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水槽少女展  作者: 下呂娘
第三章 水槽の外で名前を呼ぶ
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12/17

展示番号11号 『非常口、外へ続く扉』

 誰もすぐには動かなかった。


 非常口の緑色の誘導灯が、四人を上から照らしている。乃愛は取っ手に手をかけたまま、しばらく黙っていた。握った指の節だけが、灯りを受けて白く浮いている。


「……開けるよ」


 誰に許可を取るでもない声だった。


 紬は、手の中のクマノミを握り直した。小さなアクリルの角が掌に当たる。紙袋に書かれていた「つむぎ」の三文字が、まだ目の裏に残っていた。学生証の文字より頼りない。けれど、誰かが自分のために書いた名前だと分かる。


 乃愛の指に力が入り、錆びついた金具が重い音を立てて動いた。扉の隙間から、ショップとは違う冷たい空気が押し出される。


「……外?」


 伊織の声が、少しだけ明るくなった。


 扉の先にあったのは、暗い職員用通路だった。灰色のコンクリートの床にはところどころ黒い染みがあり、壁には配管がむき出しで走っている。天井の蛍光灯は一本おきに消え、奥のほうから低い機械音が聞こえていた。


 伊織は、開いた扉の向こうをしばらく見ていた。


「……まだ、外って感じじゃないね」


「でも非常口でしょ。あのバックヤードよりは絶対外に近い」


 乃愛はそう言って、扉を片手で押さえたまま通路の内側へ入った。靴底が床を踏む音が、ショップの床よりも鋭く響く。


「外に近い、かあ」


 伊織が、背後のショップと目の前の職員用通路を見比べる。


「少なくとも、戻るよりはマシ」


 吐き捨てるように言いながらも、乃愛は扉から手を離さなかった。三人が通るまで、苛立った顔でそこに立っている。


「ほら。行くよ」


 紬はクマノミを握ったまま、通路へ足を踏み入れた。


 水槽の青い照明も、ショップの蛍光灯も、ここまでは届かない。背後で非常口の扉がゆっくり閉まり、金属が擦れる音だけが長く残った。


 扉は、完全には閉まらなかった。ほんのわずかに隙間を残し、そこで止まる。


 アリスが、壁の案内表示に気づいて足を止めた。


「こっち、何か書いてあります」


 白いプレートに細い黒字で、職員用通路、機械室、倉庫、搬入口、と必要な場所だけが並んでいる。来館者用の案内板ではなかった。展示室の名前も、魚の絵も、順路を示す矢印もない。


「搬入口」


 伊織が、最後の文字を読んだ。


「そこなら、外に繋がってるんじゃない?」


「この水族館が普通ではないので、断言はできません」


 アリスが答える。


「でも、今までで一番出口っぽい」


「それは、そう思います」


「よし。採用」


 伊織が小さく頷くと、乃愛はもう歩き出していた。


「じゃあ、搬入口いこ」


「即決だね」


「ほかに行けそうな場所、ないでしょ」


 乃愛の声には相変わらず刺があった。それでも、四人の足は同じ方へ向いた。


 壁際には、清掃用のワゴンが並んでいる。モップの先は乾ききって固まり、棚には洗剤のボトル、古い段ボール、使われなくなった展示パネルが積まれていた。パネルの一枚には、笑ったイルカの絵と「また来てね!」という文字が残っている。


 伊織が小さく言った。


「こういうの見ると、本当は普通の水族館だったんだなって思う」


「今も普通でしょ。普通に超最悪な水族館」


 乃愛が言う。


 古い展示パネルの隣には、ペンギンの写真が貼られた看板も立てかけられていた。角が折れ、表面に細かな傷が走っている。白い腹と黒い背中のペンギンが、青いプールの縁に立っていた。


「ペンギンいたんだ」


 伊織が少しだけ声を上げる。


「水族館だし、いてもおかしくはありません」


「いや、ここでペンギン見られなかったの、なんか損した感じしない?」


「この状況で?」


 乃愛が眉を寄せる。


「外に出られたら、みんなで来たいなって。昼の水族館。ちゃんと人がいて、売店も開いてて、ペンギンもいて、出口も普通にあるやつ」


「二度と水族館は来ない」


 乃愛は即答した。


「ええ? でもペンギンは?」


「動画で見る」


 伊織は笑った。今度は、ごまかすための笑いではなかった。声の端に疲れは残っている。それでも、彼女は自分の足で通路を歩いていた。


 紬は、手の中のクマノミを見下ろした。


 外に出られたら。


 その言葉が、いつの間にか四人の間に出ていた。さっきまで出口があるのかも分からなかったのに、搬入口という表示を見ただけで、話す声が少し戻っている。


 伊織が振り向いた。


「外に出たらさ、まず何する?」


 最初に答えたのは、アリスだった。


「すぐに警察へ連絡すべきだと思います」


「うわ、最初から正しい」


「それから保護者への連絡、必要であれば病院です。記憶の欠落がありますから、診察を受けたほうがいいかもしれません」


「現実的すぎる」


「現実が一番大事でしょ」


 乃愛が横から言った。


「飯。風呂。動画。寝る。私はそれ」


「乃愛ちゃんも、だいぶ現実的だった」


 伊織は少し考えてから、クラゲの紙袋を抱え直した。


「私はファミレス行きたいかも」


「なんで」


「明るいし、人がいるし、ドリンクバーあるし。水が普通に飲めるって、今なら泣けると思う」


「ファミレスで泣く女子高生、普通に超迷惑だから」


「じゃあ、ポテト食べながら静かに泣くかも」


「ポテトに迷惑」


 乃愛が言い、アリスが小さく笑った。


 紬は、握りすぎていたクマノミを持ち直した。掌に汗がついている。いつからこんなに力を入れていたのか、自分でも分からなかった。


「紬ちゃんは?」


 伊織が聞いた。


「外に出たら、何したい?」


 紬は口を開いた。ファミレスでも、警察でも、病院でも、たぶん何でもよかった。四人で同じ場所にいる未来なら、何か言えるはずだった。


 帰る、という言葉だけは出てこなかった。


 どこへ。誰のところへ。制服の胸元に視線が落ちる。校章はある。学生証もある。有沢紬という名前もある。そこから先が、続かない。


「……とりあえず」


 思ったより遅れて、声が出た。


「外の空気、吸いたい」


 伊織は紬を見ていたが、すぐには何も聞かなかった。


「いいね。じゃあ、全員で外の空気吸って、それからファミレスと警察!」


「順番おかしいって」


「でも、まず空気は吸うでしょ」


「まあ、吸う」


 アリスが頷いた。


「外の空気を吸ってから警察へ行きましょう」


「アリスちゃんは、真面目だなあ」


「真面目というより、ほかに適切な手順が分からないだけです」


 紬は、三人の顔を順番に見た。


「私も、それでいい」


 思ったより自然に声が出た。


「分からないなら、分かることからで」


 三人がこちらを見る。


 紬はクマノミを握ったまま、少しだけ顎を上げた。


「外の空気を吸う。そこからで、いいと思う」


 乃愛はしばらく紬を見ていた。それから、小さく息を吐く。


「じゃあ、私もそれで」


「乃愛ちゃんは、やっぱり雑だね」


「外出てから細かく考えればいいでしょ?」


 その言い方は乱暴だったが、さっきまでより前を向いていた。


 通路は緩やかに下っていた。コンクリートの床に薄い金属板が敷かれた場所へ入ると、靴音が変わる。壁の配管は太くなり、天井には赤いランプが点いていた。消火器、工具箱、折りたたまれた台車。段ボールには、魚の餌や清掃用品のラベルが貼られている。


「こういうとこから魚とか搬入してたのかな」


 伊織が言う。


「水槽設備や餌の搬入には使われていた可能性があります」


「じゃあここ、超当たりじゃん」


 通路の角を見るたび、誰かが立っていないか探してしまう。それでも、四人の声が続いている。誰かが言い、誰かが返す。そのたびに、足音が少しずつ揃っていった。


「これで外じゃなかったら、マジ殴る」


「何を?」


「知らない。水族館」


「水族館は殴れないと思う」


 乃愛は小さく舌打ちをした。そのまま数歩進んでから、ふいに振り返る。


「あんた、持ってるよね」


 クマノミのキーホルダーのことだと、すぐに分かった。


「持ってる」


「じゃあいい」


 意味は分からなかった。それでも、乃愛の声には、さっきまでより硬いものがなかった。


 紬は掌を閉じる。


 四人で来た。


 何があったのかは、まだ分からない。誰が何を隠しているのかも、出口が本当にあるのかも分からない。それでも、ばらばらにはならなかった。名前を呼び合って、疑って、黙って、それでも同じ場所に立っている。


 足音は、一つではなかった。


 四つあった。


「……きっと、大丈夫だよ」


 伊織が言った。


 いつもの軽い声ではなかった。そのぶん、嘘には聞こえなかった。


「この先に何があっても、また別の方法探せばいいじゃん」


「簡単に言うね」


 乃愛が返す。


「でも、間違ってはいません」


 アリスが静かに続けた。


「私たちは、ここまで来ています。名前も忘れていません。お互いのことも、完全には失っていない。なら、次に何があっても、考えることはできます」


 乃愛は何か言い返そうとして、やめた。


 紬は、伊織を見た。伊織は笑ってごまかそうとはしなかった。アリスは言葉を選びながらも、誰かの後ろに隠れようとはしなかった。乃愛は苛立っていても、ひとりで先へ行こうとはしない。


 誰も、ひとりではなかった。


 伊織が頷きかけて、


 途中で止まった。


「……ねえ」


 声が、さっきより低かった。


「もしさ」


 伊織はクラゲの紙袋を抱え直した。紙の持ち手が指に食い込む。


「前にも、そう思ってたらどうする?」


「は? 急に何言ってんの」


「ここまで来た。大丈夫。まだ考えられる。四人でいればなんとかなるって」


 伊織は、通路の奥を見た。


「そう思ったことまで、忘れてるんだとしたら」


 誰も、すぐには返せなかった。


 さっきまで聞こえていた足音が止まった。機械音だけが残る。


 アリスが、ゆっくりと言った。


「可能性は、あります」


「そこは嘘でも否定してよ」


「嘘は、余計に怖くなります」


「正直すぎ」


 伊織が言う。


 アリスは目を伏せなかった。


「記憶を失っている以上、以前に何を考え、何を選んだのかは分かりません」


「じゃあ、今のこれも?」


 乃愛が言う。


「外に出たらどうするとか、ファミレス行くとか、警察とか、そういうのも、前にも話してたかもしれないってこと?」


「分かりません」


 アリスは答えた。


「でも、そうだとしても」


 紬は自分の声に、少し遅れて気づいた。三人がこちらを見る。手の中のクマノミの角が、掌に食い込んでいる。紬はそれを離さなかった。


「今、また話した」


 うまい言葉ではなかった。言い直すつもりもなかった。


「忘れてたとしても、今、もう一回ここにいる」


 伊織が目を伏せる。アリスは紙袋を持つ手に力を込め、乃愛は小さく舌打ちをした。


「……じゃあ、次は忘れないようにすればいいでしょ」


「どうやって?」


「知らない。でも、何か残せばいい。紙でも、スマホでも――」


 乃愛の声は乱暴だった。そこで終わらなかった。


「次こそ、忘れないように」


 紬は、手の中のクマノミを握ったまま頷いた。


「行こう」


 今度は、自分から言った。


 乃愛が少しだけこちらを見る。


「ひとりで、先行かないでよ」


「行かない」


 紬は答えた。


 その返事を聞いてから、乃愛は前を向いた。


 通路の突き当たりに、広い空間があった。


 天井が高くなり、床には白いラインが引かれている。片側には折りたたまれた台車が何台も並び、反対側には空のコンテナが積まれていた。壁には「搬入口」と書かれたプレートがある。塗装はところどころ剥がれ、角は黒ずんでいた。


 その奥に、大きな業務用シャッターがあった。


 横幅は、四人が並んでもまだ余るほどある。銀色の板が何段にも重なり、下端は床にぴったりとついている。ただ、右端だけがわずかに浮いていた。


 そこから、空気が漏れていた。


 紬は足を止めた。


 匂いが違う。湿ったコンクリートでも、洗剤でも、古い段ボールでもない。冷たい空気の中に、潮の匂いが混じっている。遠くで車が通るような低い音も、ほんのかすかに聞こえた。水槽の循環音ではない。施設の中で作られた音ではない。


「……外?」


 伊織が言った。


 乃愛がシャッターへ近づき、下端に指をかけようとして、すぐに無理だと分かったのか壁の操作盤を見た。赤と緑のボタンが並んでいる。ラベルには、上昇、停止、下降、と書かれていた。


「これ、押せばいいの?」


「待ってください。安全確認を――」


「外だよ」


 乃愛の声が低くなった。


 アリスは言葉を止めた。


 乃愛の指は、緑のボタンの前で止まっている。押せば開くかもしれない。押しても何も起きないかもしれない。あるいは、別の何かが始まるかもしれない。


 紬の手の中で、クマノミが滑った。シャッターの隙間から入ってくる外の空気が、足首のあたりを撫で、制服の裾をかすかに揺らす。外は、そこにある。そう思えた。思えてしまった。


「押すよ」


 乃愛が言った。


 今度も、誰も止めなかった。


 ボタンが沈む。


 一拍遅れて、天井の奥で重いモーター音が鳴った。


 シャッターが震えた。


 金属板がこすれ、低い音を立てながら、ゆっくりと上がり始める。最初に開いたのは、足元ほどの隙間だった。そこから冷たい空気が流れ込む。潮の匂いが強くなり、アスファルトが夜露を含んだ匂いも混じった。遠くの車の音が、今度ははっきり聞こえた。


「動いてる」


 伊織が呟いた。


 シャッターは、少しずつ持ち上がっていく。


 膝の高さ。腰の高さ。胸の高さ。


 外の光が見えた。


 夜明け前の薄い色だった。完全な朝ではない。空の下の方だけが白み、まだ建物の影は濃い。搬入口の外にはコンクリートのスロープが続いていて、その先のフェンスの向こうに道路らしきものが見えた。


 紬は、一歩だけ前へ出かけた。


 ――外だ。


 誰かが言ったのか、自分の中で浮かんだだけなのか、分からなかった。


 乃愛も、それに合わせるよう一歩進もうとした。


 その時、シャッターの向こうから音が届いた。


 ぱち、ぱち、ぱち、ぱち。


 拍手だった。


 四人は同時に足を止める。


 音はゆっくりだった。急かすような拍手ではない。祝うようで、迎えるようで、それなのに背中の皮膚が粟立つ。閉館後の水族館の搬入口で、人間の手が鳴っている。その事実だけで、紬の手から力が抜けかけた。


 シャッターはまだ上がっている。


 金属の音が続く。外気が流れ込む。潮の匂い、冷えたアスファルトの匂い、夜明け前の空気。それらの向こうに、ひとりの青年が立っていた。


 白いコートのようなものを着て、首から名札ケースを下げている。シャッターが上がるにつれ、顔が光の中へ出てくる。


 青年は、笑っていた。


「……誰」


 乃愛が低い声を出し、睨みつける。


 返事はすぐにはなかった。


 青年は、拍手を続けている。


 ぱち、ぱち、ぱち。


 やがて、その手が止まった。


「お見事です」


 水槽越しでも、スピーカー越しでもない。すぐそこにいる人間の声だった。


 伊織が息を呑む。


 アリスが紬の前へ半歩出る。


 乃愛は動かない。逃げるでもなく、飛びかかるでもなく、ただシャッターの向こうを睨んでいる。


 青年の視線は、三人を順に通り過ぎた。


 最後に、紬で止まる。


「本当に、お疲れ様でした」


 紬は、クマノミを握りしめた。


「有沢紬さん」


 青年は穏やかに笑っていた。

展示番号11号 『避難経路』


 水族館や博物館のような施設には、来館者が安全に外へ避難するための非常口や避難経路が設けられています。非常灯や誘導灯は、停電時や緊急時にも進む方向が分かるように作られています。一方で、施設の裏側には、職員用通路、機械室、監視室、搬入口など、普段は来館者が入らない場所もあります。扉の向こうに道が続いていても、それが必ず外へ通じているとは限りません。出口に見える場所が、誰かを外へ逃がすための道なのか、別の場所へ導くための道なのかは、開けてみるまで分からないことがあります。

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