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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第一章 水槽の中の少女たち
4/12

展示番号03号 『クラゲエリア、流されるもの』

 扉を抜けたあと、水の音が遠ざかった。


 湿った空気はまだ制服の背中にまとわりついているのに、次の展示室では、空気だけが先に閉館してしまったように冷えていた。壁も床も暗く、天井の灯りは落とされている。水槽の内側から漏れる青や紫の光だけが、足元と手すりと、四人の顔を淡く浮かび上がらせていた。


 順路を示す白いライトは、まっすぐ奥へ伸びていない。床の上でゆるく曲がり、また曲がる。誰かが決めた道筋というより、暗い水の中に流れだけが残っているようだった。


 クラゲだけの展示室だった。


 円形の水槽が並び、その中で半透明の傘がゆっくりと浮いている。青、紫、白。水槽ごとに違う色を与えられたクラゲは、見る角度によって姿を変え、さっきまでそこにあった形をすぐに失っていく。生き物というにはあまりに頼りなく、作りものというには、傘の縁が縮んで広がる動きが静かすぎた。


 伊織は入口近くで立ち止まった。


「うわ、きれい!」


 ほとんど反射のような声だった。


 その一言を口にしたあと、伊織はすぐに周囲を見た。紬、アリス、乃愛。三人の顔を順番に確かめ、今の言葉を取り消すべきかどうか迷っている。きれいと言ってよかったのか。怖がるべきだったのか。あるいは、ここでは何も言わない方が正しかったのか。


 誰も答えを出さないまま、水槽の光だけが伊織の横顔を照らしていた。


「……いや、きれいって言うのも変か。閉じ込められてるし」


「別に、きれいはきれいでしょ」


 乃愛が言った。


「今の、乃愛ちゃんが言うんだ」


「何?」


「いや、ちょっと優しい方向の返事だったから」


「普通の返事を優しさ扱いすんな」


「ごめん。普通のハードルが下がってた」


「下げた覚えない」


 伊織の口元が、自然に緩んだ。


 アリスは水槽横の展示パネルを読んでいる。そこにはクラゲの体がほとんど水でできていること、流れに逆らう力が弱いこと、光の当たり方によって色や形が違って見えることが書かれていた。説明そのものは子ども向けのやさしい言葉なのに、この部屋で読むと、どこか頼りない。水槽の中のクラゲは、流されているのか泳いでいるのか、見ているだけでは分からなかった。


「クラゲさんは、流れに身を任せる生き物、だそうです」


「いいなあ。私もそういう感じで生きたい」


 伊織が言うと、乃愛が顔をしかめた。


「あんた、もうだいぶ流されてるよ?」


「そっか。じゃあ私、もうクラゲ側だったんだ!」


「喜ぶとこじゃないでしょ」


「いや、ほら。展示に合ってるかなって……」


 伊織は軽く流そうとしたのだろう。言葉の出だしにはいつもの調子があったが、最後だけ沈んだ。


 紬は、その落ち方に気づいて伊織を見る。


 伊織は水槽に映る自分の顔を見ていた。青い光のせいで、頬はいつもより白く見える。長い髪は肩のあたりで暗く沈み、口元だけが、まだ笑った形を残していた。本人はもう笑うのをやめているのに、水槽のガラスにぼんやりと映った顔だけが、笑い続けているように見えた。


「伊織ちゃん」


 紬が呼ぶと、伊織はすぐに振り向いた。


「何?」


「なんで、無理してるの?」


 聞いた瞬間、後悔した。言葉が真っ直ぐすぎたし、今この場所で触れていいものなのかも分からない。けれど、取り消すより早く、伊織は目を丸くした。驚いた顔は長く続かなかった。すぐに眉尻が下がり、笑おうとして、今度はうまく口元が動かなかった。


「紬ちゃん、急に刺してくるね」


「ごめん」


「謝られると、刺された側が大げさだったみたいになる」


「じゃあ、謝らない」


「それはそれで、ちょっと冷たいかも」


 伊織はそう言って、笑おうとした。けれど、口元だけが途中で止まる。


「……分かんないんだよね。無理してるって言われたら、そうかもって思うし、別に普通って言われたら、そんな気もするし」


「なにそれ」


 乃愛が言った。


 責めるというより、聞き返さずにいられなかった声だった。


「自分で決めないの?」


 伊織は肩をすくめる。


「決めたあとで間違ってたら嫌じゃん」


「なんで?」


「なんで、って……」


 伊織は言葉を探した。水槽の光がゆっくり変わり、彼女の顔を青から紫へ染めていく。


「嫌われる前に、笑っといた方が楽だから」


 アリスが展示パネルから顔を上げる。何か言おうとしているようだったが、すぐには口を開かない。さっきまでなら、きっと正しい言い方を探したのだろう。今は、その正しさが伊織に届くかどうかを考えているように見えた。


 水槽の奥で、クラゲがゆっくり向きを変えた。


 円形の水槽を満たしていた青い光が、一段だけ暗くなった。


 四人は同時に動きを止めた。もう、誰も故障とは言わなかった。水槽の光が一段落ち、円形のガラスに別の景色がにじみ始める。クラゲの半透明の傘が、教室の机や窓と重なり、次第に水槽の中から遠ざかっていった。


 映ったのは、教室だった。


 さっき紬が見せられたものとは違う。机が寄せられ、女子生徒たちがいくつかの輪になっている。映像の中央に、伊織がいた。今と同じ制服、同じ長い髪。彼女は笑っている。誰かが言った冗談に合わせて、必要以上に大きめに口を開けている。


「……私だ」


 伊織の声は、ひどく小さかった。


 映像の中で、一人の生徒が笑っている。周囲が笑う。伊織も遅れて、笑う。笑わなければならない場面に気づいた人間の速さだった。


 次の映像では、教室の空気が冷えていた。


 誰かが机の上のプリントを指で弾いている。伊織はその間に立ち、笑顔を作る。何を言っているのかは聞こえない。その口の動きは分かる。大丈夫、大丈夫。そんな言葉を使っている顔だった。


 さらに映像が切り替わる。


 廊下。階段。放課後の教室。伊織はどこでも笑っている。泣きそうな相手の隣でも、怒っている相手の前でも、誰かが仲間外れにしている輪の端でも、その場に合わせて笑顔の形を変えている。口を大きく開けたり、手を振ったり、空気がどちらか一方へ傾きすぎないようにしている。


 紬は息を詰めた。


 最初は、伊織が器用なのだと思った。けれど映像が重なるほど、その笑顔は、場を明るくするためのものには見えなくなっていく。怒られない場所を探し、自分がそこにいてもいい形を、そのたびに作り直しているようだった。


「ちょっと待って」


 伊織がそういうが、映像は止まらない。


「いや、待って。待ってって。これ、今見るやつじゃないでしょ」


 乃愛が水槽へ近づく。


「どう止めんの、これ」


「分かりません」


 アリスの声が乱れていた。


「分かんないで済ませないで」


「済ませたいわけではありません」


「じゃあ何とかして」


「今、探しています」


 アリスは水槽の下、パネルの端、壁際の非常停止ボタンを探すように視線を動かした。手を伸ばせる位置にあるのは展示説明のボタンだけだった。押すとクラゲの体の説明が流れるような、昼間の客のための小さなボタン。今の映像とは、何も関係がないように見えた。


 映像の中の伊織が、笑うのを失敗した。


 教室の空気が止まっている。誰かが泣いている。誰かが怒っている。別の誰かが伊織を見ている。何か言え、と目が言っている。伊織は一度口を開き、うまく笑えず、すぐに自分の頬に手を当てる。そこから無理に笑顔の形を作った。


 今の伊織が、低く息を吐いた。


「やめて」


 初めて聞く声だった。


 小さくて、冗談の逃げ道がない声。


 紬は伊織の方を見た。伊織は水槽から目を逸らしていなかった。泣いてはいない。怒ってもいない。ただ、顔の中心から血の気が引いて、いつもなら笑うために動くはずの口元だけが、置き場所を失っている。


 映像の中で、誰かが伊織に向けて話しかけている。


 音はない。


 名前を呼ばれたのか、返事を求められたのか、紬には分からなかった。ただ、水槽の向こうの伊織は振り返り、ほとんど反射のように口元を上げようとする。何度も繰り返してきた動きなのだろう。けれど、その笑顔は途中で止まった。


 ――伊織ちゃん、笑って。


 今の伊織が、自分の口元に触れた。


「今、何か……」


「聞こえたの?」


 紬が聞く。


「分かんない。聞こえたっていうか、呼ばれた気がした」


 乃愛が何も言わずに伊織を見た。


 アリスも黙っている。


 その沈黙は、さっきまでのものと違っていた。誰かが正しい感想を探している沈黙ではなく、言えば壊れそうなものを、全員が見てしまったあとの沈黙だった。


 伊織は、自分から笑った。


「やば。今の、めっちゃ恥ずかしいやつじゃん」


 誰も笑わなかった。


「あれ、ここ笑うところじゃない?」


 伊織は言った。言ったあとで、自分の言葉に気づいたように目を伏せる。


「……ごめん。これも違うか」


 紬は一歩、伊織の隣へ寄った。肩には触れない。ただ、さっきより近い場所に立つ。さっき伊織がしてくれた距離を、今度は紬が選んだ。


「もう、無理に笑わなくてもいいと思う」


 自分でも、ありきたりな言葉だと思った。それでも、他に出てこなかった。


 伊織は笑った。今度の笑いは、場に合わせたものではなく、困ってしまった時に逃げるためのものだった。


「それ、優しいけど難しいなあ」


「難しい?」


「うん。笑わない時の顔、どうしたらいいか分かんない」


 乃愛が小さく舌打ちした。


「普通にしてればいいじゃん」


「その普通が分かれば苦労してないんだよ、乃愛ちゃん」


「ちゃん付けやめろって」


 伊織は返事をしなかった。ほんの少しだけ、口元が緩む。乃愛の怒り方がいつもと同じだったことに、助けられたような顔だった。


 水槽の映像が薄くなっていく。


 教室も、廊下も、放課後の光も、水の向こうへ沈むように消えていった。残ったのはクラゲだけだった。透明な体を淡い青に染められ、流れに押されながら、ゆっくり同じ場所を回っている。何も覚えていないというより、何も持たないままそこにいるように見えた。


「流されるって、楽そうに見えるのにね」


 伊織が呟いた。


「楽じゃないの?」


「流れが変わった時、自分で止まれないじゃん」


 伊織はそう言ってから、目を伏せた。


「今、私ちょっといいこと言った?」


「自分で言うな」


「ごめん。確認しちゃった」


 アリスがようやく口を開いた。


「確認しなくても、今の言葉は残ると思います」


「アリスちゃん、それ、褒めてる?」


「たぶん」


「たぶんかあ」


「すみません。こういう時に確信を持つのは、少し怖いです」


 伊織は、今度は自然に笑った。


「分かる。私も怖い」


 その言葉を最後に、展示室の奥で白いライトが点いた。


 次の扉は、クラゲ水槽のさらに奥にある。扉の横には、田んぼや小川の写真が貼られていた。小さな魚、泥の中に潜る生き物、子どもが網を持っている写真。水槽の派手な光の後で見ると、どこか日常に近い風景のはずなのに、かえって遠く感じられた。


 淡水魚エリア。


 ポスターの下に、そう書かれている。


 アリスはその文字を見て、眉を動かした。


「次は、地味そうですね」


「それ、魚に失礼じゃない?」


 伊織が言う。


「そうですね。今のは失礼でした」


「アリスちゃん、素直すぎる」


「直した方がよいことは、直したいので」


「私は直すところ多すぎて無理だな」


 伊織はそう言ってから、すぐに口を閉じた。


 今の言葉を笑いにして逃がすかどうか、迷っている顔だった。


 紬は何も言わなかった。乃愛も言わない。アリスも、答えを急がなかった。


 伊織は息を吸い、今度は笑わずに前を向いた。


「行こっか」


 その声は、いつもより低かった。


 白いライトが扉の前で止まっている。伊織が先に歩き出し、紬がその隣に続いた。乃愛は少し遅れて、アリスは展示パネルをもう一度だけ見てからついてくる。


 クラゲは水槽の中で、まだ漂っていた。


 淡い光の中で、透明な体をゆっくり開き、また閉じている。


 伊織はもう前だけを向いていた。


展示番号03号 『浮遊するかたち』


 クラゲは魚のように自分の力で泳ぎ続ける生き物ではなく、水流に身をまかせながら漂うように移動します。体の大部分は水分でできており、骨も硬い殻も持っていません。水槽の照明によって青や紫、白に見え方が変わるため、同じクラゲでも、見る場所や光の当たり方によってまったく違う印象になります。

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