展示番号09号 『大水槽、回遊する魚たち』
標本資料室の扉が閉まった。
乃愛は先に歩き出している。制服のポケットには、さっき持ち出した写真が一枚入っていた。布の内側で紙が擦れるたび、紬の目はそちらへ引かれた。写真そのものは見えない。けれど、そこに三人だけが写っていることを、もう知っている。
通路の壁はコンクリートの色をしていた。非常灯の緑が配管の影を床へ細長く落としている。展示室のように整えられた場所ではない。壁の傷も、床の黒ずみも、誰かに見せるためのものではなかった。
アリスが足を止めた。
濃紺のブレザーの裾が、暗い緑色に沈んでいる。彼女は胸元のカードケースに手を添えたまま、しばらく黙っていた。
「……一度、考えたいです」
乃愛が振り返る。
「今?」
「今でなければ、たぶん流されます」
丁寧な言い方はいつも通りだった。ただ、言葉が少しだけ早い。落ち着いているというより、落ち着こうとしている声だった。
「考えるって、さっきの写真のこと?」
「写真だけではありません。映像も、学生証も、スマホケースも、管理室のモニターもです」
「全部じゃん」
「はい。全部です」
「言われるだけで胃が痛いんだけど」
「私もです」
アリスはそう言ってから、まっすぐ前を向いた。
「だから、立ち止まりたいんです」
「勝手にすれば」
乃愛はそう返したが、ポケットの上に置いた手は写真の角を押さえたままだった。
四人はバックヤードを戻り始めた。濾過装置の前を通り、作業台の横を抜ける。清掃用ワゴンはまだ同じ場所にあり、ゴミ袋の口は開いたままだった。自分たちが一度通った場所なのに、もう少し古くなったように見える。
管理室の扉は、半開きのままだった。
黒いモニターが壁に並んでいる。大水槽、熱帯、クラゲ、淡水、タッチプール。白いテープに書かれた文字だけが、暗い画面の下でやけに鮮明だった。アリスはそこへ視線を向けたまま、声を落とす。
「私たちは、見られていたと思います」
乃愛の靴音が止まった。
「思います、じゃなくて見られてたでしょ。あんなモニター並んでたんだから」
「はい。ただ、どこまでかは分かりません」
「どこまで?」
「モニターだけなのか、館内放送や順路のライトまで含めてなのか。映像が流れたタイミングも、偶然とは思えませんでした」
伊織の声が掠れた。
「水族館全体で見てたってこと?」
「そう考えた方が自然です」
乃愛は反射的に天井を見た。蛍光灯と、剥き出しの配管と、黒く汚れた換気口があるだけだった。カメラらしいものは見えない。見えないことが、かえって嫌だった。
「超最悪」
吐き捨てるような声に、アリスは頷かなかった。ただ、乃愛のポケットへ視線を落とす。
「だから、スマホケースの文字が気になります。画面に映る場所ではなく、ケースの内側に書かれていました。普通に見ていたら分かりません」
「私が、見られてるって分かってて、そこに書いたってこと?」
「ありえます」
「覚えてないけど」
「はい」
「じゃあ、それを書いた私はどこ行ったの」
乃愛の声は荒くなかった。荒くできないまま、奥で詰まっていた。
「それは、まだ分かりません」
「分かんないばっかり」
「分かるところまで戻しています」
アリスはもう一度モニターを見た。
「ただ、写真については、もう一つ引っかかります」
「何」
「見つけられる場所にありました」
乃愛のポケットの中で、古い紙がかすかに鳴った。
「標本資料室の箱に入っていました。隠してあったと言えば隠してありました。でも、本当に見せたくなかったなら、残さないと思います」
伊織が眉を寄せた。
「じゃあ、見つけてほしかったってこと?」
「そこまでは言えません。でも、捨てられていなかった。私たちが見つけられる場所にあった。それは、無視できません」
「犯人が、わざと?」
乃愛の声が低くなる。
アリスはすぐには頷かなかった。
「犯人と呼んでいいのかも分かりません。ただ、管理している人間がいるなら、資料を回収することはできたはずです」
「じゃあ、あの写真を見つけるところまで、仕組まれてるかもしれないってこと?」
紬は、思わず口を挟んでいた。
自分の声が出たことに、自分で少し遅れて気づく。
アリスは紬を見た。
「そうかもしれません」
紬の指先が、カードケースの角を押さえた。透明な面が爪に当たる。
「じゃあ、私たちが考えてることも……その人たちの予定通りかもしれないの?」
言い終えたあと、口の中が乾いた。
「私が仲間はずれにされることも?」
アリスは否定しなかった。
「はい。そうかもしれませんね」
「最悪だね」
伊織が小さく言った。
「何を見つけても、それが手がかりなのか、誘導なのか分かんないってことじゃん」
「はい」
アリスは黒いモニターを見たまま答えた。
「だから、すぐに信じない方がいいと思います。何かを見つけても、それが本当に偶然残ったものなのか、誰かに見つけさせられたものなのか、一度疑った方がいい」
「疑ってばっかりだと、何もできなくない?」
伊織が言った。
「でも、何も考えず進むよりは、ましです」
乃愛はポケットから手を離した。布の中で、写真の端がまた小さく鳴った。
四人は管理室を離れた。
バックヤードの細い扉を抜けると、タッチプールの展示室へ戻る。明るい水色の壁。丸い泡の模様。浅い水槽の底で、ヒトデが張りつくように止まっている。ナマコは黒い塊のように砂の上に沈み、ヤドカリは貝殻の奥に隠れていた。紙タオルの空になったケースも、まだそこにある。
乃愛は水槽を見なかった。
視線を壁に置き、歩く速度だけを上げる。アリスはその背中を追いながら、タッチプールの前で足を止めた。
「ここで、乃愛さんの映像を見ました」
「言わなくていい」
「言います」
乃愛が顔を上げる。アリスはもう怯まなかった。彼女は一瞬だけ、自分の指先を確かめるように見た。濡れた指を拭いた紙タオルは、もうどこにもない。
「映像の乃愛さんは、何度も手を伸ばしていました。でも、触れる前に引っ込めていました」
「だから?」
「触れなかった人が、別の形で何かを残そうとしたのかもしれません」
「勝手に私の気持ちっぽくまとめないで」
「気持ちではありません。見えたことの話です」
乃愛の眉が動いた。
「前なら、アリス、今のとこ謝ってたよね」
「謝った方がいいですか」
「好きにすれば?」
「では、謝りません」
伊織が二人を見比べて、口を開きかけたまま黙った。タッチプールの水面に蛍光灯の光が映り、白い線が細かく揺れている。
紬は乃愛の横顔を見た。触れなかった指。水面の上で止まっていた手。タッチプールの縁を撫でて、近づいた、と言った声。乃愛のポケットには、今も写真がある。
つむぎをひとりにしないで。
あの文字は、突き放すためのものだったのか。繋ぎ止めるためのものだったのか。まだ分からない。
タッチプールを離れると、淡水魚エリアの白い光が近づいてきた。薄い灰色の床、白い壁、水草の陰を抜けていくメダカ。蛍光灯の光は、クラゲエリアや熱帯エリアの照明よりずっと現実に近く、そのぶん逃げ場がない。古い観察ノートの見本も、乾いたスタンプ台も、元の場所に残っていた。
アリスは、淡水魚の水槽の前で足を止める。
ここでは、彼女の映像が映った。広い玄関、食卓、車の窓、購買、掃除時間、教室の隅。普通という言葉の近くにいながら、その内側へ入れなかった彼女がいた。
「写真の三人が別人、という可能性も考えました」
「無理ありすぎでしょ」
乃愛が言う。
「はい。私も、そう思います」
アリスは一度だけ頷いた。
「顔、制服、名前、持ち物。偶然で片づけるには揃いすぎています。あの写真に写っているのは、記憶を失う前の私たちだと思います」
伊織の喉が小さく鳴った。
「記憶を失う前……」
「はい。そして、写真は一枚ではありません。表情も、立ち位置も、乃愛さんの腕の角度も違います。同じ時に続けて撮ったものには見えません」
「でも、何年も前って感じもしなかった」
伊織が言った。
「同じものを何度も触ったみたいな古さだった」
「私も、そう見えました」
アリスは頷く。
「私たちは、記憶を失った状態で、何度もこの水族館に閉じ込められているのかもしれません」
淡水魚の水槽の中で、メダカが一斉に向きを変えた。
「覚えてないのに?」
「そういうことになります」
「超最悪じゃん」
乃愛はそれだけ言って、壁の方を向いた。
伊織は、さっき通ってきた展示室の方を見る。
「でもさ、あれ、ただ思い出したんじゃないよね」
「映像ですか?」
「うん。私のクラゲも、紬ちゃんのクマノミも、アリスちゃんの淡水も、乃愛ちゃんのタッチプールも。偶然そこに映った感じじゃなかった。ちゃんと、私たちが嫌がるところに当たるように作られてた」
乃愛の目が細くなる。
「つまり、私たちがどう壊れるか見てたってこと?」
「壊れる、という言い方が正しいかは分かりません。ただ、反応を見ていたのだと思います」
「魚の観察みたいに言わないでよ」
アリスは唇を結んだ。
紬は、胸元の学生証を握り直した。
「でも、どうして」
三人が紬を見る。
「思い出させたいなら、どうして忘れさせるの。何度もここを歩かせて、映像を見せて、名前を出して、写真を残して……何のために、そんなことするの」
誰もすぐには答えられなかった。
アリスは、ようやく口を開く。
「思い出した時に、私たちがどう動くのかを見たいのかもしれません」
「逃げられるかどうかじゃなくて?」
伊織が言った。
「逃げるかどうかも含めてです。名前や映像や持ち物を見た時に、誰を信じるのか。誰と距離を取るのか。そこを見ているのかもしれません」
乃愛が小さく息を吐く。
「そんなの水槽の魚と一緒じゃん」
誰も聞き返さなかった。
「餌入れて、光当てて、どっちに泳ぐか見てるみたい」
その言葉だけは、淡水魚エリアの白い光の中で、ひどくはっきり聞こえた。
次に、クラゲエリアの暗い光が見えた。
青と紫が床に溜まっている。円形の水槽の中で、半透明の傘がゆっくり開き、また閉じていた。
伊織の足が、入口で止まりかける。
紬はそれに気づいた。伊織はすぐに前へ出たが、歩幅が崩れていた。クラゲの光が頬に当たり、彼女の口元だけが青く見える。
ここでは、伊織が笑い続ける映像を見た。
泣きそうな相手の隣でも、怒っている相手の前でも、誰かの輪の端でも、その場に合わせて笑顔の形を変えていた伊織。笑って、と呼ばれた感覚。笑わない顔の作り方が分からないと言った声。
伊織はポケットの写真を押さえている乃愛を見た。
「でもさ」
さっきまでより、声が小さかった。
「この写真、嫌なんだけど……三人とも、そんなに遠くないんだよね」
乃愛は写真を取り出さなかった。
「仲良さそうに見えるだけでしょ」
「うん。そうかもしれない」
伊織は否定しなかった。
「でも、肩を寄せてる。乃愛ちゃんが腕伸ばして、私とアリスちゃんを入れてる。嫌いだったら、こうは撮らない気がする」
「嫌いでも撮る時は撮るでしょ」
「そっか」
伊織は一度、水槽を見た。クラゲの体が、青い光を受けて形をなくしていく。
「でも、私はちょっと嬉しかった」
乃愛が目を向ける。
「何が?」
「写真の中の私たちが、遠くなかったこと」
伊織は笑わなかった。
「何も覚えてないけど、前にもこうやって一緒にいたんだって思ったら、怖いだけじゃなかった」
その言葉を聞いた瞬間、紬は胸元の学生証を握った。
「……私は?」
声にしてから、紬は自分でも驚いた。
伊織がこちらを見る。
紬は写真の端を見つめた。
「私は、その時どこにいたんだろう」
前にも一緒にいた。
三人は。
紬は写真にいない。
アリスが静かに言った。
「そこが、まだ分かりません」
クラゲエリアを出ると、熱帯エリアの光が見えた。
水槽の中では、クマノミがイソギンチャクの触手のあいだを出入りしていた。オレンジ色の体が、青白い水の中で明るく動く。
紬の映像が映った場所だった。
教室。廊下。保健室の前。白い壁の部屋。誰かと誰かのあいだに立っていた自分。守るでも、叱るでもなく、ただ二人の視線がぶつかる場所に置かれていた自分。
あの映像を思い出すと、紬の手のひらが乾いた。
カードケースを握り直すと、透明な面が爪に当たった。
アリスは熱帯魚の水槽を見ながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「写真には、紬さんがいませんでした」
紬は返事をしなかった。
「標本資料室にも、紬さんの学生証や持ち物はありませんでした。それなのに、今の紬さんは私たちと一緒にいます。乃愛さんのスマホケースには、紬さんをひとりにしないで、と書かれていました」
乃愛は黙っている。
紬は水槽の中のクマノミを見た。触手の奥へ戻る魚。そこが安全な場所なのか、そこに戻るしかないのか、ガラスの外からは分からない。
「紬さんは、最初から一緒にいたわけではないのかもしれません」
水槽の前で、アリスの声だけが残った。
「途中から、合流した」
アリスはそう言った。
「もしくは、誰かが合流させた」
「合流させたって……」
紬は、自分の声が思ったより掠れていることに気づいた。
「私が、自分で来たんじゃなくて?」
アリスは答えなかった。
答えないことが、答えのように聞こえた。
「じゃあ、私は……いつからいたの」
誰もすぐには答えなかった。
水槽の中で、クマノミが触手の奥へ戻っていく。紬の手の中で、学生証の角が指に食い込んでいた。そこには有沢紬と書いてある。けれど、いつからそう呼ばれていたのか。誰がその名前を渡したのか。考えようとすると、何もない場所を掴もうとしているようだった。
「私、みんなに会う前は、どこにいたの」
伊織が、紬の方を見た。
「……でも、今はいるよ」
その言葉は早かった。
紬は顔を上げる。
伊織は困ったように眉を下げたが、笑ってはいなかった。
「写真にいなくても、今は一緒にいるよ」
乃愛は何も言わない。
けれど、ポケットの上に置いた手は離れなかった。
アリスが頷く。
「もう一つ、気になることがあります」
「まだあんの」
乃愛が言った。
アリスは、熱帯エリアの出口へ目を向けた。その先には、大水槽の青い光がある。四人はもう、そこへ戻る途中だった。戻ることは、誰も口に出して決め直す必要がなかった。
「もし、写真を見つけることまで想定されていたのなら、私たちが今、大水槽へ戻ろうとしていることも、向こうの想定内かもしれません」
紬は、カードケースを握り直した。
「私たちが、戻ろうと思ったことも?」
アリスはすぐには否定しなかった。
「はい。手がかりを見つけて、自分たちで考えて、次の場所へ向かっているつもりでも、その流れごと用意されていた可能性があります」
「超最悪。何を見つけても、こっちが見つけたのか、見つけさせられたのか分かんないってことじゃん」
「はい」
アリスは大水槽の青い光を見た。
「だから、覚えておきたいです。私たちは今、自分たちで進んでいるのかもしれない。でも、進まされているのかもしれない」
紬は、自分の学生証を握り直した。
有沢紬。
そこに書かれた名前まで、誰かに見つけさせられたもののように思えた。
大水槽までの道は短かった。
廊下の向こうから青い光が差している。最初に目覚めた場所。最初に名前を見つけた場所。三人だけの写真が何枚も撮られていた場所。そこへ向かっているのは自分たちの意思なのか、それとも最初からそう歩かされているのか、もう誰にも分からなかった。
やがて、視界が開ける。
大水槽は、何もなかったようにそこにあった。
巨大なガラスの向こうで、銀色の魚の群れが泳いでいる。水槽の奥を進み、端まで行くと滑るように向きを変え、またこちらへ戻ってくる。戻ってきたように見えても、同じ魚が同じ場所にいるのかは分からない。光を受けた体がいっせいにひるがえるたび、群れの形は崩れ、すぐに別の形へまとまった。
大水槽の前に戻ると、乃愛はポケットから写真を取り出した。
古い紙の表面に、青い光が滲んでいる。そこには、三人が写っていた。乃愛の腕が伸び、伊織とアリスがその内側に収まっている。笑っているようにも、笑おうとして失敗したようにも見える顔。肩を寄せている距離。今の自分たちには覚えのない、それでも他人とは思えない近さ。
紬は、写真の端を見つめた。
そこに自分はいない。
今は、ここにいる。伊織の隣に、アリスの近くに、乃愛の声が届く場所に立っている。
「……撮っとく?」
最初に言ったのは、伊織だった。
乃愛が顔を上げる。
「何を」
「写真」
「なんで」
「分かんない。証拠、って言うと変だけど」
伊織は大水槽を見た。魚の群れが銀色に光り、ガラスの奥で向きを変えていく。
「ここまで来たじゃん。私たち。何も覚えてないし、何が正しいのかも分かんないけど、ここまで四人で来たのは本当でしょ」
アリスは何も言わず、伊織を見ていた。
「……また忘れるかもしれない」
伊織の声が、水音に混じる。
「明日なのか、次に目が覚めた時なのか分かんないけど。また何も分からなくなったら、今ここにいたことも、紬ちゃんが一緒にいたことも、なくなっちゃうかもしれない」
乃愛は写真を握ったまま黙っていた。
古い写真の中には、三人しかいない。そこに紬はいない。それでも、今この場所には四人いる。
「だから、残しときたい」
伊織はそう言ってから、困ったように眉を下げた。
「過去の私たちも、たぶん、そうしたんじゃないかなって」
乃愛はしばらく写真を見ていた。
「……また忘れたら、写真なんか見ても意味ないかもしれないじゃん」
「そうかも」
「見つからないかもしれないし、誰かに回収されるかもしれないし」
「うん」
「それでも撮るの?」
伊織は頷いた。
「それでも」
アリスが、黒いスマートフォンを取り出した。
「写真として残すことに、意味があると思います。次の私たちがすぐには分からなかったとしても」
乃愛は嫌そうに息を吐いた。
「言い方が重い」
「軽く言えません」
「だろうね」
圏外の表示はまだ消えていない。カメラは起動した。画面に大水槽の青い光が映り、四人の影が薄く重なった。
「私が撮るの?」
乃愛が聞く。
伊織は古い写真を指した。
「これ、乃愛ちゃんが撮ってるっぽいから」
乃愛は嫌そうな顔をしたが、スマートフォンを受け取った。乱暴な手つきだったが、落とさなかった。画面をこちらへ向け、古い写真と同じように腕を伸ばす。
「伊織、もうちょい寄って」
「はいはい」
「アリス、固い」
「どうすれば」
「知らない。固くない感じ」
「難しいですね」
「そこ真面目に返すな」
伊織が小さく息を吐いた。笑いそうになって、途中で止める。それでも、口元の強張りはわずかにほどけていた。
紬は、三人の横に立てなかった。
写真には、自分がいない。
立ち位置の正解がなかった。伊織の隣か、アリスの隣か、後ろか、端か。どこに立っても、古い写真の形を壊してしまうようだった。
「あんたも、入るんでしょ」
乃愛が言った。
それだけだった。
紬は顔を上げる。
「早くして」
「でも――」
紬は古い写真を見つめる。
「私が入ったら、前の写真と違っちゃう」
「違っていいでしょ」
乃愛の声は乱暴だった。
「四人で撮るんでしょ?」
乱暴な声だった。けれど、乃愛の腕は下がっていなかった。画面の中に紬が入るまで、シャッターを押さないつもりなのだと分かった。
伊織が横へ寄る。
「ここ」
アリスも半歩ずれる。
「入れます」
紬は三人のあいだへ入った。
伊織の肩が近い。アリスの袖口が、触れそうで触れない。乃愛の腕が前から伸びていて、その内側に三人分の顔と、自分の顔が入っている。
画面の中に、紬がいた。
大水槽の青い光を背に、三人と並んでいた。前髪の乱れも、制服の皺も、青ざめた頬も、ほかの三人と同じように映っている。見た瞬間、紬はようやく息を吸えた。画面の中の自分の胸元が上下する。そこにいる自分が、同じ呼吸をしている。
「撮るよ」
乃愛が言った。
誰も返事をしなかった。
スマートフォンのシャッター音が、大水槽の前に乾いて落ちた。
その直後、伊織が動かなくなった。
はじめに気づいたのは、紬だった。隣に立つ伊織の肩から、力が抜けた。触れていないのに、そう分かった。伊織の呼吸が止まり、次に吸った息が喉の奥で引っかかる。
「伊織ちゃん?」
伊織は返事をしなかった。
画面を見ていない。
撮れた写真ではなく、大水槽のガラスを見ている。魚の群れが向きを変え、銀色の光が彼女の目の中で割れた。
「伊織?」
乃愛がスマートフォンを下ろす。
伊織は、自分の口元に手を持っていった。笑う時に動く場所を、指で確かめるような仕草だった。指先は唇に触れる前に止まり、胸元へ落ちる。
伊織は笑わなかった。
「……思い出したかも」
声は水音に削られていた。
アリスが姿勢を正す。
「何を、ですか?」
伊織はすぐには答えなかった。喉が動く。飲み込めないものを、無理に押し込めたようだった。
「大水槽……」
「ここ?」
乃愛が聞く。
「ここにいた。私たち、ここにいた。乃愛ちゃんがスマホ持ってて、アリスちゃんが隣にいて、私が笑おうとしてて」
そこまで言って、伊織は紬を見なかった。
まだ、大水槽を見ていた。
青い光が、四人の足元に揺れている。乃愛の手の中で、スマートフォンの画面がまだ明るい。撮ったばかりの写真が表示されているのに、誰も見ていなかった。
「紬ちゃんが、先に行こうとしてた」
紬は息を吸った。
空気が途中で止まる。
「私、呼んだんだと思う。待ってって。そっちに行っちゃだめだよって」
伊織の指が、胸元の布を掴む。強く握ったせいで、ブレザーに皺が寄った。
「でも、振り向かなかった」
水槽の奥で、魚の群れがまた向きを変えた。大きな一つの生き物のように見えるのに、その中では無数の体が、互いに触れない距離を保って動いている。
乃愛が低く聞いた。
「それで?」
その目には、さっきまで紬を写真へ入れようとしていた時の柔らかさがなかった。怒っているわけではない。疑っているだけでもない。ただ、傷の形を思い出してしまった人の目だった。
伊織は紬を見る。
「紬ちゃんが、私たちを置いていった」
展示番号09号 『回遊魚』
マイワシやアジなどの小型魚は、野生の海では水温や餌のある場所、潮の流れなどに合わせて、長い距離を移動することがあります。群れで泳ぐことで外敵から身を守りやすくなり、一匹だけでいるよりも生き残る可能性が高くなります。水槽の中では、同じ場所を回っているように見えることがあります。けれど、魚たちは立ち止まっているわけではなく、周囲の魚との距離や水の流れに反応しながら、絶えず位置を変え続けています。戻ってきたように見えることと、同じ場所に帰ってこられることは、同じではありません。




