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水槽少女展  作者: 電脳鯨
第一章 水槽の中の少女たち
2/10

展示番号01号 『大水槽、群れで泳ぐ魚たち』

水族館(すいぞくかん、英: aquarium)とは、主として海や河川・湖沼などの水中や水辺で生活する生物(水族)を展示・収集している施設である。

 ――Wikipedia「水族館」の項より引用。

 水の音がしていた。


 目を開ける前から、それだけは分かった。床の下で水が動いている。近いのか遠いのかも分からないまま、低い響きだけが背中に当たっていた。


 少女はまぶたを開けた。


 天井が見える。青白い光、剥き出しの配管、非常口の緑の灯り。案内表示らしきものもあったが、文字を読もうとすると目の奥が痛んだ。何度かまばたきをして、やめた。読めないものを読もうとしている場合ではないのに、他に何をすればいいのかも分からなかった。


 身体を起こそうとして、手のひらが床に貼りついた。


「……つめたい」


 声は、自分の口から出たにしては頼りなかった。


 床は濡れていない。少なくとも、水たまりはない。それでも指の腹に湿り気が残り、膝を引き寄せるとスカートの布が太腿に冷たく触れた。身体を起こすと、肘と肩が遅れて痛んだ。床に倒れていたらしい。眠っていたのか、気を失っていたのかまでは分からない。そこを考えようとした途端、頭の奥が止まり、水の音だけが響く。


 左右には分厚いガラスが並んでいる。


 水槽だった。青い照明を受けた水が揺れ、小さな魚が銀色の腹をひるがえして泳いでいる。こちら側には誰もいない。足音も、話し声もない。水槽の中だけが、何も知らないまま動いていた。


 少女は制服のポケットを探った。


 指先が震えて、ブレザーの布をうまく掴めない。内ポケットの奥へ爪を差し入れた時、硬いものが触れた。薄いカードケースだった。


 中には学生証が一枚入っている。透明な面には細かな傷があり、角は白く擦れていた。そこに印刷された顔写真は、ガラスに映る少女と同じ顔をしていた。


 名前の欄を読む。


 有沢紬(ありさわつむぎ)


 文字は読めた。読み方も分かる。ありさわ、つむぎ。口の中で小さく動かしてみる。何度か繰り返す。舌はちゃんと動いた。名前だけが、身体のどこにも引っかからない。


 学生証の写真は、たぶん自分だった。


 髪も、制服も、ピンクのヘアピンも同じ。写真の中の少女は、まっすぐ前を向いている。撮る時にそう言われたのだろう。肩の位置も、顎の角度も、きちんと整っている。


 紬はその顔を見ているうちに、少し気持ちが悪くなった。


 そこに写っている子は、少なくとも撮影された時、自分の名前を知っていたはずだった。学校へ行き、制服を着て、写真を撮られ、学生証を受け取った。そのはずなのに、こちら側には何も残っていない。


「……ありさわ、つむぎ」


 声に出すと、閉じた館内に小さく落ちた。


 紬はしばらく待った。水の音が続いている。


 その時、布が床を擦るような音がした。


 円柱状の水槽のそばに、別の少女が倒れていた。長い髪が床に広がり、同じ制服の肩がかすかに上下している。少女は重たげにまぶたを震わせ、しばらく焦点の合わない目で天井を見ていたが、紬の姿に気づくと息を呑んだ。


「……あなた、誰?」


 紬はすぐに答えられなかった。


 自分も同じことを聞きたかった。相手にも、自分にも。


「有沢紬、って言うらしい」


「らしいって、何?」


「学生証に、そう書いてあった。でも、覚えてない」


 長い髪の少女は、紬を見つめたまま黙った。疑っているというより、自分が聞きたかった答えがどこにもないことを、遅れて受け取ったような顔だった。


「ここは?」


「たぶん、水族館」


「たぶんって……」


「魚がいるし、水槽もあるから」


「そういう意味じゃなくて」


 彼女はゆっくりと身体を起こした。長い髪が肩から滑り、床に落ちていた水の光を遮った。


「どうしてここにいるのか、紬ちゃんは覚えてる?」


 紬は首を振った。


「起きたら、ここにいた。名前も、学生証を見るまで分からなかった」


 その答えを聞くと、彼女は自分の制服を見下ろした。胸元の校章、乱れたリボン、床に擦れたスカートの裾。順番に触っていくうちに、ブレザーの内側で手が止まった。。


 身体を起こしきった拍子に、ブレザーの内側から薄いケースが滑り落ちた。


「あ……」


 慌てて拾い上げる。透明な面の向こうには、顔写真つきの学生証が入っていた。


「……最上伊織(もがみいおり)


 文字を読んだあとも、彼女はしばらく写真と名前を見比べていた。


「いおり……なんだ。私」


 そう言ってから、すぐに困ったように眉を下げる。


「変なの。知らない人に自己紹介されたみたい」


「うん」


「うんって言われると、それはそれで怖いな」


 小さく言って、笑おうとしたのか、伊織の口元だけが少し動いた。


「でも、普通は自分の名前見たら、もっと何かあるはずだよね。ああ私だな、とか」


「……私は、何もなかった」


 その声の余韻が消えないうちに、展示パネルの陰で硬い音がした。


 誰かが、床に手をついた音だった。


 二人が振り向くと、金髪の少女が身体を起こしている。肌は白く、顔立ちも日本人離れしていた。同じ制服を着ているのに、彼女だけがこの場所の校則から外れているように見える。


「大丈夫?」


 紬が声をかけると、すぐには答えは返ってこなかった。


 金髪の少女は、自分の指先を見て、制服の袖口に触れ、乱れたスカートの裾を整えた。それから、紬と伊織を順に見る。


「……今の話、聞いていました」


「今の話?」


 伊織が聞き返すと、少女は一度だけまばたきをした。


「名前が分からない、という話です。あなたたちも、そうなのですか」


 あなたたちも、という言い方に、紬の中に引っかかった。


「あなたも?」


「おそらく」


 金髪の少女は言ってから、少しだけ目を伏せた。


「いえ。おそらく、ではなく……少なくとも、わたくしはここにいる理由を思い出せません」


「わたくし……」


 伊織が小さく繰り返した。


 金髪の少女は、そこで初めて自分の言葉に気づいたように口を閉じた。


「変ですか?」


「いや、変っていうか、この状況で急にお嬢様が来たなって」


「お嬢様ではありません」


「そこは覚えてるんだ?」


「覚えていません。ですが、たぶん違います」


 伊織は何か言いそうになり、すぐにやめた。視線だけが、少女の顔と床のあいだを行き来する。


 金髪の少女はブレザーの前に片手を添え、胸元、腰のあたり、スカートの脇と順に確かめていく。動きは丁寧だったが、同じ場所を二度触った。


 内ポケットに触れたところで、手が止まる。


「……ありました」


 取り出したのは、黒いスマートフォンだった。画面には午前一時過ぎの時刻だけが表示されている。彼女は通話のアイコンを探し、画面の隅を見て、小さく息を吸った。


「圏外です」


「やっぱり?」


 伊織が言う。


「やっぱり、と思いたくはありませんでした」


 金髪の少女は画面をもう一度見た。指先がわずかに滑る。


「連絡先も、写真も……見当たりません。すぐ使えそうなものは何も」


 スマートフォンを戻そうとした時、彼女は内ポケットの奥に残っていた薄いものに気づいた。指先で引き出したのは、紬たちと同じ形のカードケースだった。透明な面には顔写真つきの学生証が入っている。


「……鷹宮(たかみや)アリス」


 声にしたのは、彼女自身だった。


「たぶん、わたくしの名前です」


「たぶんなんだ」


 伊織が言うと、アリスは顔を上げた。何かを説明しようとして、言葉が出る前に視線が学生証へ戻る。


「読めます」


「うん」


「読めるので、そうなのだと思います」


 それ以上は続かなかった。


 アリスは学生証をケースに戻そうとして、すぐには戻せなかった。透明な面についた細かな傷を親指で一度なぞり、途中で手を止める。何か言い足そうとしているようにも見えたが、唇は動かなかった。


「アリスちゃん、でいい?」


 伊織が聞いた。


 アリスは返事をするまでに、少し時間を置いた。


「はい」


「嫌だったら別の呼び方でもいいけど」


「嫌かどうかが、まだ分かりません」


 そう言ってから、アリスは口を閉じた。言い方が変だったと自分でも思ったのか、眉がわずかに寄る。


「すみません。今のは、うまく言えませんでした」


「いや、たぶん全員うまく言えないから大丈夫大丈夫」


 伊織の声は軽くしようとしていた。最後だけ、少し落ちた。


 アリスは真面目な顔をしている。そこに押されている校章は、紬と伊織のものと同じだった。学校名の欄にも、同じ文字が並んでいる。


「わたくしたち、同じ学校の生徒のようです」


「じゃあ、一緒にここへ来たのかな?」


 紬がそう言うと、伊織がすぐに返す。


「一緒に来たなら、誰か一人くらい覚えてそうだけどね」

 

 学生証には、それぞれの名前がある。写真も、目の前にいる本人と一致している。それでも、その名前で誰かを呼んだ記憶も、呼ばれて振り返る二人の姿も、紬の中には浮かばなかった。


 その時、乱暴な舌打ちが遠くから聞こえた。


「超最悪なんだけど!」


 その声は、大水槽の向こう側からだった。


 紬がそちらを見ると、青いガラスの光を背に、もう一人の少女が立っていた。背は低く、黒い髪を肩のあたりで切りそろえている。顔色は悪いが、目つきだけが妙に鋭い。片手にはピンク色のケースに入ったスマートフォン、もう片方の手には、紬たちと同じ形の薄いケースが握られていた。


「圏外。スマホもイカれてる。何これ、誘拐?」


 吐き捨てるように言うと、少女はカードケースを無造作に、そのまま床へ放り投げた。


 硬い音を立てて一度跳ね、透明なケースは滑り止めの床を斜めに滑り、紬たちの足元で止まる。


 透明な面の向こうに、顔写真つきの学生証が入っている。写真の少女は、いまこちらへ歩いてくる少女と同じ顔をしていた。


 名前の欄には、楠乃愛(くすのきのあ)と書かれている。


「勝手に見んな」


「見ようとしたわけではありません」


 アリスはすぐに答えかけて、乃愛の目を見たところで口を閉じた。正面から言い返せば、余計に火がつく。そう判断したようだった。


「……すみません。足元に来たので」


「いちいち綺麗に言い直すとこ。今それ必要?」


「必要では、ないと思います」


「じゃあ黙ってて」


「それは困ります。黙っていると、状況が分からないままになります」


「喋ってても分かってないじゃん」


 乃愛の声が大きくなった。


 伊織が、紬の方を見てから、慌てて二人の間に視線を戻す。


「えっとえっと、今のは……どっちも悪いっていうか、いや、どっちも悪くないっていうか」


「あんたも黙ってて」


「私も!?」


 伊織の声が裏返った。


 そのせいで、張りつめていた空気がずれた。笑えるほどではない。それでも、怒鳴り合いに進むほどの勢いも、そこで一度止まった。


 乃愛は二人を見て、舌打ちをした。


「面倒くさ」


 それでも、さっきより声は小さかった。


「……あんたらも、覚えてないわけ?」


 乃愛は誰とも目を合わせずに言った。


「私は、さっき学生証を見て伊織って知ったばっかりだよ」


 伊織が答えた。軽く言おうとしていたのに、最後の方で声が落ちる。


「私も。超最悪」


 乃愛は自分で言って、自分で嫌そうな顔をした。


 紬は学生証を握ったまま、三人を見ていた。誰かが黙るたび、別の誰かが何かを言う。怒る声、取りなす声、丁寧すぎる声。そのどれかが途切れると、水の音が戻ってきた。


 黙っている方が怖かった。


「わたくし、変な言い方をしていましたか?」


「してる」


 乃愛は即答した。


「あと、その落ち着いてますみたいな顔もムカつく」


「落ち着いてはいません」


「じゃあ顔に出せば?」


 アリスは言い返さなかった。


 視線だけが、自分の学生証へ落ちた。ケースの縁を押さえた爪が、透明なプラスチックをかすかに鳴らす。大きな音ではなかったのに、乃愛はそれ以上、追い打ちをかけなかった。


「で、使うの? この名前」


 乃愛が言った。


「ほかに呼び方がありません」


 アリスが答える。


「それに名前もなしに話すのは、失礼だと思います」


「じゃあ、別の呼び方にする?」


 伊織が言ったが、誰も代案を出せなかった。


 紬は手元の学生証を見た。


 有沢紬。


 その文字に懐かしさはない。


「……私は紬でいい。呼ばれたら、返事する。たぶん」


「では、わたくしはアリスです」


 アリスが頷く。


「じゃあ、私は伊織だね」


「それで呼べば。どうせ、あんたらと話すのも今だけだから」


 呼び方は決まった。けれど、それで何かが分かったわけではない。学生証に書かれた文字を呼び合えるようになっただけで、ここがどこなのか、誰が自分たちを連れてきたのか、状況は何も変わらなかった。


 乃愛の靴先が、床に落ちたカードケースを小さく蹴った。


「で? 名前ごっこは終わり? 次は何。これ、普通に誘拐でしょ?」


「誘拐、っていうと急に犯罪っぽくなるね。いや、たぶん事件なんだけど」


 誘拐、という言葉がその場に落ちた。


 伊織が何か言おうとして、途中でやめる。アリスも一度唇を開いたが、答えられるだけの根拠はなかった。


 紬の目に、非常口の緑色の表示が入った。


「……出口」


 声が先に出た。


 三人がこちらを見る。


「とりあえず、出口を探そう。ここにいるの、嫌だから」


「は? なんで急にあんたが仕切ってんの」


「仕切りたいわけじゃない」


 紬は学生証を内ポケットへ戻した。


「このまま空気が悪くなるのが、嫌なだけ」


 乃愛は言い返そうとして、口を閉じた。床に落ちていた自分のケースを靴先で引き寄せ、それを拾い上げる。


「じゃあ勝手にすれば。私は後ろ歩くから」


「出口を探すのは賛成です。というより、それ以外に今できることがありません」


 アリスは非常口の表示を見ていた。


「四人で動きましょう。こういう時に一人で行くと、最初にいなくなると聞きます」


「聞いた情報源が全部よくある話なんだけど」


 伊織は突っ込まずにはいられなかった。


「でも、これってさ……だいたい、アニメとか漫画だと生きて外に出られるかわからないやつだよね?」


 その言葉に、全員が黙った。


「や、やだな。みんな黙ると、余計怖いじゃん」


 誰も返事をしなかった。


 乃愛は苛立ったように床を蹴る。紬も、何か言おうとして、言えるだけの根拠がどこにもないことに気づいた。


 それから四人は、黙って非常口へ歩き始めた。


 水の中では、銀色の魚の群れがゆるやかに形を変えている。展示パネルには、マイワシやアジが群れを作ること、外敵から身を守るためにまとまって泳ぐことが、子どもにも分かる言葉で書かれていた。


 アリスはパネルから目を離さない。


「魚なんて見てる場合?」


 乃愛が鋭い声で突っ込む。


「見ているわけではありません。読んでしまうんです」


 アリスの指先だけが、展示パネルの縁をなぞっている。


「こういう説明は、最後まで読まないと作った方に失礼な気がして」


「今そこ気にするとこ?」


「ですが、水族館側にも事情があるかもしれません」


「自分のことだけ、気にしなよ」


 言い捨てるようにして、乃愛は先へ歩き出した。


 最初に確認したのは、目に見えた非常口だった。


 緑色の誘導灯は点いている。扉の前に障害物はなく、避難経路を示すプレートもきちんと貼られていた。乃愛が取っ手に手をかけ、力任せに押す。金属の扉はわずかに軋んだだけで、奥に噛み合ったロックは動かなかった。


「開かない」


 乃愛はもう一度押した。今度は肩まで使ったが、扉はびくともしない。舌打ちをしたあと、彼女は一歩下がり、ためらいもなく扉の下の方を蹴りつけた。


 金属の鈍い音が、閉じた館内に大きく響いた。


 伊織が反射的に肩をすくめる。紬も息を止めた。水槽の中の魚たちが、一瞬だけ群れの形を乱す。


「乃愛さん、蹴って開くものではありません」


 アリスが注意する。


「押して開かないから蹴ったんだけど」


 乃愛はもう一度蹴ろうとして、扉がまったく動いていないことに気づいたのか、苛立ったように足を下ろした。


 アリスが横の非常ボタンを見つけて押す。普通なら警告音が鳴るはずだった。それでもランプは点かず、音も鳴らない。押し込んだ指の感触だけが、虚しく返ってきた。


「非常口が開かないのは、さすがにおかしくない?」


 伊織の声から、さっきまでの軽さが抜けていた。


「入口に行く」


 乃愛の足は、もう動き出していた。


「正面の?」


「出口って言ったら、まずそこじゃん」


 誰も反対しなかった。


 四人は来た道を戻った。水槽の青い光が背中へ流れ、足音だけが閉じた館内に小さく響く。


 順路をたどり、着いた正面入口は、予想していた通り開かなかった。


 自動ドアの電源が落ちているわけではない。近づくと、上部のセンサーランプは小さく反応する。扉の奥でモーターが動こうとする音もした。けれどガラス戸は一度だけわずかに震えただけで、ロックが外れる気配はない。


「なにこれ、閉じ込める気満々じゃん」


 乃愛が低く言った。


 伊織は自動ドアの向こうを見ている。外があるはずの場所には、暗い反射しか映っていなかった。自分たちの制服と、照明の青い光と、青ざめた顔が四つ、出口の向こう側に押し戻されるように並んでいる。


 アリスが、壁に貼られた館内図を見つけた。


「出口は、ここだけではないようです」


 現在地は、一階の正面入口。正面入口のすぐ横が先ほどの大水槽エリア。そのほかには、ミュージアムショップ横の非常口、二階レストラン側へ続く階段、バックヤードへ入る職員通路が表示されている。どれも水族館にあるものとしては不自然ではなかった。ただ、通常展示の順路とは別に、赤い線が館内図の上を細く走っていた。


 その線は、ほかの案内より少し色が濃かった。地図の上に、あとから貼り足されたように見える。


 大水槽エリアから奥へ伸び、いくつかの展示室を通り、さらに別の場所へ曲がっている。赤い線のそばには、見慣れない文字が添えられていた。


 企画展示『水槽少女展』


「水槽少女展……?」


 伊織が読み上げる。


「聞いたことある?」


 誰も首を縦には振らなかった。


 水族館の企画展示として、ありえない名前ではない。写真展か、イラスト展示か、何かのコラボ企画かもしれない。そう考えれば説明はつく。けれど、閉じ込められた四人の現在地から、その赤い線だけが順路のように伸びていることまで、同じように片づけることはできなかった。


 紬が館内図の赤い線を目で追っていた時、照明の光がふいに消えた。


 暗闇に沈み、非常灯の縁だけが滲む。誰かが息を呑む気配がしたが、それが伊織のものだったのか、自分の喉から漏れたものだったのか、紬には分からなかった。暗闇は長く続かなかった。まばたきほどの間を置いて、照明は何事もなかったかのように戻り、大水槽のガラスには再び青い光が満ちる。


「なに、今の……!」


「動かないで」


「誰かいるの?」


「誰かいるなら出てきなよ」


 返事の代わりに、天井のスピーカーが古い放送チャイムを鳴らした。音は割れていて、本来なら明るい案内の前に流れるはずの旋律が、閉じた館内に場違いに響いた。


「本日はご来場、誠にありがとうございます」


 四人は同時に、天井を見上げた。


 声は平板だった。古い録音なのか、機械が読んでいるのか判然としない。感情らしいものはないのに、言葉だけは昼間の館内放送と同じ調子を保っている。迷子の案内でも、閉館後の警告でもない。一般客を迎え入れるための声が、出口を塞がれた水族館の中で、何事もないように流れていた。


「これより、企画展示『水槽少女展』をご案内いたします」


「待って待って。なにそれ」


 伊織がスピーカーを見上げた。


「誰が喋ってるの?」


「案内される気、ないんだけど」


 乃愛が言った。


 アリスは壁の地図へ向き直る。照明が戻ったあとも、赤い線だけがぼんやりと浮かんでいた。


「さっきの館内図で見た言葉です」


「だから何。見たからって、行く理由にはならないでしょ」


 乃愛の声が低くなる。


 その時、大水槽の前で、床の一部が白く点いた。


 細い光は四人の足元を横切り、展示室の奥へ続いている。出口へ向かう明かりではない。この場所からさらに奥へ進めと言われているのだと、誰に説明されなくても分かった。


「……うーん、これは行けってことかな?」


 伊織の声は小さかった。


「行かない。こんなの、従う方がおかしいでしょ」


「でも、非常口も正面入口も開きませんでした」


 アリスが言うと、乃愛は苛立ったように息を吐いた。


「だからって、向こうの言う通りに進むわけ?」


 返す言葉はなかった。正しいかどうかではなく、ほかに選べる場所がない。そういう沈黙が、四人のあいだに落ちる。


 紬は床に浮かんだ白い線を見ていた。


 誰かに従うつもりはない。けれど、出口と呼べるものはどれも外へ届かなかった。ここに立ち止まっていれば、開かない入口と、何も答えない館内図と、大水槽の前に取り残されるだけだった。


「嫌だったら戻ればいい。戻れるところまでは、だけど」


「戻れる保証なんかないじゃん」


「ここにいて助かる保証もない」


 乃愛は紬を睨んだが、言い返す言葉を見つけられなかった。


 紬は、その白い線の上へ足を踏み出した。


 振り返ると、大水槽はさっきの明るさを取り戻したまま、不気味なほど静かに水を湛えていた。一度暗闇に沈んだあとのガラスは、同じ青を戻していても、もうただの展示には見えない。魚の群れが水の奥で形を整え直していく。魚はさっきと同じように泳いでいるのが、今は嫌だった。


 アリスが遅れてついてきた。伊織は大水槽と足元の明かりを見比べてから、諦めたように息を吐く。乃愛だけはしばらく動かなかったが、三人との距離が開きかけたところで、小さく靴底を鳴らした。


 奥へ進むにつれて、空気の匂いが変わっていく。


 磯の匂いに、湿った緑の匂いが混ざり始めた。壁や天井には濃い葉の影が揺れ、ガラスの向こうでは、赤や黄色の小さな魚が照明をまとって泳いでいる。暗転の直後だというのに、その一角だけは不自然なほど明るく、作りものめいた南国の色を保っていた。


 展示室の入口に、古いパネルが立っていた。


 熱帯エリア。


「……この雰囲気で、南国ムードなの、なんか嫌だな」


 伊織の声は、さっきよりも小さかった。


 熱帯魚の群れだけが、明るすぎる色をまとって、ガラスの向こうを行き来している。


「みんなで一緒に入ろう」


 紬がそう言っても、誰も頷かなかった。最初に動いたのはアリスだった。伊織がその後に続き、乃愛も舌打ちをして歩き出す。


 紬もすぐに足を出そうとした。


 その瞬間、頭の奥で、映像が砂嵐のように流れた。


 ――にしないで。


 記憶とも呼べない。声だけが途切れ途切れに残り、白くざらついた景色の中で、誰かの手が遠ざかる。ただ、何か強く拒まれた感触だけが、鮮明になる前に消えていく。


 紬は、自分の中で何が引っかかったのか分からなかった。


「早くして」


 乃愛が振り返らずに言った。


 その声は苛立っていた。それでも紬が追いつくまで、乃愛の歩幅は少しだけ遅くなっていた。

展示番号01号 『群泳』


 マイワシやアジなどの小型魚は、捕食者から身を守るために群れをつくります。群れには特定のリーダーはおらず、それぞれが周囲の魚との距離や向きに反応しながら泳ぎます。群れから離れると危険が高まるため、魚たちは絶えず位置を調整しています。

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