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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第一章 水槽の中の少女たち
5/12

展示番号04号 『淡水魚エリア、普通の水』

 クラゲエリアを抜けた先は、急に明るかった。


 暗い展示室に慣れた目には、白い蛍光灯の光が痛い。壁の色も、水槽の中の光も、さっきまでの青や紫ではない。薄い灰色の床、白い壁、低い展示台。派手な演出の代わりに、近所の川や田んぼの写真が並んでいて、ポスターの端には、網を持った子どもの笑顔が色褪せて貼りついている。


 淡水魚エリア。


 扉の横の表示には、そう書かれていた。


 水槽の中では、小さな魚がゆっくり泳いでいる。メダカ、フナ、ドジョウ。名前だけなら聞いたことがある気がした。水も澄んではいるが、海水魚の水槽のような鮮やかさはない。底には砂利が敷かれ、水草が揺れている。覗き込む角度によっては、魚よりも水槽の奥に貼られた川辺の写真の方が目立った。


「地味」


 乃愛が言った。


「乃愛ちゃん、早い」


 伊織がすぐに返す。


「だって地味じゃん」


「いや、まあ、うん。否定は難しいけど」


 伊織は水槽に顔を近づけた。小さな魚が、慌てる様子もなく水草の陰へ入っていく。


「でもさ、クラゲの後にこれはこれで落ち着くかも。なんか、急に田舎っぽい」


「褒めてる?」


「褒めてる方向で言ったつもり」


「じゃあ失敗してる」


「だよね」


 伊織は笑いかけたが、前の展示で見た映像がまだ残っているのか、すぐに口元を引っ込めた。笑うかどうかを一度、考えるようになっている。その一瞬の間が、前より痛々しかった。


 紬は展示室の奥へ視線を向ける。


 ここには水槽以外のものが多かった。川の流れを説明する模型、田んぼの一年を写したパネル、子ども向けの観察ノートの見本。低い机の上には、鉛筆の入っていない鉛筆立てと、使われなくなったスタンプ台が置かれている。スタンプの印面は乾ききっていて、魚の絵が半分欠けていた。


 アリスは、その机の前で足を止めていた。


 水槽ではなく、展示台に置かれた観察ノートの見本を見ている。表紙には丸い字で「身近な川の生き物を見つけよう」と書かれていた。中を開くことはできない。透明なカバーがかけられ、角の部分だけが曇っている。


「身近な川、ですか」


 アリスが呟いた。


「川くらい見たことあるでしょ」


 乃愛がすぐに返す。


 アリスは考えるように、水槽の中を見た。


「川がどういうものかは、分かります」


「そうじゃなくて。見たことあるかって聞いてんの」


「……はっきりとは、思い出せません」


 乃愛は面倒くさそうに眉を寄せた。


「じゃあ、ないってこと?」


「ない、とも言い切れません。橋の上から見下ろしたような景色は、浮かびます。ただ、それが本当に自分の記憶なのか、どこかで見た写真なのか、区別がつきません」


「ややこしいなあ」


 伊織が横から小さく笑った。


「でも、それはちょっと分かるかも。川って、ちゃんと見るっていうより、通り過ぎる時に視界に入る感じだし」


「伊織ちゃん、今のはフォロー?」


「一応」


「一応なんだ」


 アリスは怒らなかった。観察ノートの見本から目を離し、水槽の中を泳ぐメダカを見る。


「近くにあるものほど、近くのものとして見ていなかったのかもしれません」


 乃愛は何か言いかけたが、口を閉じた。


 水槽の横に展示パネルがある。アリスはいつものように、そこへ向かった。今回はすぐに読み始めない。パネルの前に立ち、距離を置く。さっきまで、説明を読めば何か分かると思っていた。今はもう、説明板が何を隠しているかも分からない。


 それでも彼女は文字を追った。


 アリスは最後まで読んだ。


「普通の水」


 彼女は声に出す。


「海水じゃないって意味でしょ」


 乃愛が言った。


「そうだと思います」


「じゃあ悩むとこじゃなくない?」


「それは、そうなのですが」


 アリスは自分の手元を見る。持ち続けている学生証のカードケースは、彼女の指の中でまっすぐに揃えられていた。角を合わせる癖があるのか、何度も軽く親指で押さえている。


「普通という言葉は、便利すぎて怖いですね」


「また難しいこと言い出した」


「難しくしたいわけではありません」


「じゃあ簡単に言って」


 アリスは困った顔をした。


「簡単に言うと、私は、たぶん普通が下手です」


 伊織が小さく息を呑んだ。


 乃愛は水槽の中を見たまま、何も言わなかった。


 紬は、アリスの横顔を見る。金色の髪、白い肌、日本人離れした顔立ち。初めて見た時、その外見は水族館の暗い通路でひどく目立っていた。今、白い蛍光灯の下に立っても、やはりアリスだけが浮いて見える。けれど、それは見た目だけの問題ではないのだと、紬にも分かり始めていた。


 展示室の照明が、わずかに揺らいだ。


 四人は同時に水槽を見た。


 もう誰も驚ききれない。何が起きるのか分かっているわけではないのに、また何か見せられるのだという予感だけが、先に身体へ入ってくる。淡水魚の水槽の奥に、別の景色が重なっていった。


 最初に映ったのは、玄関だった。


 広い玄関。磨かれた床。壁には絵が飾られ、靴は一足も乱れていない。制服姿のアリスが立っている。今と同じ制服なのに、そこにいる彼女は水族館の中よりもずっと自然に見えた。背筋を伸ばし、誰かに向かって小さく頭を下げる。口元は柔らかいが、笑っているわけではない。


 映像に音はない。


 次に映ったのは、食卓だった。白い皿が並び、銀色のフォークとナイフが光っている。誰かが話している。アリスはその相手に向かって頷く。子どもにしては静かな頷き方だった。答え方を知っている、というより、間違えないように答えている。


 映像が切り替わる。


 車の後部座席。雨粒のついた窓。流れていく道路と、遠くに見える川。アリスは窓の外を見ているが、車は止まらない。川辺に立つ子どもたちが一瞬だけ映り、すぐに後ろへ流れていく。彼女はそれを最後まで目で追おうとして、間に合わなかった。


「アリスちゃん……?」


 伊織が呼んだ。


 アリスは水槽から目を離さない。


「見ています」


 その声は、普段とほとんど変わらないように聞こえた。けれど、カードケースの角だけが、いつの間にかきっちり揃え直されていた。


 映像は学校へ移った。


 購買の前に生徒が並んでいる。焼きそばパン、紙パックの飲み物、レジの横に積まれた小さな菓子。アリスは列の端に立っている。財布を持っているのに、何をすればいいのか分からない顔をしていた。前の生徒が注文し、商品を受け取り、横へずれる。その流れを見て、遅れて真似しようとする。


 誰かが笑った。


 悪意があったのか、ただ珍しかったのか、映像だけでは分からない。アリスは笑われたことに気づいて、口元を引いた。それから、何事もなかったように姿勢を正す。


 次の映像では、教室の掃除時間だった。


 アリスはほうきを持っている。持ち方が妙にぎこちない。隣の生徒が何かを言い、アリスは真剣に頷く。冗談だったのかもしれない。それでも彼女は、教えられた通りに動こうとしている。ほうきの穂先が机の脚に当たり、小さく跳ねた。周囲の生徒が笑う。アリスは謝ろうとし、何に謝ればいいのか分からなくなったように立ち止まった。


「……そりゃ浮くわ」


 乃愛が言った。


 声はきつかったが、笑ってはいなかった。


「そうですね」


 アリスは答えた。


 あまりにもすぐ認めたので、乃愛の方が黙った。


「そこ、否定しないんだ」


「否定できる材料がありません」


「材料って言い方」


「すみません。言い方を間違えました」


「今のは別に謝るとこじゃない」


「そうですか」


 アリスは水槽を見たまま頷いた。


 映像の中で、昼休みの教室が映る。


 映像の中で、一人の生徒が口を動かした。音は聞こえない。その代わり、水槽の端に白い字幕が浮かび、揺れる水の光に合わせて、文字がかすかに滲んでいた。


 今日、親いないからコンビニでご飯買う。


 何気ない会話の一部だったのだろう。言った本人も、深い意味を込めたようには見えなかった。それでも映像の中のアリスは、その言葉を聞き流さなかった。相手の顔をまっすぐ見つめ、冗談でも慰めでもない真剣さで、何かを返す。


 すぐに、次の字幕が浮かんだ。


 それは、食事として足りますか。


 伊織が少しだけ笑いかけて、すぐに堪えた。


「ごめん。今のはちょっとアリスちゃんっぽいと思った」


「私も、そう思いました」


 アリスは静かに言った。


「当時の私が、どういうつもりで言ったのかも、少し分かります」


「悪気はない感じ?」


「はい」


「それが一番困るやつじゃん」


 乃愛の言葉に、アリスは目を伏せる。


「そうですね」


 またすぐに認めた。


 水槽の中で、メダカが水草の陰へ入っていく。映像の学校と、淡水魚の展示が重なっているせいで、教室の窓際に水草が揺れているように見えた。アリスはその景色を見ている。見せられているのではなく、自分で最後まで見ようとしているようだった。


 次の映像では、アリスが教室の隅に座っていた。


 まわりには何人かの生徒がいる。誰も彼女をいじめているわけではない。露骨に避けているわけでもない。会話の輪はいつもアリスの手前で閉じている。彼女が入ろうとすると、言葉が一拍遅れる。笑いどころも、頷くところも、驚くところも、噛み合わない。そのずれは一度なら何でもない。何度も重なると、そこにいる全員が疲れてしまう。


 映像の中のアリスは、それを理解しようとしていた。


 理解したからといって、直せるわけではなかった。


「私、普通を知らなかったんですね」


 アリスが言った。


 誰もすぐには答えなかった。


「知らなかったというより、教わった普通が違ったのかもしれません」


 彼女は言い直す。今度は、乃愛も茶化さない。


「映像を見ていると、そういう場所にいたのだと思います。食事も、掃除も、移動も、約束も、自分で選ぶより先に、誰かが整えていたのだと」


 アリスは水槽を見たまま、ゆっくり言葉を探した。


「誰かの家に泊まることも、放課後に寄り道することも、コンビニでご飯を済ませることも、知ってはいたのだと思います。でも、自分の近くにあるものとしては、見ていなかった。……そういうことなのかもしれません」


 伊織が小さく言う。


「それ、遠いっていうか、かなり別世界」


「はい」


「はいって言われると困るな」


「私も困っています」


 アリスの声は震えていた。


 紬はアリスを見る。金色の髪は蛍光灯の下で乾いた色に見えた。水槽の青い光の中では目立っていたものが、ここでは少しだけ痛々しい。彼女がずれているのではなく、最初に立っていた場所が違ったのだと、紬はようやく思った。


「鷹宮アリス」


 自分の名前を、彼女は声に出す。


 「悪くない響きです」と言った時とは違う声だった。響きを確かめるのではなく、その名前が自分のものとして残っているか、手で触れる代わりに声で探っているようだった。


 映像の中で、誰かがアリスを呼んだ。


 音は水に吸われるように届かない。口の動きもはっきりしない。映像の中のアリスは確かに振り返った。背筋を伸ばす前に、ほんの一瞬だけ、今より幼い顔になる。その顔を、今のアリスは見逃さなかった。


 彼女の唇が動いた。


「……ママ」


 そこまで出て、止まる。


 乃愛がアリスを見た。


 伊織も、紬も、何も言わなかった。


 アリスはゆっくり息を吸う。言いかけた言葉を押し戻すように、口を閉じた。


「違います」


 小さな声だった。


「今のは、違います。違うと思います」


「何が?」


 乃愛が聞く。声は、いつもの高さを失っていた。


 アリスはしばらく答えなかった。


「分かりません。ただ、今言ったら、間違える気がしました」


 アリスは、自分の唇に指を添えた。さっきの言葉が、まだそこに残っているのを確かめるようだった。


「でも、わたくしは思い出していません。あの人が誰なのかも、本当にそう呼んでいたのかも、分かりません」


 言葉を選ぶほど、声が細くなっていく。


「なのに、口だけが先に動きました」


 乃愛はそれ以上聞かなかった。


 映像が薄れていく。


 広い玄関も、食卓も、車の窓も、購買も、教室の隅も、水槽の奥へ沈むように消えていった。残ったのは、メダカとドジョウと水草の揺れだけだった。さっきまで誰かの生活が映っていたガラスに、今は小さな魚がゆっくり泳いでいる。


 水槽の映像が消えたあとも、展示パネルの文字だけは変わらずそこにあった。


 身近な水辺にも、それぞれの環境に合った生き物が暮らしています。


 アリスはその一文を読んで、口元を緩めた。けれど、それは笑ったというより、息の形がそう見えただけだった。


「環境に合っていなかった生き物は、どうなるのでしょうね」


「魚の話?」


 乃愛が言う。


「魚さんの話です」


 アリスは答えた。


 乃愛はしばらくアリスを見てから、目を逸らした。


「嘘つくの下手」


「そうですね」


「そこも認めんの」


「はい」


「面倒くさいな」


「自分でも、否定できません」


 伊織が、そっと口を挟む。


「アリスちゃんってさ、たぶん、ちゃんと変なだけだよ」


 アリスが伊織を見る。


「ちゃんと変、ですか」


「うん。悪口じゃなくて。いや、悪口っぽいけど、悪口じゃない方向のやつ」


「難しいですね」


「私も今、説明失敗してると思う」


 伊織は困ったように笑った。前の展示より、その笑いは軽い。


 紬はアリスの方へ一歩寄った。


「私も、普通は分からない」


「紬さんも?」


「うん。たぶん」


「たぶん、ですか」


「たぶんしか言えない」


 アリスは考えてから、頷いた。


「では、今はそれでよいと思います」


 紬はその言葉を受け取った。慰めというより、ひとまず置く場所を決められたような言葉だった。


 淡水魚水槽の奥で、白いライトが点いた。


 次の扉は、通路のさらに先にある。扉の横には、子ども向けの明るいポスターが貼られていた。浅い水槽に手を入れる子どもの写真。ヒトデ、ナマコ、ヤドカリ。大きな丸文字で、さわってみよう、と書かれている。


 タッチプール。


 乃愛はその文字を見て、顔をしかめた。


「触れってこと?」


「そういう展示でしょうね」


「嫌なんだけど」


「無理に触る必要はないと思います」


「そういうことじゃない」


 乃愛の声が、荒くなった。


 アリスはそれ以上言わなかった。今なら、言葉が届かない場所もあると分かっているようだった。


 伊織が紬の方を見る。


「次、乃愛ちゃんっぽくない?」


「何が」


 乃愛が鋭く返す。


「いや、なんとなく。順番とか、触るとか触らないとか、怒られそうな感じが」


「もう怒ってる」


「だよね」


 白いライトは、タッチプールの扉の前で止まっている。


 アリスは最後に淡水魚の水槽を振り返った。メダカが水草の陰から出てきて、また小さく群れを作る。どこにでもいる魚。身近な水辺。普通の水。展示パネルに並ぶ言葉は、どれもやさしかった。やさしい言葉ほど、自分に向けられていない時の距離がはっきり見える。


 アリスはカードケースを胸の前で持ち直した。


「行きましょう」


 その声はまだ丁寧だったが、さっきより低かった。


 乃愛が先に歩き、伊織がその後ろに続く。紬はアリスの隣を歩いた。何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。


 何も言わないまま隣にいることが、今は一番失礼ではない気がした。


展示番号04号 『川に住むいきものたち』


 川や池、田んぼの用水路には、たくさんの生き物が暮らしています。身近な水辺にも、それぞれの環境に合った魚や水草があります。いつも見ている場所でも、少し目を向けるだけで、小さな命の気配を見つけることができます。

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