、誰も笑っていない写真もあった。


 同じ場所で撮った写真ではある。


 けれど、同じ瞬間に続けて撮った写真ではないように見えた。


 写真の端の傷み方は、一枚ごとに違っていた。日付らしい部分は黒く塗り潰され、余白に書かれていた番号も強く削られている。どれも大水槽前の自撮りで、どれも三人だけが写っていた。


「じゃあ、私たち……初めましてじゃなかったのかな」


 伊織は写真を見たまま、口元を緩めた。


 ここで目覚めてからずっと、四人は何も持っていなかった。名前も、記憶も、ここへ来た理由も、自分たちがどんな関係だったのかも。写真の中の三人は、少なくとも一度は同じ場所で肩を寄せ、自分たちでカメラを向けていた。


 見覚えはない。


 それでも、初めてではなかったのかもしれない。


 そのことだけは、ほんの少しだけ嬉しかった。


「記憶をなくす前に撮った写真、ってこと?」


 伊織は続けた。さっきより声が薄くなっていた。


「それなら、一枚でいいじゃん」


 乃愛が写真を一枚掴み、別の写真と見比べる。


 伊織の口元から、かすかな明るさが消えた。


「同じ場所で、同じように撮ってる。でも全部ちょっとずつ違う。これ、一回ここに来た時にまとめて撮ったって感じじゃなくない?」


「一回じゃない、ってこと?」


「そう見えるって言ってんの」


 乃愛は写真を作業台の上へ戻した。紙の端が擦れ、乾いた音がした。


 大水槽前に立つ三人。


 何枚も、何枚も。


 同じ場所で、同じように肩を寄せ、同じように記録されている。けれど、どの写真にも紬はいなかった。


「以前にも、ここに来ていたのでしょうか」


 アリスは写真から目を離さない。


「わたくしたちは、以前にもこの大水槽の前に立っていた。しかも、一度ではなく」


「やめてよ。そういうの、言葉にすると本当っぽくなるから」


「本当かどうかは分かりません。ですが、この写真が今のわたくしたちと無関係だとは思えません」


 乃愛が写真を睨んだ。


「なのに、だけいないじゃん」


 三人の視線が写真から紬へ移る。


 紬は答えられなかった。自分も同じように目覚め、同じように水槽を巡り、同じように名前を失っていると思っていた。なのに写真の中には、最初から自分だけがいない。


 乃愛がもう一度、写真を見た。


「なんで、あんただけ写ってないの」


 その問いは、紬ではなく、写真に向けられているようにも聞こえた。


 並んだ写真には、どれも三人だけが写っていた。

展示番号07号 『標本と記録』


 水族館や博物館には、展示室に並べられているものだけでなく、調査や研究のために保管されている標本や資料があります。標本は、ただ古いものを残しているのではなく、いつ、どこで、どのように採集されたのかという記録と一緒に保管されることで、あとから見返すための手掛かりになります。表に出ている展示の裏側には、見せるためではなく、忘れないために残されたものがあります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ