展示番号04号 『淡水魚エリア、普通の水』
クラゲエリアを抜けた先は、急に明るかった。
暗い展示室に慣れた目には、白い蛍光灯の光が痛い。壁の色も、水槽の中の光も、さっきまでの青や紫ではない。薄い灰色の床、白い壁、低い展示台。派手な演出の代わりに、近所の川や田んぼの写真が並んでいて、ポスターの端には、網を持った子どもの笑顔が色褪せて貼りついている。
淡水魚エリア。
扉の横の表示には、そう書かれていた。
水槽の中では、小さな魚がゆっくり泳いでいる。メダカ、フナ、ドジョウ。名前だけなら聞いたことがある気がした。水も澄んではいるが、海水魚の水槽のような鮮やかさはない。底には砂利が敷かれ、水草が揺れている。覗き込む角度によっては、魚よりも水槽の奥に貼られた川辺の写真の方が目立った。
「地味」
乃愛が言った。
「乃愛ちゃん、早い」
伊織がすぐに返す。
「だって地味じゃん」
「いや、まあ、うん。否定は難しいけど」
伊織は水槽に顔を近づけた。小さな魚が、慌てる様子もなく水草の陰へ入っていく。
「でもさ、クラゲの後にこれはこれで落ち着くかも。なんか、急に田舎っぽい」
「褒めてる?」
「褒めてる方向で言ったつもり」
「じゃあ失敗してる」
「だよね」
伊織は笑いかけたが、前の展示で見た映像がまだ残っているのか、すぐに口元を引っ込めた。笑うかどうかを一度、考えるようになっている。その一瞬の間が、前より痛々しかった。
紬は展示室の奥へ視線を向ける。
ここには水槽以外のものが多かった。川の流れを説明する模型、田んぼの一年を写したパネル、子ども向けの観察ノートの見本。低い机の上には、鉛筆の入っていない鉛筆立てと、使われなくなったスタンプ台が置かれている。スタンプの印面は乾ききっていて、魚の絵が半分欠けていた。
アリスは、その机の前で足を止めていた。
水槽ではなく、展示台に置かれた観察ノートの見本を見ている。表紙には丸い字で「身近な川の生き物を見つけよう」と書かれていた。中を開くことはできない。透明なカバーがかけられ、角の部分だけが曇っている。
「身近な川、ですか」
アリスが呟いた。
「川くらい見たことあるでしょ」
乃愛がすぐに返す。
アリスは考えるように、水槽の中を見た。
「川がどういうものかは、分かります」
「そうじゃなくて。見たことあるかって聞いてんの」
「……はっきりとは、思い出せません」
乃愛は面倒くさそうに眉を寄せた。
「じゃあ、ないってこと?」
「ない、とも言い切れません。橋の上から見下ろしたような景色は、浮かびます。ただ、それが本当に自分の記憶なのか、どこかで見た写真なのか、区別がつきません」
「ややこしいなあ」
伊織が横から小さく笑った。
「でも、それはちょっと分かるかも。川って、ちゃんと見るっていうより、通り過ぎる時に視界に入る感じだし」
「伊織ちゃん、今のはフォロー?」
「一応」
「一応なんだ」
アリスは怒らなかった。観察ノートの見本から目を離し、水槽の中を泳ぐメダカを見る。
「近くにあるものほど、近くのものとして見ていなかったのかもしれません」
乃愛は何か言いかけたが、口を閉じた。
水槽の横に展示パネルがある。アリスはいつものように、そこへ向かった。今回はすぐに読み始めない。パネルの前に立ち、距離を置く。さっきまで、説明を読めば何か分かると思っていた。今はもう、説明板が何を隠しているかも分からない。
それでも彼女は文字を追った。
アリスは最後まで読んだ。
「普通の水」
彼女は声に出す。
「海水じゃないって意味でしょ」
乃愛が言った。
「そうだと思います」
「じゃあ悩むとこじゃなくない?」
「それは、そうなのですが」
アリスは自分の手元を見る。持ち続けている学生証のカードケースは、彼女の指の中でまっすぐに揃えられていた。角を合わせる癖があるのか、何度も軽く親指で押さえている。
「普通という言葉は、便利すぎて怖いですね」
「また難しいこと言い出した」
「難しくしたいわけではありません」
「じゃあ簡単に言って」
アリスは困った顔をした。
「簡単に言うと、私は、たぶん普通が下手です」
伊織が小さく息を呑んだ。
乃愛は水槽の中を見たまま、何も言わなかった。
紬は、アリスの横顔を見る。金色の髪、白い肌、日本人離れした顔立ち。初めて見た時、その外見は水族館の暗い通路でひどく目立っていた。今、白い蛍光灯の下に立っても、やはりアリスだけが浮いて見える。けれど、それは見た目だけの問題ではないのだと、紬にも分かり始めていた。
展示室の照明が、わずかに揺らいだ。
四人は同時に水槽を見た。
もう誰も驚ききれない。何が起きるのか分かっているわけではないのに、また何か見せられるのだという予感だけが、先に身体へ入ってくる。淡水魚の水槽の奥に、別の景色が重なっていった。
最初に映ったのは、玄関だった。
広い玄関。磨かれた床。壁には絵が飾られ、靴は一足も乱れていない。制服姿のアリスが立っている。今と同じ制服なのに、そこにいる彼女は水族館の中よりもずっと自然に見えた。背筋を伸ばし、誰かに向かって小さく頭を下げる。口元は柔らかいが、笑っているわけではない。
映像に音はない。
次に映ったのは、食卓だった。白い皿が並び、銀色のフォークとナイフが光っている。誰かが話している。アリスはその相手に向かって頷く。子どもにしては静かな頷き方だった。答え方を知っている、というより、間違えないように答えている。
映像が切り替わる。
車の後部座席。雨粒のついた窓。流れていく道路と、遠くに見える川。アリスは窓の外を見ているが、車は止まらない。川辺に立つ子どもたちが一瞬だけ映り、すぐに後ろへ流れていく。彼女はそれを最後まで目で追おうとして、間に合わなかった。
「アリスちゃん……?」
伊織が呼んだ。
アリスは水槽から目を離さない。
「見ています」
その声は、普段とほとんど変わらないように聞こえた。けれど、カードケースの角だけが、いつの間にかきっちり揃え直されていた。
映像は学校へ移った。
購買の前に生徒が並んでいる。焼きそばパン、紙パックの飲み物、レジの横に積まれた小さな菓子。アリスは列の端に立っている。財布を持っているのに、何をすればいいのか分からない顔をしていた。前の生徒が注文し、商品を受け取り、横へずれる。その流れを見て、遅れて真似しようとする。
誰かが笑った。
悪意があったのか、ただ珍しかったのか、映像だけでは分からない。アリスは笑われたことに気づいて、口元を引いた。それから、何事もなかったように姿勢を正す。
次の映像では、教室の掃除時間だった。
アリスはほうきを持っている。持ち方が妙にぎこちない。隣の生徒が何かを言い、アリスは真剣に頷く。冗談だったのかもしれない。それでも彼女は、教えられた通りに動こうとしている。ほうきの穂先が机の脚に当たり、小さく跳ねた。周囲の生徒が笑う。アリスは謝ろうとし、何に謝ればいいのか分からなくなったように立ち止まった。
「……そりゃ浮くわ」
乃愛が言った。
声はきつかったが、笑ってはいなかった。
「そうですね」
アリスは答えた。
あまりにもすぐ認めたので、乃愛の方が黙った。
「そこ、否定しないんだ」
「否定できる材料がありません」
「材料って言い方」
「すみません。言い方を間違えました」
「今のは別に謝るとこじゃない」
「そうですか」
アリスは水槽を見たまま頷いた。
映像の中で、昼休みの教室が映る。
映像の中で、一人の生徒が口を動かした。音は聞こえない。その代わり、水槽の端に白い字幕が浮かび、揺れる水の光に合わせて、文字がかすかに滲んでいた。
今日、親いないからコンビニでご飯買う。
何気ない会話の一部だったのだろう。言った本人も、深い意味を込めたようには見えなかった。それでも映像の中のアリスは、その言葉を聞き流さなかった。相手の顔をまっすぐ見つめ、冗談でも慰めでもない真剣さで、何かを返す。
すぐに、次の字幕が浮かんだ。
それは、食事として足りますか。
伊織が少しだけ笑いかけて、すぐに堪えた。
「ごめん。今のはちょっとアリスちゃんっぽいと思った」
「私も、そう思いました」
アリスは静かに言った。
「当時の私が、どういうつもりで言ったのかも、少し分かります」
「悪気はない感じ?」
「はい」
「それが一番困るやつじゃん」
乃愛の言葉に、アリスは目を伏せる。
「そうですね」
またすぐに認めた。
水槽の中で、メダカが水草の陰へ入っていく。映像の学校と、淡水魚の展示が重なっているせいで、教室の窓際に水草が揺れているように見えた。アリスはその景色を見ている。見せられているのではなく、自分で最後まで見ようとしているようだった。
次の映像では、アリスが教室の隅に座っていた。
まわりには何人かの生徒がいる。誰も彼女をいじめているわけではない。露骨に避けているわけでもない。会話の輪はいつもアリスの手前で閉じている。彼女が入ろうとすると、言葉が一拍遅れる。笑いどころも、頷くところも、驚くところも、噛み合わない。そのずれは一度なら何でもない。何度も重なると、そこにいる全員が疲れてしまう。
映像の中のアリスは、それを理解しようとしていた。
理解したからといって、直せるわけではなかった。
「私、普通を知らなかったんですね」
アリスが言った。
誰もすぐには答えなかった。
「知らなかったというより、教わった普通が違ったのかもしれません」
彼女は言い直す。今度は、乃愛も茶化さない。
「映像を見ていると、そういう場所にいたのだと思います。食事も、掃除も、移動も、約束も、自分で選ぶより先に、誰かが整えていたのだと」
アリスは水槽を見たまま、ゆっくり言葉を探した。
「誰かの家に泊まることも、放課後に寄り道することも、コンビニでご飯を済ませることも、知ってはいたのだと思います。でも、自分の近くにあるものとしては、見ていなかった。……そういうことなのかもしれません」
伊織が小さく言う。
「それ、遠いっていうか、かなり別世界」
「はい」
「はいって言われると困るな」
「私も困っています」
アリスの声は震えていた。
紬はアリスを見る。金色の髪は蛍光灯の下で乾いた色に見えた。水槽の青い光の中では目立っていたものが、ここでは少しだけ痛々しい。彼女がずれているのではなく、最初に立っていた場所が違ったのだと、紬はようやく思った。
「鷹宮アリス」
自分の名前を、彼女は声に出す。
「悪くない響きです」と言った時とは違う声だった。響きを確かめるのではなく、その名前が自分のものとして残っているか、手で触れる代わりに声で探っているようだった。
映像の中で、誰かがアリスを呼んだ。
音は水に吸われるように届かない。口の動きもはっきりしない。映像の中のアリスは確かに振り返った。背筋を伸ばす前に、ほんの一瞬だけ、今より幼い顔になる。その顔を、今のアリスは見逃さなかった。
彼女の唇が動いた。
「……ママ」
そこまで出て、止まる。
乃愛がアリスを見た。
伊織も、紬も、何も言わなかった。
アリスはゆっくり息を吸う。言いかけた言葉を押し戻すように、口を閉じた。
「違います」
小さな声だった。
「今のは、違います。違うと思います」
「何が?」
乃愛が聞く。声は、いつもの高さを失っていた。
アリスはしばらく答えなかった。
「分かりません。ただ、今言ったら、間違える気がしました」
アリスは、自分の唇に指を添えた。さっきの言葉が、まだそこに残っているのを確かめるようだった。
「でも、わたくしは思い出していません。あの人が誰なのかも、本当にそう呼んでいたのかも、分かりません」
言葉を選ぶほど、声が細くなっていく。
「なのに、口だけが先に動きました」
乃愛はそれ以上聞かなかった。
映像が薄れていく。
広い玄関も、食卓も、車の窓も、購買も、教室の隅も、水槽の奥へ沈むように消えていった。残ったのは、メダカとドジョウと水草の揺れだけだった。さっきまで誰かの生活が映っていたガラスに、今は小さな魚がゆっくり泳いでいる。
水槽の映像が消えたあとも、展示パネルの文字だけは変わらずそこにあった。
身近な水辺にも、それぞれの環境に合った生き物が暮らしています。
アリスはその一文を読んで、口元を緩めた。けれど、それは笑ったというより、息の形がそう見えただけだった。
「環境に合っていなかった生き物は、どうなるのでしょうね」
「魚の話?」
乃愛が言う。
「魚さんの話です」
アリスは答えた。
乃愛はしばらくアリスを見てから、目を逸らした。
「嘘つくの下手」
「そうですね」
「そこも認めんの」
「はい」
「面倒くさいな」
「自分でも、否定できません」
伊織が、そっと口を挟む。
「アリスちゃんってさ、たぶん、ちゃんと変なだけだよ」
アリスが伊織を見る。
「ちゃんと変、ですか」
「うん。悪口じゃなくて。いや、悪口っぽいけど、悪口じゃない方向のやつ」
「難しいですね」
「私も今、説明失敗してると思う」
伊織は困ったように笑った。前の展示より、その笑いは軽い。
紬はアリスの方へ一歩寄った。
「私も、普通は分からない」
「紬さんも?」
「うん。たぶん」
「たぶん、ですか」
「たぶんしか言えない」
アリスは考えてから、頷いた。
「では、今はそれでよいと思います」
紬はその言葉を受け取った。慰めというより、ひとまず置く場所を決められたような言葉だった。
淡水魚水槽の奥で、白いライトが点いた。
次の扉は、通路のさらに先にある。扉の横には、子ども向けの明るいポスターが貼られていた。浅い水槽に手を入れる子どもの写真。ヒトデ、ナマコ、ヤドカリ。大きな丸文字で、さわってみよう、と書かれている。
タッチプール。
乃愛はその文字を見て、顔をしかめた。
「触れってこと?」
「そういう展示でしょうね」
「嫌なんだけど」
「無理に触る必要はないと思います」
「そういうことじゃない」
乃愛の声が、荒くなった。
アリスはそれ以上言わなかった。今なら、言葉が届かない場所もあると分かっているようだった。
伊織が紬の方を見る。
「次、乃愛ちゃんっぽくない?」
「何が」
乃愛が鋭く返す。
「いや、なんとなく。順番とか、触るとか触らないとか、怒られそうな感じが」
「もう怒ってる」
「だよね」
白いライトは、タッチプールの扉の前で止まっている。
アリスは最後に淡水魚の水槽を振り返った。メダカが水草の陰から出てきて、また小さく群れを作る。どこにでもいる魚。身近な水辺。普通の水。展示パネルに並ぶ言葉は、どれもやさしかった。やさしい言葉ほど、自分に向けられていない時の距離がはっきり見える。
アリスはカードケースを胸の前で持ち直した。
「行きましょう」
その声はまだ丁寧だったが、さっきより低かった。
乃愛が先に歩き、伊織がその後ろに続く。紬はアリスの隣を歩いた。何を言えばいいのか分からなかったので、何も言わなかった。
何も言わないまま隣にいることが、今は一番失礼ではない気がした。
展示番号04号 『川に住むいきものたち』
川や池、田んぼの用水路には、たくさんの生き物が暮らしています。身近な水辺にも、それぞれの環境に合った魚や水草があります。いつも見ている場所でも、少し目を向けるだけで、小さな命の気配を見つけることができます。




