展示番号10号 『ミュージアムショップ、四つ目の土産』
伊織の声は、大水槽の前に残った。
水槽の向こうで魚の群れが向きを変える。銀色の腹がいっせいに光り、青い照明が床へ落ちた。乃愛の手の中には、さっき撮ったばかりの写真が映っている。伊織、アリス、乃愛、紬。四人は確かに並んでいた。
それなのに、紬だけが、その写真の中へ遅れて入り込んだように見えた。
「……置いていったって、何」
声にしたのは乃愛だった。
紬は顔を上げられなかった。
伊織は、自分が言った言葉を持て余しているようだった。唇が動きかけ、すぐに閉じられる。いつものように笑えば形だけは整ったはずなのに、口元は動かなかった。
「分かんないよ。でも、そう見えた。紬ちゃんが先に行って、私たちが後ろにいて、私、呼んだのに……」
そこから先は言わなかった。
「私、そんなこと――」
紬はしてない、と続けようとして、言葉が止まった。
覚えていない。
その一つだけで、足元のタイルが急に硬くなった。覚えていないことを、していないと言い切ることはできなかった。学生証に書かれた名前も、写真の中の自分も、どこからが自分のものなのか分からない。
乃愛がスマートフォンを握り直した。黒い画面が、大水槽の青で濁って見える。
「あんた、ほんとに、覚えてないの?」
紬は頷けなかった。首を振ることもできなかった。
「……分からない」
「またそれ?」
怒鳴っているわけではない。短い声だった。だから余計に、逃げ場がなかった。
アリスが一歩だけ前へ出た。
「伊織さんが見たものが、事実そのものとは限りません」
「じゃあ何」
「記憶の断片かもしれません。前後が抜けています。紬さんが先に行った理由も、振り向かなかった理由も、まだ分かりません」
「理由があれば、私たちを置いていってもいいわけ?」
アリスは黙った。
水槽の奥で魚の群れがまた回る。戻ってきたように見える。けれど、さっきと同じ魚が同じ場所にいるのかは分からない。群れ全体だけが、一つの流れのように見えている。
乃愛は紬を見ていた。きつい目だった。それでも、その次の言葉はなかなか出てこなかった。スマートフォンを握る指だけが、ケースの縁を強く押さえている。
「……もう無理。ここ、いたくない」
「乃愛ちゃん……」
「あと、腹減ったし喉渇いた」
伊織が一瞬だけ目を丸くした。
「こんな状況で?」
「こんな状況だからでしょ」
乃愛は吐き捨てるように言ったが、声にいつもの勢いはなかった。膝がわずかに揺れている。立っているだけで、身体の重さに負けそうだった。
伊織が、自分の首元に手を当てる。
「言われたら、私も水飲みたくなってきたかも」
「今まで気づいていなかっただけだと思います」
アリスはそう言って、館内図のあった方へ目を向けた。
「館内図では、正面入口の近くにミュージアムショップがあったはずです。売店なら、何か残っているかもしれません。ショップの横には非常口もありました」
「非常口って、どうせ開かないやつでしょ」
「確認はできます」
アリスの声は細いが、折れてはいなかった。
紬は大水槽から目を逸らした。ガラスに映る自分の顔が、三人の間で薄く浮かんでいる。そこに立っていると、伊織の言葉が何度も背中へ戻ってきた。
置いていった。振り向かなかった。先に行こうとしていた。
「……行こう」
三人の視線が集まった。
自分が先に行こうと言っていいのか分からなかった。けれど、この場所に立ち続けていると、伊織の見た背中が、そのまま自分の背中になってしまうようだった。指先が学生証の角を探す。薄いプラスチックの硬さだけが、そこに名前があることを教えてくる。
「ショップに?」
乃愛が聞いた。
「うん。非常口も、見たい」
乃愛は紬をしばらく見ていた。その目に、さっきまで紬を写真へ入れようとしていた時の乱暴な優しさは残っていなかった。疑いが消えたわけではない。怒りが薄れたわけでもない。それでも、乃愛自身も大水槽前に立っていることに耐えられなくなっているのだと分かった。
「……勝手に先行かないでよ」
乃愛はそう言って、アリスのスマートフォンをポケットにしまった。
「うん」
返事をした時、声は思ったより小さかった。
四人は大水槽を離れた。
展示室の青い光が背中から遠ざかっていく。通路へ入ると、床の色も、壁の白さも、急に素っ気なくなった。天井のスピーカーは沈黙していた。館内放送も、順路のライトも、今は何も言わない。
黙っている水族館の方が、かえって見られている気がした。
正面入口へ向かう通路は広かった。昼間なら来館者が行き交っていたのだろう。ベビーカー置き場、コインロッカー、記念撮影用のパネル。海の生き物たちが笑っている看板。床には、案内用の矢印が薄く貼られている。
ミュージアムショップは、その奥にあった。
貝殻の形をした看板が、入口の上に吊られていた。丸い文字の周りに、イルカとクラゲと小さな魚が描かれている。シャッターは下りていない。自動ドアは半分だけ開いたまま止まっていた。
「開いてる」
伊織が呟いた。
「開けてある、の方が正しくない?」
乃愛が言う。
誰も否定しなかった。
隙間を抜けると、水槽の気配が遠のいた。売店の中には、日焼けしたパッケージと、長く動かされていない棚の匂いが残っている。蛍光灯は半分だけ点いていて、奥の方は薄暗かった。
ぬいぐるみの棚には、丸い目をしたペンギンが並んでいた。口を開けたサメのクッション。クラゲのキーホルダー。限定、と書かれたクッキーの箱。ポストカード。クリアファイル。子ども向けの図鑑。すべてが、誰かを待ったまま置き去りにされている。
「水水」
乃愛は真っ先にレジ横の小さな冷蔵ケースへ向かった。
冷蔵ケースの電源は落ちていた。中にはペットボトルの水と、魚の絵がついたサイダーが数本残っている。
「ぬるそう……」
「飲めるか確認した方がいいです」
アリスが賞味期限を見ようとするより先に、乃愛は扉を開けた。ペットボトルを一本取り出し、蛍光灯に透かす。水は濁っていない。キャップも開いていなかった。
「飲む」
「乃愛さん、待ってください」
「死ぬ時は死ぬでしょ」
「そういう言い方はやめてください」
「じゃあ何て言えばいいの」
乃愛はキャップをねじった。未開封のリングが、ぱき、と割れる。
彼女は一口だけ飲んで、顔をしかめた。
「ぬるい……」
それでも、もう一口飲んだ。
伊織も水を受け取り、遠慮がちに口をつけた。アリスは最後にキャップの内側を確認してから、ようやく飲む。紬はペットボトルを手にしたまま、その重さを指で確かめていた。生ぬるい水がボトルの中でわずかに揺れる。
口に含むと、乾いていた身体が先に反応した。紬は目を閉じる。水そのものに味はほとんどない。けれど、飲み込むたびに、胃のあたりが自分のものだと分かる。
ここにいる。
さっき伊織が言った言葉が、水と一緒に落ちていく。
今は、みんなと一緒にいる。
写真にいなくても。
レジの奥には、小さな菓子の棚があった。魚の形をしたクッキー、海藻塩味のせんべい、缶入りキャンディ。乃愛はクッキーの箱を手に取り、賞味期限を見てから棚に戻した。
日付は、八か月前で止まっていた。
「切れてる」
「やめた方がいいですね」
「知ってる」
そう言いながら、乃愛は腹のあたりを片手で押さえた。強がっているのが分かる。伊織が棚の奥を覗き込んだ。
「あ、飴ならいけるんじゃない?」
「いけるの基準が怖いんだけど」
「個包装だし」
「そういう問題?」
アリスが缶を受け取って確認する。ふたを開けると、底に残ったキャンディが転がった。湿気で固まってはいない。透明な袋に包まれた小さな粒が、いくつか底に残っている。
「食べ過ぎなければ、大丈夫だと思います」
「アリスが言うなら大丈夫そう」
「責任は取れません」
「そこで急に逃げないでよ」
伊織が小さく笑いかけたが、その笑いは最後まで形にならなかった。彼女はすぐに紬を見て、目を逸らす。さっきの記憶が、まだ間に落ちている。キャンディの包み紙が光るたび、大水槽前の青が遠くでちらつくようだった。
紬は個包装のキャンディを一つ受け取った。袋の端を破ろうとして指が滑ると、アリスが無言で袋を開け、紬へ戻した。
「ありがとう」
「いえ」
アリスの返事は短かった。
口に入れると、レモンのほのかな甘さが舌に残った。味を確かめる前に、紬はショップの奥へ目を向ける。
棚の奥に、ガラスケースがあった。
中には、記念メダルや限定キーホルダーが並んでいる。クラゲ、ペンギン、クマノミ、マイワシ。ほかにも、メダカやヒトデをかたどったものがあった。小さな金属の輪やアクリルの板が、蛍光灯の光を鈍く返している。
紬は、クマノミのキーホルダーに目を留めた。熱帯エリアで見た魚と同じ、オレンジ色の体。白い縞。イソギンチャクの触手を模した透明な飾り。水槽の中では柔らかく泳いでいたものが、ここでは薄いアクリル板の中に閉じ込められている。
「これ、一応持っていった方がよくない?」
伊織がキャンディの缶を見下ろして言った。
「万引きじゃん」
乃愛が返す。
「閉じ込められてる側って、万引きになるのかな」
「知らない」
「袋があれば、飲み物も一緒に持てます」
アリスがレジ横を見た。
カウンターの端に、贈り物用の紙袋や包装紙を置く小さな作業台があった。昼間なら店員が土産物を包む場所だったのだろう。リボンの束、白いシール、予備の紙袋、透明な袋が種類ごとに立てられている。
未使用の袋は、口を開けたまま重ねられていた。
その奥に、一つだけ白いレジ袋が押し込まれている。
水族館のロゴが薄い水色で印刷された袋だった。持ち手だけが内側へ折り込まれていて、ほかの備品よりも皺が新しい。置き忘れというより、誰かが見えないように奥へ入れたものに見えた。
紬は作業台の下段にしゃがみ込んだ。
「これ……」
「袋?」
伊織が覗き込む。
紬は白いレジ袋を引き出した。ビニールが棚板を擦り、しゃり、と乾いた音を立てる。袋は汚れていない。むしろ、ほかの備品より最近触られたように、皺の折れ目が新しかった。
中には、小さな紙袋が四つ入っていた。
土産用の、茶色い紙袋だった。どれも手のひらに乗るくらいの大きさで、口の部分が一度だけ折られている。菓子の袋より軽い。空ではない。中で小さな金具のようなものが、かすかに鳴った。
「商品じゃないの?」
乃愛が近づく。
「売り物には見えません。誰かが、ここで包んだものみたいです」
アリスが言った。
伊織が紙袋の一つを手に取る。表には、黒いペンで文字が書かれていた。
いおり。
伊織の指が止まった。
「……私?」
声が薄くなる。
アリスが別の袋を取る。
ありす。
乃愛は、自分から残っていた袋の一つを掴んだ。
のあ。
ひらがなだった。荒い字ではない。ただ、急いで書かれたように、最後の線が強く跳ねていた。
乃愛の指先が、袋の口を潰した。
「何これ」
誰も答えられなかった。
紬は最後の紙袋を見た。ほかの三つと同じ茶色い紙袋だった。口の部分が一度だけ折られている。表には、黒いペンで文字が書かれていた。
つむぎ。
ひらがなだった。
「……誰が、書いたの」
声に出してから、紬は口を閉じた。答えがほしいのに、答えが出ることの方が怖かった。
印刷された文字ではない。学生証の「有沢紬」とも違う。誰かの手が、ペンを持って書いた名前だった。線は少し太く、最後の「ぎ」の払いだけが強く跳ねている。
「……紬ちゃんの?」
伊織が小さく言った。
紬はすぐに答えられなかった。自分の名前のはずなのに、紙袋の上にあるその三文字は、学生証よりもずっと近く見えた。誰かが、自分を呼ぶために書いた名前のようだった。
指でなぞると、紙の繊維がわずかにざらついた。
「でも、標本資料室にはなかった」
紬は言った。
「写真にも、いなかった」
「はい。だから、これは別の段階のものだと思います」
アリスは四つの紙袋をカウンターの上に並べた。
いおり。ありす。のあ。つむぎ。
文字の大きさは揃っていない。それでも、線の終わり方だけが妙に似ていた。最後の払いが強く跳ねる。急いで書いたようで、乱暴ではない。消えないように、紙へ押しつけたような字だった。
「……同じ人が書いたように見えます」
アリスが言った。
「は?」
乃愛の声が跳ねる。
「四つともです。字の癖が同じです。それと、さっきのケースの内側の文字に似ていませんか」
紬は割れたスマートフォンと、外れたピンクのケースを思い出した。その内側いっぱいに書かれていた黒い文字。
つむぎをひとりにしないで!
あの文字も、最後の線だけが強く跳ねていた気がする。急いで、強く、誰かに届くように書かれていた。
乃愛の手が、自分の紙袋から離れた。
「……覚えてない」
声が、かすかに荒れた。
「私、書いてない。こんなの、知らない」
誰もすぐには答えなかった。
袋の中身は、それぞれ違っていた。伊織の袋にはクラゲ。アリスの袋にはメダカ。乃愛の袋にはヒトデ。そして、紬の袋にはクマノミのキーホルダーが入っていた。
「前の私たちが、買ったのかな」
伊織が言った。
「買ったか、選んだか、残したか。いずれにしても、これは三人だけの記録とは違います」
アリスが答える。
四人になった後。
その言葉は、誰のものでもないまま残った。大水槽前で撮った写真とは違う。これは、今作ったものではない。誰かが前にここで選び、袋に入れ、名前を書き、隠したものだった。
伊織が自分のクラゲのキーホルダーを握る。
「じゃあ、前にも……四人でここに来たってこと?」
乃愛は、紬の紙袋から出てきたクマノミを黙って手に取っていた。裏返し、表に戻し、また裏を見る。何かを確かめるような手つきだった。
「乃愛ちゃん?」
「……知らない。私、こんなの知らない」
その言い方は、誰かに言い訳をしているようにも、自分の耳を塞いでいるようにも聞こえた。
乃愛はクマノミのキーホルダーを紬へ押しつけるように差し出した。
「持ってれば」
「私が、持ってていいの」
「知らない。あんたの名前が書いてあるんだから、あんたが持ってればいいでしょ」
言い方は乱暴だった。
乃愛の指はすぐには離れなかった。クマノミのキーホルダーを紬の手の上に置いたあとも、最後の小さな輪だけを、爪の先で押さえている。紬が受け取ると、乃愛はようやく手を引いた。
そのままヒトデのキーホルダーを紙袋へ戻そうとして、途中でやめる。袋の口が開いたまま、手の中でくしゃりと潰れた。
紬は、手のひらの中のクマノミを見た。
つむぎ。
その文字は、学生証の「有沢紬」とは違った。印刷された名前ではない。誰かの手が、ペンを持って書いた名前だった。急いで、強く、消えないように。
胸のあたりが熱くなる。
けれど、指先は冷えたままだった。
伊織は紬を見る。さっき大水槽前で向けた目とは違う。困惑はある。疑いも消えていない。そこに新しい迷いが混じっていた。
「紬ちゃん、いなかったわけじゃないのかな」
その言葉に、紬の手の中でキーホルダーがわずかに軋んだ。
救いのように聞こえた。けれど、手の中のクマノミは少しも軽くならない。いたのなら、どうして覚えていないのか。誰がこの名前を書き、どうして隠したのか。分かったことより、分からないことの方が増えていた。
乃愛が小さく舌打ちした。
「帰ろ」
「どこへですか」
「ここから絶対出る」
乃愛はショップの横を指す。
そこには、扉の上に非常口の緑の表示がある。光は点いている。扉の下から、外気のような冷たい空気は入ってこない。ただ、ショップの奥の棚よりも、その先は暗く見えた。
「非常口を確認するんですよね」
アリスが言う。
「そう」
乃愛はヒトデのキーホルダーを紙袋に戻さなかった。握ったまま歩き出す。
伊織もクラゲのキーホルダーを持っていた。アリスはメダカのキーホルダーを袋へ入れ直し、袋ごと抱えている。
紬はクマノミのキーホルダーを見た。
つむぎ。
ペンの跡が、光の角度でわずかに盛り上がって見える。指の腹でなぞると、書いた人の力がまだ残っているようだった。
この名前を書いたのは、乃愛なのかもしれない。
四人分の袋に名前を書き、キーホルダーを入れ、作業台の奥に隠した。さらに、スマートフォンのケースの内側に、つむぎをひとりにしないで、と残した。それなのに、今の乃愛は知らないと言った。
知らないと言う声は、嘘には聞こえなかった。
それが怖かった。
誰かが乃愛の字を真似たのか。乃愛が忘れているのか。それとも、今の乃愛ではない乃愛が、ここに何かを残したのか。聞きたいことは増えた。答えは何一つ増えない。口の中に残った甘さだけが、場違いに長く続いている。
紬はキーホルダーを握り、三人の後を追った。
ショップの出口近くで、乃愛が一度だけ振り返った。その視線は紬を見ていなかった。紬の手の中にある、クマノミのキーホルダーを見ていた。
「それ、絶対に無くさないで」
短い声だった。
紬は掌を閉じる。
「うん!」
キーホルダーの角が、手のひらに押しつけられる。痛いほどではない。それでも、そこにあることだけは分かった。
乃愛は非常口の前で足を止めた。
扉の上部にある緑のランプが、低く点滅している。乃愛は取っ手に手をかけた。押す前に、金属の部分がわずかに沈む。
「……ねえ」
乃愛が取っ手を握ったまま、こちらを振り返る。
「ここ、開いてる」
誰もすぐには動かなかった。
展示番号10号『お土産』
水族館のミュージアムショップには、ぬいぐるみやキーホルダー、ポストカード、お菓子など、展示そのものではない品物が並んでいます。それらは魚や水槽の一部ではありませんが、来館者がその場所にいたことを、外へ持ち帰るための小さな記録になります。同じ展示を見ても、誰が何を選ぶかは違います。忘れたくない生き物、誰かに渡したいもの、自分のために残しておきたいもの。土産物は、展示を見たあとに残る、もうひとつの記憶です。持ち帰れなかったものが、そこに残っていることもあります。




