展示番号05号 『タッチプール、触れてはいけないもの』
扉を抜けた先は、これまでの展示室よりも明るかった。
壁の色は淡い水色で、床には丸い泡の模様が描かれている。天井から下がった案内板には、ひらがなで「さわってみよう」と書かれていた。昼間なら、小さな子どもたちが声を上げて駆け寄る場所なのだろう。水槽の縁は低く、周囲には踏み台がいくつか置かれている。踏み台の角には、ぶつけたような細かい傷が残っていた。
中央に、浅い水槽がある。
タッチプールだった。
水面はほとんど揺れていない。底には白い砂と小さな石が敷かれ、ヒトデやナマコ、貝殻を背負ったヤドカリが、作りもののようにじっとしている。水槽の横には、手を入れる前に洗ってください、という案内がある。近くに手洗い場はなく、消毒液のボトルも使われないまま乾いていた。
「うわ」
乃愛が最初に声を出した。
嫌悪とも驚きともつかない声だった。
「触れってこと?」
「そういう展示でしょうね」
アリスが答える。
「見れば分かる」
「では、なぜ聞いたのですか」
「確認しただけ」
「私も答えただけです」
「そういうとこ、ほんと変わんないよね」
乃愛の声にはいつもの棘があった。それでも、足はタッチプールへ近づかない。入口から二歩進んだところで止まり、ポケットに突っ込んだ手だけが、布の中で何かを握っている。カードケースだと、紬には分かった。
伊織は水槽を覗き込んだ。
「これ、ほんとに触っていいやつ?」
「書いてあります」
アリスが展示パネルを読んだ。
海の生き物に、やさしく触れてみましょう。ヒトデやナマコ、ヤドカリは、見た目も手触りもそれぞれ違います。強くつかまず、水の中でそっと触れてください。触れたあとは、手をよく洗いましょう。
「触れていいのか、触れてはいけないのか、どちらなのでしょう」
アリスが小さく言った。
伊織は展示パネルを見上げる。丸い文字と、かわいらしい海の生き物の絵。その下に並ぶ注意書きだけが、妙に冷たく見えた。
「さっきまで、もっと普通の説明だった気がするんだけどな」
「普通?」
「ほら、やさしく触りましょう、とか、水から出さないでね、とか。子ども向けみたいな感じのやつ」
「今も、書いてあること自体は近いと思います」
「うん。でも、なんか言い方がこっち見てる」
伊織は自分で言ってから、嫌そうに口を閉じた。
アリスも、すぐには否定しなかった。
「……展示パネルが、わたくしたちに合わせているように見える、ということですか」
「言い直すともっと嫌だね、それ」
乃愛は会話に入らなかった。
紬はタッチプールの水面を見る。ヒトデの腕が、ほんのわずかに砂の上で動いた。動いたと言っても、すぐには分からないほどの遅さだった。触れてみれば、生きていることが分かるのかもしれない。触れなければ、水槽の中で置かれた飾りと見分けがつかない。
乃愛が、その水槽から目を逸らしていることに気づいた。
「触らないの?」
紬が聞くと、乃愛はすぐにこちらを睨んだ。
「触りたいように見えた?」
「見えない」
「じゃあ聞かないで」
「でも、さっきから見てない」
「見てる」
「見てない」
乃愛の声が少しか分からなくなったままなのだろう。口は開きかけていたが、何も出てこない。
アリスがタッチプールの縁に近づいた。
水槽のそばには、小さな丸いボタンがある。昼間なら、押すと生き物の説明が流れるものかもしれない。ボタンの表面には魚のシールが貼られていて、何度も押されたせいで絵の中央だけが擦れていた。
アリスは押さなかった。
代わりに、説明パネルの下に貼られた注意書きを最後まで読む。
「生き物を水から出さないでください。強くつかまないでください。驚かせないでください」
「当たり前じゃん」
乃愛が言う。
「当たり前のことほど、書いておかないと守られないのでしょうね」
「それ、私に言ってる?」
「いいえ」
「今のは絶対、私に言ってた」
「違います」
アリスはすぐ否定した。否定したあと、言葉を選ぶように黙る。
「でも、重なった部分はあったかもしれません」
「正直に言えばいいってもんじゃないんだけど」
「ごめんなさい」
「謝られるのもムカつく」
「では、何をすれば」
「何もしないで」
乃愛はそこで勝ったような顔をしなかった。むしろ、自分で言った言葉の置き場所に困ったように、タッチプールの向こう側へ視線を逃がす。
紬は、その横顔を見ていた。
乃愛はいつも先に拒む。言われる前に、触られる前に、近づかれる前に、相手の手を払うような言葉を投げる。それでも、その手が伸びてくるのを待っていないわけではないのかもしれない。そんなことを考えて、紬は自分でも驚いた。さっきまでなら、乃愛は怖い子、怒っている子、近づきにくい子で終わっていたはずだった。
タッチプールの照明が、ゆっくり落ちていく。
誰も声を上げなかった。
もう、何が始まるかを四人とも知っている。天井の光が弱まり、浅い水槽の内側だけが白く残った。水面に、別の景色が重なる。水深の浅いプールに映る映像は、これまでよりも歪んで見えた。揺れるたび、人物の顔が伸びたり縮んだりする。
最初に映ったのは、教室の隅だった。
乃愛がいる。
今より幼く見える。髪の長さはほとんど変わらない。机の上にはスマートフォンが置かれている。画面には、送信されていない文章が表示されていた。短い文が打たれ、消され、また打たれる。手元の動きだけがやけに生々しい。
大丈夫?
その四文字が出て、すぐ消える。
なんかあった?
それも消える。
ごめん。
そこまで打ったところで、映像の中の乃愛はスマートフォンを伏せた。
隣の乃愛が叫ぶ。
「やめろ!」
水槽は止まらない。
次の映像では、廊下に乃愛が立っていた。手を伸ばせば届きそうな距離で、同級生らしき少女が泣いている。乃愛は近づきかける。手を伸ばしかける。肩に触れる直前で、その手を引っ込めた。代わりに、何かを言う。口の動きはきつい。慰めではない。泣いている相手は顔を上げ、さらに困ったような顔をした。
音は聞こえない。
今の乃愛が顔を歪めたことで、その言葉が優しくなかったことだけは分かった。
「違う!」
乃愛の声だけが響く。
誰に向けた言葉なのか、分からなかった。水槽の中の自分へか、三人へか、それとも今も残っている自分の記憶へか。
映像が変わる。
放課後の教室。誰かが乃愛に話しかけている。乃愛はそちらを見ない。見ないまま、スマートフォンをいじる。相手の方は笑っている。けれど、乃愛の横顔は固い。話しかけられて嫌なのではない。嬉しくないわけでもない。ただ、その嬉しさをどう顔に出せばいいのか分からないまま、先に相手を遠ざける言葉を選んでいるように見えた。
乃愛はその映像を見て、立ち尽くしていた。
タッチプールの中で、ヤドカリが小さく動いた。貝殻ごと石の陰へ寄っていく。触れられる展示。そう書かれている場所で、生き物の方は触れられない場所へ逃げている。
「乃愛ちゃん」
伊織が呼んだ。
「呼ぶな」
乃愛は水槽を見たまま言う。
「今は呼んだ方がいいと思った」
「気のせい」
「気のせいじゃないかも」
「うるさい!」
伊織は黙らなかった。前の展示で一度、自分の笑い方を見せられたからなのかもしれない。怖がってはいる。それでも、今度は逃げ道のためではなく、乃愛のそばに言葉を置こうとしていた。
「触らないでって言ってる人が、ほんとに全部嫌なのかは、分かんないじゃん」
「分かったようなこと言わないで」
「分かってないよ。だから言ってる」
「意味分かんない」
「うん。私も、いま結構ぐちゃぐちゃ」
乃愛は伊織を睨もうとして、途中でやめた。
アリスはタッチプールの水面を見ている。
「触れていいと書かれていても、触れ方は別です」
「説教?」
乃愛が低く言う。
「違います。前に、私が間違えたと思っただけです」
アリスは返事を待たずに、言葉を続けた。
「前に、あなたへ言葉を投げすぎました。たぶん、触り方を間違えました」
乃愛は何も返さない。
紬は乃愛の手を見ていた。ポケットの中で握られていた手が、いつの間にか外へ出ている。指先は水槽の縁に近い。触れようと思えば触れられる距離だった。その手は水面の上で止まっている。
映像の中で、乃愛が誰かに手を伸ばす。
今度は、相手の方から乃愛へ近づいていた。小さな紙袋を差し出している。誕生日なのか、謝罪なのか、ただのお土産なのかは分からない。乃愛は受け取らない。いらない、と口が動く。相手の顔が曇る。乃愛はすぐに何か言い足そうとするが、遅かった。相手は紙袋を引っ込める。
水槽の外の乃愛が、歯を食いしばった。
「……いらなかったわけじゃない」
声は小さかった。
紬には聞こえた。伊織にも、アリスにも聞こえたはずだった。誰も聞き返さない。聞き返したら、乃愛が二度と言わなくなることを、三人とも分かっていた。
水槽の映像がまた切り替わる。
今度は、夜の自室だった。ピンク色のケースに入ったスマートフォンが、机の上に伏せられている。乃愛はベッドの端に座り、何度も画面を確認する。通知は来ない。自分から連絡すればいいだけなのに、指は動かない。やがて彼女はスマートフォンを投げる。布団の上に落ちただけで、大した音はしない。乃愛はそれをすぐ拾い、また伏せた。
今の乃愛が、ポケットの中のスマートフォンに触れた。
圏外の画面。役に立たないはずのもの。それでも彼女は、それを捨てられない。
照明が戻る。
水槽の中には、ヒトデとナマコとヤドカリだけが残った。水面は何事もなかったように浅く揺れている。映像が消えた後のタッチプールは、さっきよりもずっと明るく見えた。触れていい、と書かれた場所が、むしろ残酷なほど明るい。
乃愛はまだ水面に手を近づけたままだった。
その指先が、水面へ近づく。
水に触れる直前で止まった。
「無理」
乃愛が言った。
「無理なら、触らなくていいんじゃない」
紬は言った。
乃愛がこちらを見る。
「展示、進まないかもしれないじゃん」
「それでも」
「何それ。急に優しいふり?」
「ふりじゃない、と思う」
「自分で分かんないの?」
「分からない。でも、無理に触ったら、たぶん嫌になる」
乃愛は紬を睨んでいた。怒っている顔だった。けれど、怒りの奥で何かが緩んだようにも見えた。
伊織がそっと言う。
「じゃあ、誰かが代わりに触る?」
「勝手にすれば」
乃愛はすぐに言った。
その声には、いつもの勢いが戻りきっていなかった。
アリスがタッチプールの前へ進む。
「では、私が」
「アリスちゃん、触れるの?」
「正直に言うと、あまり触りたくありません」
「じゃあ無理しなくていいじゃん」
「触り方が分からないまま避けていると、ずっと分からないままになりそうなので」
アリスは袖口を上げた。水槽の横にある案内をもう一度読み、手を洗う場所がないことを確かめると、困ったように眉を寄せる。
「本来の手順ではありませんね」
「今さら手順気にする?」
「気になります」
「だろうね」
乃愛が言った。声から、さっきまでの硬さが抜けていた。
アリスは指先を水に入れた。
水は冷たかったらしい。彼女の肩がほんのわずかに跳ねる。ヒトデには触れず、水の中で指を止める。それから、砂の上にいる小さなヤドカリへゆっくり近づけた。ヤドカリは驚いたように貝殻ごと後ろへ下がる。
アリスはすぐに手を止めた。
「逃げられました」
「そりゃ逃げるでしょ」
乃愛が言う。
「追いかけない方がいいですね」
「当たり前」
「はい」
アリスは手を引き上げる。水滴が指先から落ち、タッチプールの水面に小さな波を作った。
その波が、乃愛の近くまで届く。
乃愛はそれを見ていた。
長い沈黙のあと、彼女は水槽の縁に置いていた指を下ろした。水には触れない。触れないまま、縁の冷たいプラスチックを撫でる。それだけだった。
紬は何も言わなかった。
伊織も、アリスも言わない。
乃愛はしばらくそのまま立っていた。やがて、手を離す。
「はい。終わり」
声は乱暴だった。
「何もしてないじゃん」
伊織が言う。
「した」
「何を?」
「近づいた」
伊織は笑った。
「そっか。じゃあ、したね」
乃愛は目を逸らした。
それ以上、誰も水槽に手を伸ばさなかった。
けれど、これまで次の順路を示していたライトは点かなかった。
水の音だけが残り、濡れた指先から落ちた雫が、タッチプールの縁で小さく光っていた。
アリスは、その指先をどうすればいいのか分からずに立っていた。伊織がポケットに手を入れかけ、自分がハンカチを持っていないことに気づいて、気まずそうに指を止める。紬も何も持っていない。
乃愛はしばらく黙っていたが、タッチプールの横に置かれていた紙タオルのケースへ手を伸ばした。透明な箱の中には、もう一枚しか残っていない。乃愛はそれを乱暴に抜き取り、アリスの方へ差し出した。
「使えば?」
アリスは驚いたように受け取った。
「ありがとうございます」
「別に……」
乃愛はすぐにそっぽを向いた。
伊織がにやけそうになり、乃愛に睨まれて慌てて顔を戻す。
「今のは何も見てない」
「見てたら沈める」
「水深浅いから無理じゃない?」
「じゃあ押しつける」
「怖い」
そのやり取りは、いつもの形を取り戻しかけていた。それでも、笑いきれるほど軽くはならなかった。アリスの手の中で、最後の紙タオルはすぐに湿って形を失った。透明なケースは空になり、取り出し口だけが口を開けたまま残っていた。
乃愛は水槽から目を逸らした。
「……で、次は?」
誰も答えなかった。
これまでなら、白いライトが点いた。今は、順路の先も、壁の表示も、黙ったままだった。
「案内する気なくしたわけ?」
乃愛は苛立ったように言い、タッチプールの周りを歩き始めた。展示板の裏、壁際、消火器の横。客が見るはずのない場所まで覗き込んでいく。
「乃愛さん、あまり勝手に触らない方が」
「じゃあここで一生待つ?」
アリスは言い返せず、濡れた指を紙タオルで押さえた。
タッチプールの奥に、清掃用具入れのような細い扉があった。壁と同じ色に塗られていて、正面から見ればただの継ぎ目にしか見えない。扉の横には「関係者以外立入禁止」と書かれたプレートがあり、カードリーダーの小さなランプは消えていた。
乃愛が取っ手に手をかける。
扉は動かなかった。
「ほら、鍵かかってるって」
伊織が言った。
乃愛は返事をしなかった。取っ手をもう一度引き、押し、斜めに力をかける。それでも扉は軋むだけで開かない。
「……むかつく」
低く呟いた次の瞬間、乃愛は扉の下のあたりを蹴飛ばした。
金属の鈍い音が、展示室の中に響いた。
アリスが短く息を呑み、伊織が反射的に肩をすくめる。タッチプールの水面がびくりと揺れ、奥にいた小さな生き物が石の陰へ身を縮めた。紬もその場で固まった。音が大きすぎた。閉館後の水族館では、誰もいないはずの場所ほど、たった一つの音がよく響く。
誰も、すぐには喋らなかった。
天井のスピーカーは沈黙したままで、非常灯も点滅しない。水の音と、低く動き続ける機械の振動だけが戻ってくる。
扉は、壊れたようには見えなかった。
けれど、蹴られた衝撃で奥の噛み合わせが外れたのか、指一本ぶんほどの隙間ができている。そこから、冷たい空気が漏れてきた。
展示室のぬるい湿気とは違う空気だった。
紬は思わず顔を上げる。洗剤と、古い紙と、金属の匂い。その奥に、外気に似た冷たさが混ざっていた。
「……もしかして、外?」
伊織が小さく言った。
その言葉だけで、四人の間に別の沈黙が落ちた。
外かもしれない。
非常口も、自動ドアも開かなかった。スマートフォンも役に立たない。その中で初めて、順路ではない場所に隙間ができている。そう思った瞬間、紬の胸の奥に、薄い期待のようなものが差し込んだ。
乃愛も、すぐには動かなかった。
蹴った足を下ろしたまま、扉の隙間を睨んでいる。怒っている顔だったが、口元だけがわずかに強張っていた。自分が開けた扉の向こうに何があるのか、彼女にも分かっていない。
「……開いちゃった」
乃愛が言った。
得意げというより、自分でも意外そうな声だった。
「これ、出口だったりしない?」
伊織の声は明るくしようとして、うまく明るくなりきらなかった。
「分かりません」
アリスは扉の隙間を見つめたまま答える。
「でも、展示順路ではなさそうです」
「じゃあ超当たりじゃん」
乃愛はもう一度、取っ手に手をかけた。さっきより慎重に力を入れる。扉は抵抗するように軋み、それから、嫌な音を立てて開いた。
奥にあったのは、夜の外ではなかった。
明かりの落ちた細い通路だった。床はコンクリートで、壁にはむき出しの配管が走っている。棚には洗剤のボトルや古い段ボールが積まれ、低く唸る機械音が奥から続いていた。客が入る場所ではない。出口ではないと分かった瞬間、伊織の肩が小さく落ちる。
「……外じゃないか」
「でも、表側でもありません」
アリスが言った。
その声には、さっきとは違う硬さがあった。
乃愛は一歩、扉の向こうへ入る。そこで振り返らずに足を止めた。扉がゆっくり閉まりかけると、彼女は片手でそれを押さえた。
「何してんの」
命令のような声だった。
乃愛は扉を押さえたまま動かなかった。自分だけ先へ行くこともできたはずなのに、三人が来るまで、その手を離そうとしなかった。
「行くよ」
今度は、声が低かった。
アリスが濡れた指を最後の紙タオルで拭き終え、小さく丸めた。伊織が肩をすくめて、その後に続く。紬は空になった紙タオルのケースを一度だけ見た。
取り出し口は、もう何も吐き出さない。
紬が扉の前まで来ると、乃愛はほんの少しだけ腕を引き、三人が通れるだけの隙間を残した。
「遅い」
そう言いながら、彼女は最後まで扉を押さえていた。
展示番号05号 『触れられるいきものたち』
タッチプールでは、ヒトデやナマコ、ウニ、ヤドカリなど、浅い海で暮らす生き物に触れられることがあります。ゆっくり動くもの、硬い殻や棘で身を守るもの、岩や貝殻の陰に隠れるものなど、触れられる生き物にもそれぞれの守り方があります。強く押したり、水から出したりすると大きな負担になるため、手でそっと触れ、水の中で観察することが大切です。




