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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第二章 紬がれた記録
7/12

展示番号06号 『バックヤード、隠された場所』

 扉の向こうに、夜風はなかった。


 最初に流れ込んできた冷たい空気のせいで、紬は一瞬だけ外へ出られるのではないかと思った。タッチプールのぬるい湿気とは違う、乾いた冷たさが頬に触れたからだ。数歩進んだところで、その期待はすぐにほどけていった。そこにあったのは空でも出口でもなく、灰色のコンクリートと、壁沿いに這う太い配管と、低く唸り続ける機械の音だった。


 展示室の水音は、ガラスの向こうで生き物を美しく見せるために整えられていたのだと、裏側へ入って初めて分かった。ここで聞こえる音は、もっと鈍く、近く、床や壁を通して身体の内側に触れてくる。水を送り、濾過し、温度を保ち、表側の水槽を何事もない顔で光らせるための音だった。


 乃愛は扉を押さえたまま、三人が通るのを待っていた。


 命令するように「早く」と言ったくせに、紬が最後に入るまで、その手は扉から離れなかった。全員が通り抜けると、乃愛はようやく手を引く。扉は重い音を立てて閉まり、タッチプールの明かりは細い隙間ごと消えた。


 アリスの手には、濡れた指を拭いた紙タオルが丸められている。さっきまで水の匂いを吸っていた白い紙は、すでに小さくしぼみ、彼女はそれを捨てる場所も見つけられないまま握っていた。


「……外じゃないね」


 伊織が言った。


 声は軽くしようとしているのに、うまく浮かばなかった。誰も返事をしない。さっき扉が開いた時に胸の奥へ差した薄い期待まで、完全に消えてしまう気がした。


 通路の天井には、細長い蛍光灯がまばらに残っている。そのいくつかは消え、いくつかは弱く点滅していた。壁際には清掃用のワゴンが押し込まれ、バケツの中には濡れたモップが斜めに倒れている。棚には洗剤のボトル、巻かれたホース、黒いゴム手袋、畳まれた作業服。段ボール箱の側面は湿気で波打ち、古い紙と金属と薬品の匂いが混ざっていた。


 清掃用ワゴンの脇には、半透明のゴミ袋が口を開けていた。


 アリスはそこで、ようやく自分の手元を見た。濡れた紙タオルをまだ握っている。タッチプールの前で乃愛から受け取ったものだった。湿った紙は指の形に潰れ、白かったはずの面に、水槽の縁の汚れが薄く移っている。


「……捨てます」


 誰に断ったのか分からない声で、アリスは紙タオルをゴミ袋の中へ落とした。


 乃愛が横目で見る。


「ゴミでしょ」


「はい。ゴミです」


 アリスはそう答えてから、自分の指先を見下ろした。水気は拭き取れている。それでも、さっき水に触れた感触だけは、まだ残っているようだった。


 バックヤードは、表の水族館とは別の場所だった。


 魚を見せるための場所ではなく、魚を見せ続けるために隠されている場所。水槽の青い光も、案内パネルの丸い文字も、子どもが指を差すためのイラストもここにはない。あるのは、剥き出しの装置と、誰かがさっきまで作業していたような乱れと、もう誰も戻ってこないような静けさだけだった。


「一般客が入る場所じゃないね、ここ」


 伊織が壁に貼られた点検表を覗き込む。日付の欄はところどころ空白で、名前の欄には判子のような赤い印が並んでいたが、薄暗くて読み取れない。


「だから関係者以外立入禁止なんでしょ」


 乃愛はそう言って、奥へ進もうとした。


「待ってください」


 アリスが声をかける。反射的に丁寧な言い方を保っていたが、いつもより少し早口だった。


「まず、ここがどこへ続いているのか確認した方がいいと思います。出口の可能性も、危険な場所である可能性もあります」


「確認してから進めるなら、最初からこんなところ来てない」


「そうですが、だからこそ――」


「じゃあ、戻る?」


 乃愛が振り返る。


 その一言で、全員の視線が閉まった扉へ向かった。向こう側にはタッチプールがあり、空になった紙タオルのケースがあり、これまで見せられてきた展示が続いている。戻ったところで、そこが安全な場所ではないことだけは、もう誰も疑っていなかった。


 アリスは小さく息を吐き、握る手を少し下ろした。


「……戻りません」


「なら行くしかないじゃん」


「はい」


 アリスは、閉まった扉から視線を外した。


「立ち止まっていても、分かることは増えません。危険かどうかも、出口があるかどうかも、進まなければ確認できないと思います」


「また確認?」


 乃愛がうんざりしたように言う。


「確認しないまま進むよりはいいです」


「ほんと、そういうの好きだよね」


 乱暴な言い方だったが、乃愛は一人で先へ走り出すことはしなかった。通路の奥へ向き直り、三人の足音が近づくのを聞いてから歩き出す。そのわずかな間を、紬は見落とさなかった。


 通路は途中で広くなり、作業場のような空間へ出た。


 大きな濾過装置が壁際に並び、透明なパイプの中を水が流れている。ポンプの振動は床から伝わり、足裏に鈍く響いた。作業台の上には錆びたクリップボードが置かれ、乾ききっていない輪染みがいくつも残っている。近くのシンクには、水滴のついた金属のボウルが伏せられていた。


 紬は、そこに人の気配が残っていることの方が怖かった。


 無人の施設だと思っていたわけではない。館内放送が流れ、ライトが点き、水槽に映像がにじむ以上、どこかに仕組みがあることは分かっていた。それでも、こうしてモップや手袋や点検表を見てしまうと、さっきまで自分たちが歩いていた展示室の裏に、具体的な手があったことを突きつけられる。誰かがここで、展示を元の形に戻していた。


 伊織が作業台の奥にあるホワイトボードを見つけた。


「ねえ、これ」


 白い板には、ほとんど消えかけた文字が残っていた。上から何度も消されたのか、黒い跡が薄く広がり、読める部分は断片だけになっている。


 清掃は済んでいる。照明は復旧済み。音声案内は再確認。予備鍵は所定位置。そんな事務的な言葉が、ところどころに残っていた。


 その中に、回収物、という文字がある。


 続く言葉は、未返却。


 誰が何を回収して、どこへ返すはずだったのかは分からない。ほかの文字も途中で途切れ、何かの単語の後ろ半分だけが、ぼんやりと板に残っていた。


 紬は、その中に「反」という一文字を見つけた。


 続く文字は、濡れた布で乱暴に拭き取られたように潰れている。反射。反応。どれにも見えて、どれでもない。


 誰かがここに書いたものを、あとから別の誰かが消した。


 それだけは、分かった。


「回収物って、落とし物とか?」


 伊織が言った。


「その可能性はあります」


 アリスはホワイトボードを見たまま答えたが、すぐには続けなかった。


「ただ、未返却と書かれているのに、誰に返すものなのかがありません」


「そこ、ちゃんとしてないの嫌だね」


「ちゃんとしていないというより、必要な部分だけ消されているように見えます」


 乃愛はホワイトボードを一瞥しただけで、作業台の引き出しを開け始めた。アリスが止めようとする前に、一段目、二段目と乱暴に引き出しが開く。中にはペン、結束バンド、予備の乾電池、手袋、マスク、濡れて固まったメモ用紙が詰め込まれていた。


「乃愛さん、勝手に――」


「じゃあ何、ここで待ってれば誰か説明しに来てくれるわけ?」


 乃愛は三段目の引き出しを開ける。奥で金属が触れ合う音がした。


 そこに、鍵束が入っていた。


 古いリングに、いくつもの鍵が通されている。白いプラスチックのタグがついたものもあれば、何も書かれていないものもあった。タグの文字は擦れている。油性ペンの跡が滲み、指の脂で曇っていたが、一つだけ、どうにか読めるものがあった。


 標本資料室。


「標本資料室……?」


 伊織の声は、問いかけというより、そうであってほしいものを探す声に近かった。


「魚の標本とか置いてるところ、だよね」


「水族館なら、そういう部屋があってもおかしくはありません」


 アリスは答えたあと、少し間を置いた。


「ただ、今はおかしくないことの方が少ないです」


「だよね。聞かなきゃよかった」


 伊織は笑おうとしたが、すぐに口元を戻した。


 乃愛は鍵束を持ち上げた。金属同士がぶつかり、作業場の中に硬い音が落ちる。


「でも、これがあるってことは、開けろってことでしょ?」


「そうとは限りません」


 乃愛の指が、白いタグを弾く。


「どっちでもいい。ここに置いてあったんだから、使えるってことでしょ」


 アリスがその文字を声に出さなかったのは、言えば何かが決まってしまう気がしたからかもしれない。けれど、三人も同じものを見ていた。誰かがこの部屋へ入るための鍵を、わざわざ作業台の引き出しに残していた気がした。


 紬はホワイトボードから鍵束へ視線を移す。その時、作業場の奥に並んだ棚が目に入った。


 ファイルボックスがいくつもある。


 中身はほとんど抜かれていた。厚紙の背表紙に残るラベルの跡だけが白く、そこに何かが貼られていたことは分かる。隙間には埃の線が残り、最近まで物があった場所だけが四角くきれいだった。誰かが必要なものだけを持ち出したようにも、見られたくないものを先に隠したようにも見える。


「中身、ないね」


 伊織が言った。


 乃愛は空のボックスを引っ張り出し、底まで覗いてから棚へ戻す。戻し方が雑で、厚紙が棚板にぶつかって乾いた音を立てた。


「肝心なものだけないじゃん」


 誰も、それが何を指しているのか尋ねなかった。


 自分たちが何者なのか。どうして水族館にいるのか。なぜ名前だけが残され、記憶が抜け落ちているのか。答えがあるとすれば、きっとこういう場所に置かれているはずだった。けれど、このバックヤードに残っているのは、答えではなく、答えがどこかへ移された痕跡だけだった。


 アリスは鍵束の白いタグを見つめたまま、一度ためらった。


「標本資料室へ行けば、何か分かるかもしれません」


「分かるかもしれない、ばっかり」


 乃愛が言った。


「でも、分からないままここにいるよりはいいです」


「それ、さっきも聞いた」


「何度でも言います。今のわたくしたちには、それくらいしかありません」


 アリスの声は静かだったが、最後の方だけわずかに震えていた。乃愛はそれ以上言い返さず、鍵束を取り上げる。自分が持つ、と言葉にはしなかった。ただ、誰にも渡さないようにリングごと握った。


 紬は、作業場の壁際にもう一枚扉があることに気づいた。


 掃除用具の棚と、積まれた段ボールの陰に半分だけ隠れている。扉には何の表示もない。ただ、閉まりきっていない隙間から、展示室とは違う暗さが覗いていた。


「ここ、まだ部屋がある」


 扉を押すと、蝶番が小さく軋んだ。


 中は狭い管理室だった。机と椅子が一つずつ置かれ、壁際には小さなモニターがいくつも並んでいる。どれも電源は落ちていて、黒いガラスに紬たちの影だけが映っていた。


 画面の下には、白いテープで場所の名前が貼られている。


 大水槽、熱帯、クラゲ、淡水、タッチプール、ミュージアムショップ、レストラン。


 紬は、喉の奥が狭くなるのを感じた。


 映像は映っていない。誰かが今も見ていた証拠もない。それでも、名前だけで十分だった。自分たちが歩いてきた場所は、展示室ではなく、ひとつずつ監視するための区画としてここに並んでいた。読めば読むほど、そこを歩いていた自分たちの姿まで、黒い画面の奥に残っているように思えた。


「紬ちゃん?」


 伊織に呼ばれて、紬はようやくモニターから目を離した。


「どうしたの」


「見られるようになってただけでしょ」


 乃愛は低く言った。


「実際に見てたかどうかは分からない」


 そう言いながら、乃愛の視線は黒い画面から離れなかった。


 電源の落ちたモニターには、今の四人がぼんやり映っている。大水槽、熱帯、クラゲ、淡水。画面の下に貼られた白いテープの文字を、乃愛は順に追っていった。


 タッチプール。


 その文字の前で、目が止まる。


 さっきの水のぬるさが、指の根元に戻ってきたようだった。水槽の縁。濡れた紙タオル。自分では触れられなかった水。代わりに手を伸ばしたアリスの白い指。あの時、歯を食いしばっていたことも、目を逸らしたことも、何も言えずに立っていたことも、黒い画面のどれかに残っていたのかもしれない。


 見られていたのかもしれない。


 記録されていたのかもしれない。


 なのに、こちらからは誰にも届かない。


 乃愛は何か言おうとして、やめた。


 誰も何も言わなかった。


 管理室を出ると、乃愛は鍵束を握ったまま、作業場の奥へ歩き出した。


 管理室の扉は、作業台のすぐ脇にあった。さっき鍵束を見つけた引き出しは、まだ半分だけ開いたままになっている。その横を通り過ぎると、床の材質がわずかに変わった。作業場の湿ったコンクリートよりも、通路の床は少しざらついていて、靴底に細かな砂が噛む音がした。


 展示室のような案内灯はない。壁の上の非常灯だけが、緑色にぼんやり光っている。突き当たりの扉には、小さなプレートがついていた。


 標本資料室。


 乃愛の手の中で、鍵束が小さく鳴った。


 あの扉のための鍵なのだと、誰に言われなくても分かった。ここまで来た以上、開けない理由はない。けれど何かが分かるということは、知らないままでいられなくなるということでもあった。


 伊織が、作業台のあたりから声をかける。


「入るの?」


「……行くしかないでしょ」


 少し遅れて、乃愛はそう答えた。


 けれど、足は動かなかった。


 通路は短い。扉までは数歩しかない。それなのに、非常灯の緑に沈んだ奥の扉だけが、ずっと遠い場所にあるように見えた。乃愛は鍵束を握り直し、もう一歩だけ進もうとして、できなかった。


 小さく舌打ちをする。


 乃愛は踵を返し、作業台に握っていた鍵束を、投げるように置く。金属同士がぶつかる音が、狭い作業場に跳ねた。


「……何なの」


 ポケットからスマートフォンを取り出す。


 ピンク色のケースに入ったそれは、ここに来てから何の役にも立っていない。圏外。通話不能。何度画面を開いても、残っているのは時刻と、意味のない明るさだけだった。


 それでも乃愛は、画面を点ける。


 消す。


 また点ける。


 アンテナの表示は戻らない。通知もない。誰かからの着信も、外へつながる気配もない。


 見られていたかもしれない。


 記録されていたかもしれない。


 なのに、こちらからは誰にも届かない。


「……何なの、ほんとに」


 声が荒くなる。


「名前だけ出して、変なもの見せて、出口もなくて、裏まで来たら今度は資料室? こっちは何も覚えてないのに、向こうだけ全部知ってるみたいな顔して――」


 アリスが何か言おうとした。


 乃愛は、それより早くスマートフォンを振り上げる。


「これだって使えないなら、持ってる意味ないじゃん」


「乃愛ちゃん! 危ないよ!」


 伊織が叫んだ時には、もう遅かった。


「ふざけんな!」


 乃愛はスマートフォンを床へ投げつけた。


 硬い音が、バックヤードの壁に跳ね返る。画面がコンクリートに当たり、細いひびが蜘蛛の巣のように広がった。跳ねたスマートフォンは清掃用具の棚にぶつかり、ピンク色のケースだけが外れて、少し離れた場所へ滑っていく。


 誰もすぐには動かなかった。


「……超最悪」


 乃愛が、自分でやったことに吐き捨てるように言った。


 紬は床に落ちたスマートフォンを見た。割れた画面には、バックヤードの蛍光灯が細かく砕けて映っている。少し離れたところで、外れたケースが裏返しになっていた。普段なら見えない内側が、コンクリートで作られた床の上を向いている。


 最初は、ただの汚れに見えた。


 黒い線が、ケースの内側いっぱいに走っている。落とした衝撃でついた傷か、古いインクの滲みか、すぐには分からなかった。けれど、紬が一歩近づくと、その線のいくつかが文字の形をしていることに気づいた。


 息が、喉の途中で止まる。


 スマートフォンを外さなければ見えない場所だった。誰かに見せるためではない。けれど、絶対に消えないように、忘れても残るように、ケースの内側へ直接書き込まれている。


 文字は綺麗ではなかった。


 一度で書かれたものではない。同じ線の上を、何度も何度もなぞった跡があった。薄く灰色に残った線。強く押しつけられて黒く潰れた線。途中でかすれ、また別の濃さで上から重ねられた線。ところどころ、インクではなく傷のように、ケースの内側そのものが削れている。


 誰も動かなかった。


 乃愛だけが、ケースを見ていない。


 紬は、床に膝をつくようにして、もう一度その文字を見た。読まない方がいい、とどこかで思った。けれど目は離れなかった。線は汚れではなく、傷でもなく、確かに一つの文章になっていた。


 読めてしまった。


 ――()()()()()()()()()()()()


 伊織が息を呑んだ。


 アリスは、作業台の上の鍵束へ伸ばしかけた手を止める。金属の小さな音が鳴り、すぐに消えた。


 乃愛だけが、すぐには見ようとしなかった。


「乃愛ちゃん……」


 紬が呼ぶと、乃愛はようやくケースの方を見た。


 その顔から、怒りが落ちた。


 割れたスマートフォンを見た時とも、開かない扉を蹴った時とも違う顔だった。何かを思い出したわけではない。


 見てはいけないものを見てしまった時の顔だった。


「……知らない」


 小さな声だった。


「私、そんなの書いてない」


 誰も、それを否定しなかった。

展示番号06号 『水族館の裏側』


 水族館の水槽は、ただ水を入れておけば保たれるものではありません。濾過装置やポンプで水を循環させ、温度や酸素、汚れの量を管理することで、生き物が暮らせる環境が維持されています。お客様が見る展示の裏側には、配管や機械、清掃用具、点検表などがあり、表からは見えない場所で水槽の状態が支えられています。

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