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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第一章 水槽の中の少女たち
3/10

展示番号02号 『熱帯エリア、安全な場所』

 熱帯エリアの中は、大水槽の前とはまるで違っていた。


 部屋に入った瞬間、空気の重さが変わった。大水槽の前にあった冷えた広さはなく、ここでは壁際に並んだ小型水槽が、通路の幅を奥へ行くほど狭めている。照明は水槽ごとに色が違い、青や白や淡い橙が床の上で混ざり合っていた。


 どこかでヒーターが動いているのか、空気はぬるく湿っていた。ガラスの縁には細かな水滴がついている。閉館後の静けさだけは変わらないのに、この場所だけ、生き物の呼吸を無理に閉じ込めているような温度があった。


 奥の水槽では、オレンジ色の小さな魚がイソギンチャクの触手のあいだを出入りしていた。


「……かわいいって、言っていい雰囲気かな?」


 伊織が水槽を見ながら言った。


「知らない」


 乃愛は即答した。


「だよね。私も聞いてから、違う気がした!」


 伊織は同意を求めるように、紬の方へ視線を送る。


「紬ちゃんは?」


 水槽の中で、クマノミはイソギンチャクの触手をくぐり、外へ出てはまた奥へ戻っていく。小さな体が明るい色をひるがえすたび、昼間の一般客なら迷わずかわいいと言ったかもしれない。紬にも、その見方が分からないわけではなかった。ただ、今はそう言えなかった。


 紬は返事に迷った。


「分からない」


「そっか……」


 伊織はそう言って、笑おうとはしなかった。


 アリスは水槽の横にある展示パネルを読んでいた。子ども向けの展示らしく、イソギンチャクとクマノミの絵が並び、丸みのある文字にはところどころふりがなが振られている。透明な板の端には白く乾いた指の跡がいくつも残っていて、そこだけが何度も同じ場所をなぞられた紙のように曇っていた。


 書かれていること自体は、難しくなかった。クマノミは、毒を持つイソギンチャクの触手のあいだで身を守る。イソギンチャクは、クマノミが運ぶ食べ残しや、外敵を追い払う動きによって助けられる。互いに守り、互いに利用する関係なのだと、展示パネルは子どもにも分かるようなやさしい言葉でまとめていた。


 アリスは最後まで読んでから、水槽へ視線を戻した。


「助け合い、ですね」


「逃げ場がそこしかないだけでしょ」


 乃愛が言った。


「でも、逃げ場でも、そこにいられるなら……」


 伊織はそこまで言って、続きを口を閉じる。


 水槽の中で、クマノミが触手の奥へ戻っていく。守られている、と展示パネルには書いてある。隠れている、とは書かれていない。


「ごめん。なんでもない」


「なんでもなくない言い方だったけど?」


 乃愛の言葉に、伊織は困ったように笑いかけたが、紬の顔を見て、そのまま黙った。


 紬は、クマノミを眺めていた。


 展示パネルには、そこが身を守る場所だと書かれている。毒を持つもののそばでしか守られない命があり、やわらかく揺れるものの内側に、ほかの魚を拒む仕組みがある。安全な場所、という言葉は、ガラスのこちら側から貼られた名前のように見えた。


 水槽の照明が、かすかに揺らいだ。


 最初は、蛍光灯の接触が悪いのだと思った。薄く暗くなった視界が戻りかけたところで、天井の灯りが落ちる。部屋全体が暗く沈み、水槽の内側だけが青白く残った。イソギンチャクの触手は、暗くなった水の中でも変わらず揺れていた。


「今度はなに?」


 乃愛が低く言う。


 アリスは展示パネルから手を離した。すぐに何かを言う代わりに、天井の照明、壁際の非常灯、水槽の縁に落ちた黒い影を順に見ていく。確かめるものはあるのに、確かめたところで何が分かるわけでもない。


「……故障なら、まだいいのですが」


「故障ならって何」


「誰かが意図しているよりは、ましです」


 伊織が小さく息を吐く。


「アリスちゃんって、怖い時ほど冷静になるね」


「冷静……ではありません。そういう風に見せているだけです」


 アリスの声がまだ残っているうちに、水槽のガラスへ別の景色がにじみ始めた。


 最初に見えたのは、教室の窓だった。半分だけ開いたカーテンの隙間から光が入り、床に細長く伸びている。机は整然と並んでいたが、いくつかの椅子だけがわずかに傾き、直前まで誰かがそこにいた気配を残していた。黒板の端には日直の名前らしき文字がある。けれど、水に揺らいだ映像では、そこまでは読めない。


 その中央に、紬が立っていた。


 今の紬と同じ制服を着ている。髪の長さも、顔も、学生証に印刷されていたものと変わらない。


 映像の中の紬は、二人の生徒のあいだにいた。片方は泣き出す寸前の顔をしていて、もう片方は机の端を強く握っている。紬はどちらにも触れず、どちらの顔も見ていなかった。ただ、二人の視線がぶつかる場所に立っている。


 音は聞こえなかった。


 泣きそうな生徒の口が動き、机を握った生徒が何かを返す。紬はその間にいる。


「紬ちゃん……?」


 伊織の声がした。


「今の、紬ちゃんだよね」


「……たぶん」


 乃愛が小さく呟いた。


「たぶんばっかり」


 水槽に映る少女は、自分の顔をしている。学生証の写真とも、さっきガラスに映った顔とも違わない。それなのに、その教室の匂いも、二人の生徒の名前も、そこへ立っていた理由も、紬の中には戻ってこなかった。


 映像は、紬の返事を待たずに切り替わっていく。


 廊下、階段、保健室の前。白い壁に囲まれた部屋。学校に似ているのに、教室番号も掲示物の文字も水に揺れて読めない。どの場所にも、紬がいた。


 笑っている生徒とうつむいている生徒のあいだに立っている。怒鳴り出しそうな生徒と、袖口を握りしめた生徒のあいだにいる。誰かが手を伸ばす前、誰かが背を向ける前、まだ何も起きていないはずの場所で、紬だけがいつも同じ距離に置かれていた。


 映像の中の紬は、誰かをかばうわけでも、叱るわけでもなかった。片方へ近づくことも、もう片方を遠ざけることもなく、二人のあいだに置かれたまま、そこに立っていた。


 展示パネルにあった安全な場所という言葉が、紬の中で別の形を取り始めた。


 水槽の中では、クマノミは少し離れてはまた奥へ戻っていく。そこが身を守る場所だと、さっき読んだばかりだった。けれど映像の中にいた自分は、どこかへ逃げ込んでいたわけではない。誰かに守られていたわけでもない。


 あいだに立っていただけだった。


 泣きそうな顔と、怒りをこらえた手。笑っている生徒と、うつむいたままの生徒。その隙間に、自分の姿だけが何度も挟まっていた。


 安全な場所。


 その言葉は、ガラスの向こうに貼られた説明文よりも、ずっと冷たく見えた。


 紬は、指先が冷えていることに気づいた。空気はぬるいはずなのに、手だけがうまく温まらなかった。


「これ、何見せられてんの?」


 乃愛が水槽に向かって言った。


 返事はない。


「聞いてんだけど!」


 乃愛が一歩近づく。足が上がりかけたところで、アリスが横から入って止めた。


「蹴るのは危ないです!」


「危ないのは向こうでしょ!」


「ガラスが割れたら魚さんが死にます」


「今、魚の心配してる場合?」


「魚さんに責任はありません」


 乃愛はアリスを睨んだが、足は下ろした。


 伊織が短く息を吐く。


「今の、ちょっと助かった。ガラスが割れる想像したら、普通に怖かった」


「怖いって言えるなら元気じゃん」


「乃愛ちゃんの元気判定、厳しくない?」


 伊織は笑ったが、その声は水槽の前で長く続かなかった。


 映像の中の紬が、こちらを向いた。


 顔の向きが変わっただけ、と言えばそれだけだった。目が合ったのかどうかも分からない。水槽のガラス越しに映っているものが、こちらを認識するはずはない。そう考えようとするより早く、紬は一歩だけ後ろへ下がっていた。


 靴底が床の湿気を踏み、滑った音を立てる。


 その小さな音で、ようやく自分が今ここにいるのだと分かった。水槽の向こうではなく、熱帯エリアの湿った通路に立っている。そう確かめても、映像の中の自分から目を離すことはできなかった。


 やがて照明が戻った。


 教室も、廊下も、白い部屋も、水面に溶けるように消えていく。あとに残ったのは、イソギンチャクとクマノミだけだった。触手はさっきと同じ速度で揺れ、クマノミは外へ出ては、また奥へ戻る。人の顔が映っていたことも、こちらを向いた誰かがいたことも、そこでは初めから起きていなかったように、水槽の中の時間だけが何事もなく続いていた。


 展示パネルには、さっきと同じ説明が残っていた。


 クマノミにとっては身を守る場所になります。


 何の変哲もない一文だった。子どもが読んでも、大人が読んでも、そこで立ち止まるような説明ではない。それでも、映像を見たあとでは、その言葉だけが水槽の前に残された別の意味のように見えた。


 守られる場所。


 そう書かれているのに、紬には、そこが逃げ込むための場所には思えなかった。誰かが壊れないように置かれる場所。誰かと誰かのあいだで、都合よく傷を受け止める場所。さっき映像の中にいた自分は、いつもそういう位置に立っていた。


 紬は展示パネルから目を離せなかった。


「紬ちゃん」


 伊織の声はすぐ近くから聞こえた。自分に向けられたものだということも分かる。けれど、返事をするまでの短い動きが、どこかで引っかかっていた。喉は開かず、まばたきだけが遅れる。


 有沢紬。


 水槽に映った少女も、学生証の写真も、ここに立っている自分も、同じ名前でまとめられている。そう分かっているのに、呼ばれた瞬間に振り向くための記憶だけが見つからない。名前を聞いた身体が、その呼び方をまだ知らない。伊織の声は近いのに、そこへ返事を返すまでの距離だけが、奇妙に遠かった。


 アリスは水槽の端を見ている。


 非常灯の影に、小さな監視カメラが取り付けられていた。黒いレンズは壁のネジ穴に紛れるほど小さく、展示パネルの文字や水槽の光に気を取られていれば見落としてしまう位置だった。赤い点は灯っていない。それでも、こちらを向いている形だけは分かる。


「おそらく、わたくしたちを、誰かが見ています」


「今さら?」


 乃愛が返す。


「今さらでも、言わないよりはましです」


 アリスの声は丁寧だったが、硬さが混じっていた。


 乃愛は舌打ちしかけて、やめた。ポケットの中のスマートフォンを握っているのが、布越しに分かる。


「もう、行こう」


 紬は水槽を見たまま、動けなかった。


「ここにいても、また変なの見せられるだけでしょ」


「次も同じかもしれません」


 アリスが言う。


「だから何。ここに住む?」


「住みません」


「じゃあ行くしかないじゃん」


 乱暴な言い方だった。


 それでも、紬はようやく息を吸えた。胸の奥に詰まっていたものが、熱帯エリアの湿った空気と一緒に、ゆっくりほどけていく。


 伊織が、紬の隣に立った。肩が触れない距離だった。


「歩ける?」


「……うん」


「ほんと?」


「たぶん」


「それは信じにくいなあ」


 伊織は困ったように言って、それ以上は聞かなかった。


 イソギンチャク水槽の奥に、次の扉がある。横には、クラゲのイラストが描かれたポスターが貼られていた。昼間なら、子どもが足を止めて指さしたかもしれない。淡い紫と水色で塗られた紙面には、幻想的なクラゲの世界へ、という明るい文字が並んでいる。


 白いライトは、扉の前で止まっていた。


 アリスは袖口を整えようとして、途中で手を下ろす。乃愛は何も言わずに先へ向かい、伊織は笑う準備だけをして、まだ笑わない。三人の背中を見てから、紬はもう一度だけ水槽を振り返った。


 クマノミは、またイソギンチャクの触手の奥へ戻っていく。守られているのか、そこに戻るしかないのか、ガラスの外からは分からない。展示パネルには安全な場所と書かれていた。その言葉はもう、さっき読んだ時と同じ形では紬の中に残っていなかった。


 紬はカードケースを握り直し、扉の方へ向き直る。


 今度は、自分から一歩を踏み出せた。


展示番号02号 『共生関係』


 クマノミは、イソギンチャクの毒のある触手のあいだで暮らします。ほかの魚にとって危険な場所も、クマノミにとっては身を守る場所になります。クマノミは守られるだけではなく、食べ残しを運んだり、外敵を追い払ったりして、イソギンチャクとともに生きています。

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