第14話 スマホケースの裏側 『つむぎをひとりにしないで』
この話は、展示なんかじゃない。
場所の名前も、短い説明も、絶対に入らない。
これは、スマホケースの裏にあった汚い字の話。
私が何度も忘れて、何度も見つけて、そのたびに初めて見たみたいな顔をして、それでも見た瞬間に分かってしまった言葉の話。
誰かに言ったんじゃない。
私が、私に書いたんだ。
最初に目を覚ましたのは、いつも私だった。
大水槽の前。頬のすぐ横で青い光が揺れていて、床は思ったより硬く、起き上がろうとした手のひらに冷たい感触が戻ってきた。水の音が遠くから続いている。展示室の水音は綺麗に整えられていて、耳に触れるたび、ここが安全な場所なのだと嘘をつく。空調の風は首筋を冷やすのに、口の中には湿った匂いが残っている。水と消毒液と、誰もいない床の匂い。
知らない場所だった。
そう思ったはずなのに、身体だけが先に怯えていた。喉の奥が狭くなって、息を吸うたびに胸の内側がきしむ。何も覚えていないのに、怖がり方だけは知っていた。
少し離れた場所に、三人が倒れていた。
その時の私は、まだ名前を知らない。伊織も、アリスも、紬も、知らないはずだった。ただ、床に倒れている三人を見た瞬間、三人だと思った。知らない少女が三人、ではなく、三人。数だけが、間違えようのないものとして胸に落ちてきた。
私が、声をかければよかった。
起きて、と言えばよかった。大丈夫かと聞けばよかった。誰かいる、と叫べばよかった。喉は動いた。舌も、唇も、ちゃんとそこにある。声が出せない理由なんて、何一つなかった。
それでも私は、何も言えなかった。
自分だけが先に目覚めていることが怖かった。声をかけた瞬間、何かが始まってしまう気がした。三人のうち誰かが目を開けて、私を見る。その目に何かを求められたら、私はきっと何も返せない。知らない場所で、知らない人の前で、最初の一言を自分から出すことが、どうしてもできなかった。
水槽の中で魚が動いた。
小さな銀色が青い光の中で向きを変え、床に落ちた光まで一緒に揺れる。私は膝を抱えたまま、その光を見ていた。誰かが先に起きてくれればいいと思った。誰かが声を出してくれれば、私はそれに答えるだけで済む。
そのうち、三人のうちの一人が身じろぎした。私は反射的に息を殺し、まだ何も知らないふりをするみたいに、青い影の中へ身を引いた。
たぶん、私はいつもそうだった。
先に気づく。
怖くなる。
声をかけられない。
そのくせ、あとから一番大きな声で怒る。
どうして、いつも忘れなくちゃならないんだろう。
そう思った瞬間、大水槽の青い光が割れた。
床に揺れていた水の影が消え、搬入口の白線が足元へ戻ってくる。開いたシャッターの向こうには、朝になりきらない灰色の外があり、湿った風がコンクリートの匂いを運んでいた。水槽の前にいたはずの私は、もうそこにはいなかった。
目の前には、伸びかけて、触れる寸前で止まった紬の手があった。
今の手だった。
さっきの手だった。
何度も払ってきた手だった。
私は、その手を見て全部思い出した。
全部といっても、きれいに並んだ記憶じゃない。何回目に何をして、誰がどこで泣いたのか、そんなふうには戻ってこない。もっと汚くて、濁っていて、底に沈んでいたものが一気に巻き上がる水槽みたいだった。同じ場所が何度も光る。同じ声が何度も遠くで鳴る。同じ名前が、違う温度で私の中に戻ってくる。
つむぎ。
その音だけが、何度も喉の奥に引っかかった。
最初に戻ってきたのは、扉を閉めた感触だった。
非常口の白い扉だったのか、バックヤードの重い扉だったのか、そこまでは分からない。戻ってきたのは場所の名前ではなく、取っ手を引いた時の腕の重さと、ゴムのパッキンが空気を押し出す音だった。
後ろから足音が近づいてくる。
軽い足音。ためらいながら、それでも必死に追いかけてくる音。
「待って!」
そう聞こえた気がした。
違う回では、「ごめんなさい」だったかもしれない。
もっと別の回では、私の名前を呼んでいた。
「待って、乃愛ちゃん!」
私は振り返らなかった。
閉まる直前、隙間の向こうで紬の顔が見えた。泣いていたのか、怒っていたのか、もう分からない。分からないのに、手の感触だけは残っている。重い扉の取っ手を引いた時の力。閉まったあとの静けさ。自分の呼吸だけが、やけに近く聞こえた。
それをやったのは、私だった。
何度も。
別の記憶では、私は紬を怒鳴っていた。
「あんた、最初から知ってたんでしょ!」
声が裏返っていた。怒っているのに、喉の奥は震えている。怒りは便利だった。怖いと言うより、傷ついたと言うより、ずっと楽だった。相手が悪いことにしてしまえば、自分が震えている理由を見なくて済む。
紬は何も言えなかった。
言えなかったのか、言わなかったのか、分からない。私には、黙っていることすら嘘に見えた。困った顔も、怯えた目も、私たちと同じように何も知らないふりに見えた。今なら分かる。私は、紬の顔を見ていなかった。三人とは違う場所に立っているものとして、あの子を見ようとしていた。
紬が何を知っていたかなんて、あの時の私には関係なかった。
一緒に怖がっていると思っていた。助けてくれたと思っていた。私たちと同じように、水族館に閉じ込められた子だと思っていた。その全部が急に、用意されたものに見えた。売店で選んだ土産も、名前を呼んだことも、誰かを待ったことも、出口へ進ませるための仕組みだったのではないかと思った。
そう思った瞬間、紬の目が見られなくなった。
その時だったのか、少し後だったのかは分からない。私の手の中には、ピンク色のケースがあった。いつ外れたのか、どこで拾ったのかも覚えていない。ただ、指が裏側に触れて、そこに汚い字を見つけた。
つむぎをひとりにしないで!
意味が分からなかった。どうして私の持ち物に、紬の名前が書いてあるのか分からなかった。誰が書いたのかも分からない。私に何をさせようとしているのかも分からない。
けれど、その時の私は、それをお願いだとは思わなかった。
警告にも見えなかった。
むしろ、命令に見えた。
紬を疑うな。紬だけは置いていくな。紬を選べ。そう言われているみたいだった。誰に。分からない。水族館に。見えない誰かに。もしかしたら、紬自身に。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
ああ、やっぱり、と私は思った。
最初から、私たちにそうさせるつもりだったんだ。
その怖さを、私は紬に向けた。
怖くなったのに、怖いと言えなかった。
「来ないで」
だから、そう言った。
伸びてきた手を払った。指先が私の袖に触れる前だった。触られたくなかった。触られたら、まだ仲間だと思ってしまう気がした。仲間だと思ったら、また裏切られる気がした。裏切られたかどうかなんて、本当はまだ何も分かっていなかったのに、分からないまま一番ひどい方を選んだ。
伊織が私の後ろで息を呑んだ。
アリスが「待ってください」と言った。
私は聞かなかった。
紬はそこに立っていた。水槽の青い光が横から当たって、頬が変に白く見えた。私たちの間にあった距離は、たいしたことがなかった。数歩戻れば届く距離だった。私は戻らなかった。伊織も動けなかった。アリスも判断できなかった。
三人で進んだ。
置いていった。
背後で、紬が何かを叫んだ。
最初は名前を呼ばれたのだと思った。乃愛ちゃん、と聞こえた気がした。伊織の名前だったかもしれない。アリスの名前だったかもしれない。水槽の音と、自分の足音と、喉の奥で鳴っている息のせいで、言葉はぐちゃぐちゃに潰れていた。
それでも、最後の一つだけは聞こえた。
「お願い、ひとりにしないで!」
足が止まりかけた。
止まりかけただけだった。
私は振り返らなかった。
紬が私たちを置いていったんじゃない。
私が先に歩き、二人がついてきて、紬だけがそこに残った。
そのあとで、私はもう一度ケースの裏側を見た。
どこで見つけたのかは、はっきりしない。非常口の前だったかもしれない。バックヤードの隅だったかもしれない。手の中には、外れたピンク色のケースだけがあって、そこに同じ文字があった。
つむぎをひとりにしないで!
さっきまで命令に見えていた文字が、その時だけは違って見えた。
膝から力が抜けた。喉が詰まって、息が入ってこなかった。誰かにそうしろと言われたのではない。紬を選べと命令されたのでもない。
これは、私が私に書いた言葉だった。
疑うな、とは書けなかった。
信じろ、とも書けなかった。
ただ、ひとりにするなとだけ書いた。
なのに私は、さっきその手を払った。
その子を置いてきた。
私が、またやったんだ。
また紬をひとりにしたんだ。
その記憶が戻った時、喉の奥に鉄の味がした。唇を噛んだわけでもないのに、血の味だけが広がった。
何度もあった。
何回目かの水族館で、私は同じように疑った。同じように怒った。同じように紬の手を払った。少し違う言葉で、少し違う場所で、少し違う顔をして、結局同じことをした。
「あんた、あっち側なんでしょ」
そう言った回もあった。
「騙してたんじゃん」
そう吐き捨てた回もあった。
紬が「違う」と言ったのか、「分からない」と言ったのか、今はもう混ざってしまっている。彼女の声はいつも小さく、途中で途切れた。私はその続きを待たなかった。待つことが怖かった。待ってしまったら、信じる理由を探してしまう。信じる理由を見つけたあとでまた壊れたら、今度こそ立っていられない気がした。
私は、強いふりをした。
強いふりをして、一番弱い選択をした。
そのあとに戻ってきたのが、ミュージアムショップだった。
蛍光灯の白い光。閉店後の売店みたいに静かな棚。水族館のロゴが入った紙袋。レジ横に並んだキーホルダー。クマノミ、ヒトデ、ペンギン、イルカ。どれも小さくて、安っぽくて、持っているだけで外へ帰れるような気がした。そんなわけがないと分かっているのに、私はその中から一つを選んでいた。
ある記憶の私は、クマノミを手に取っていた。
別の記憶では、ヒトデを握っていた。
紙袋には名前を書いていた。
ペン先が袋のざらついた紙に引っかかり、インクが少し滲む。いおり。ありす。のあ。つむぎ。全部ひらがなだった。
漢字が分からなかった。
伊織の漢字も、アリスの漢字も、紬の漢字も、私は知らなかった。漢字を知る機会があったのかもしれない。けれど、紙袋に書こうとすると、いつも音だけが残った。呼ぶ時の口の形だけが残って、字にしようとすると、そこから先が白くなる。
だから、私は毎回ひらがなで書いた。
いおり。
ありす。
のあ。
つむぎ。
正しい名前を残せたわけじゃない。漢字も、学校も、家も、何も残せなかった。それでも、何も書かないよりはましだと思った。音だけでも残っていれば、次の私が誰かを呼べるかもしれない。忘れても、疑っても、怖くなっても、声に出すための形だけは残るかもしれない。
つむぎ。
その三文字だけは、書くたびに手が止まった。
あの子の名前を、私はいつも正しく書けなかった。知っていたはずの回があっても、忘れていた。忘れたまま、ひらがなだけを残した。頼りない字だった。子どもが持ち物に名前を書くみたいな、何の証明にもならない字だった。
それでも、次の私に届いてほしかった。
知らない漢字の代わりに、忘れてしまう私がぎりぎり持っていられた、あの子の名前だった。
記憶はそこで終わらない。
水族館のどこかで、私は毎回ケースの裏側を見つけていた。ケースだけが外れて落ちていることもあった。ピンク色のケースは、最初はただの持ち物だった。外へ連絡できない、役に立たない、いらないもの。
その裏側には、いつも文字があった。
つむぎをひとりにしないで!
最初は、その意味を間違えた。
紬を疑う理由にした。
次に見た時には、もう遅かった。
紬の手を払ったあとだった。紬を置いていったあとだった。だから私は、そのたびに書き足した。
最初は鉛筆だった。
どこかの作業台に残っていた短い鉛筆。芯は丸くなっていて、ケースの内側にはうまく乗らなかった。プラスチックの表面を滑って、薄い灰色の線だけが残った。読めるように何度もなぞった。手が震えて、つの字が歪んだ。む、の線が重なりすぎて黒くなった。
次はシャーペンだったかな。
芯がすぐ折れた。折れた芯の粉が指につき、ケースの内側で潰れて、字の途中が汚く黒ずんだ。私はそれでも書いた。薄くてもいいから、次の私が読めればいいと思った。次の私という言葉が、その時の私にはもうおかしかった。次なんか来てほしくないのに、来ることだけは分かっていた。
次は油性ペンを使った。
インクの匂いが鼻の奥に刺さった。太すぎるペン先で、細い文字は書けなかった。ひらがなの丸みが潰れ、びっくりマークの点が滲んだ。綺麗に書きたかったわけじゃない。消えないようにしたかった。水で濡れても、擦れても、誰かが隠しても、私自身が忘れても、残るようにしたかった。
最後の方には、書くものがなかった。
私は爪で書いた。
ケースの内側を、何度も何度も引っかいた。最初は線にもならなかった。爪の先が白く削れて、指に嫌な熱が溜まった。プラスチックの粉が皮膚にくっつき、爪の間に入って痛かった。それでもやめなかった。文字なのか傷なのか分からない線を、同じ形になるまでなぞった。
記憶は消えるのに、傷だけは残った。私が忘れても、ケースの内側だけは、前の私を覚えていた。
つむぎをひとりにしないで!
その文字を見るたび、私は最初に間違えた。誰かに命令されているみたいに感じて、紬を疑う理由にした。
次に見た時には、いつも遅かった。
もう手を払ったあとだった。もう置いていったあとだった。もう紬の顔を見られなくなったあとだった。
だから、そのたびに書き足した。
信じろ、と書けなかった。疑うな、とも書けなかった。怖くなるな、怒るな、間違えるな、そんな強いことは一つも書けなかった。
私には、そんなことを言う資格がなかった。
疑ったから。
怖くなったから。
怒ったから。
手を払ったから。
置いていったから。
だから、残せたのはそれだけだった。
疑ってもいい。怖くなってもいい。怒ってもいい。紬が何者なのか分からなくなってもいい。分からなくなったままでもいいから、ひとりにだけはするな。
次の私へ向けた、お願いだった。
泣きながら、爪を削りながら、次こそ間違えないようにと書いたお願いだった。
なのに、私は忘れた。
毎回忘れた。
忘れて、また初めてその文字を見た。
初めて見た顔をして、同じ場所で息が止まった。
私、何回も見た。
毎回、初めて見るの。
知らない字みたいに見えるのに、見た瞬間、分かる。ああ、またやったんだって。また、つむぎをひとりにしたんだって。
何回書いたんだろう。
何回、あの子の名前をなぞったんだろう。
何回、紬の手を払って、そのあとで同じ手で文字を書いたんだろう。
分からない。
もう、分からない。
記憶の中の私は、何度もケースを握って泣いていた。誰もいないバックヤードで、暗い展示室の隅で、ミュージアムショップの床で、非常口の前で。泣き方も毎回違った。声を殺した時もある。息がうまく吸えなくなった時もある。怒りが残っていて、泣きながらケースを壁に叩きつけた時もある。
それでも最後には拾った。
拾って、字をなぞった。
つむぎをひとりにしないで!
その文字だけが、私より先に覚えていた。
私が忘れても、ケースの内側だけは忘れなかった。
また、別の断片が戻る。
私は紬と向かい合っていた。
彼女は何も持っていなかった。クマノミも、紙袋も、カードケースも、何も見えなかった。両手だけが前にあって、何かを掴み損ねたみたいに中途半端に開いていた。
「あんたのせいでしょ」
私は言った。
言った瞬間、自分の舌を引き抜きたくなった。
紬のせいじゃないと、どこかで分かっていたのかもしれない。分かっていても止まらなかった。怖さは一度口から出ると、怒りの形で増えていく。言えば言うほど自分が正しい気がして、正しい気がするほど相手の顔が見えなくなる。
紬は、泣かなかった。
泣かなかったことまで、私は責めた。
「泣きもしないんだ」
最低だった。
本当に、最低だった。
別の断片では、紬は泣いていた。
それでも私は責めた。
泣いても責める。泣かなくても責める。何をしても疑う。何を言っても信じない。そんな状態で、仲間だなんて言えるわけがなかった。四人で出口へ行けるわけがなかった。
壊したのは私だった。
毎回、最初に壊したのは私だった。
記憶の水が一気に引いた。
最後に戻ってきたのは、搬入口の床だった。白線の手前。湿った風。コンクリートの匂い。私の目の前で止まった、紬の手。
今の手だった。
さっきの手だった。
何度も払ってきた手だった。
私は動けなかった。喉が狭くなって、息が変な音になった。目の奥が熱くなり、視界の端が滲む。泣くな、といつもの私なら思う。泣いたって何も変わらないし、泣いたから許されるわけでもない。そう思ったはずなのに、目の奥から勝手に熱いものが落ちてきた。
紬は、私を見ていた。
伊織も、アリスも、何が起きたのか分からない顔をしていた。
私は、アリスから預かっていた黒いスマートフォンを見下ろした。
そこにピンク色のケースはない。ケースの裏側に重なっていた文字も、爪で削った傷も、当然どこにもない。これは私のスマートフォンではないのだから、あるはずがなかった。
それなのに、指は勝手に背面をなぞっていた。
ケースの内側を探すみたいに。黒く潰れた線や、爪で削った傷や、何度もなぞった文字の感触だけが、まだ指先に残っていた。
「私だった」
声が掠れた。
「あれ、私が書いたんだ」
アリスが息を呑む気配がした。
「スマホケースの文字のことですか」
私は頷いた。首を動かすだけで、喉の奥が痛かった。
「それだけじゃない」
言葉を出した瞬間、また涙が落ちた。頬を伝うのが嫌だった。拭いたいのに、手を動かせなかった。動かしたら、紬の手まで遠くなる気がした。
「私だった」
もう一度言った。
「毎回、私が壊した」
紬の顔が少し歪んだ。
私は謝りたかった。ごめん、と言いたかった。言えばいい。たった三文字だ。普段なら、そんなの言えば終わると思っていたかもしれない。言いたくないから言わないだけで、言うこと自体は難しくないと思っていたかもしれない。
違った。
喉の奥に引っかかった謝罪は、重すぎて出てこなかった。
謝れば、紬に許すかどうかを選ばせることになる。泣きながら謝れば、泣いている自分を見せることになる。許されたいわけじゃない。帳消しにしたいわけでもない。何度も後悔して、何度も書き直して、何度も忘れて、また同じことをした。その全部を、たった一つの言葉で紬の前に置くことが、どうしてもできなかった。
「つむぎだけが、私たちと違うって分かると、怖くなった」
私は、言えるところから言った。
「最初から騙されてたんだって思った。こわがってたことも、助けてくれたことも、一緒に歩いたことも、全部、こっちを信じさせるためだったんじゃないかって思った」
クマノミの小さなオレンジ色が、紬の手の中で揺れている。
「つむぎのこと、見られなくなった」
喉が詰まる。
「それで、置いていった」
伊織が小さく息を呑んだ。たぶん、あの子の中にあった記憶が、どこかでひっくり返ったのだと思う。紬が私たちを置いていったんじゃない。少なくとも、そうじゃない回があった。私が先に歩き、伊織とアリスを連れて、紬を置いていった回があった。
「最後には、いつも後悔した」
私の声はもう、ほとんど自分のものじゃなかった。
「遅かった。いつも、遅かった」
紬は何も言わない。
何も言えないのだと思った。私が言っていることは、紬にとっても刃物みたいなものだった。自分が何度も置いていかれたと、今ここで知らされている。しかも、それを言っているのは、今も目の前にいる私だ。
私は自分の手を見た。
爪は割れていない。血も出ていない。記憶の中の爪は何度も削れていた。ケースの内側を引っかいた感触が、今も爪の下に残っている。プラスチックの粉。油性ペンの匂い。鉛筆の薄い線。シャーペンの折れた芯。
「私、何回も見た」
言葉の途中で声が震えた。
「毎回、初めて見るの。知らない字みたいに見えるのに、見た瞬間、分かる」
目の前が滲んで、紬の輪郭がぼやける。
「ああ、またやったんだって」
息がうまく吸えなかった。
「また、つむぎをひとりにしたんだって」
そこで、声が崩れた。
泣きたくなんかなかった。泣く資格なんかないと思った。私が泣いたら、まるで私がかわいそうみたいになる。かわいそうなのは紬の方だ。何度も疑われて、何度も置いていかれて、何度も手を払われたのは、紬の方だ。
それでも涙は止まらなかった。
喉が鳴った。息を吸うたびに、胸の奥が擦れた。恥ずかしいとか、悔しいとか、そんなものを考える余裕もなかった。泣いても何も戻らない。書いた文字も、払った手も、閉めた扉も消えない。そう分かっているのに、身体が勝手に壊れていく。
私は、紬の手を見た。
さっき私の袖へ伸びかけて、途中で止まった手。
私は一歩近づいた。
紬が怯えたらどうしようと思った。手を引かれたら、それは当然だと思った。触らない方がいいのかもしれない。私が触れたら、また痛くするかもしれない。
それでも、このままにしておけなかった。
私は、紬の手を取った。
冷たかった。
生きている手だった。
細くて、震えていて、何度も私が払ってきた手だった。
私はその手を、今度は離さなかった。
「つむぎ!」
名前を呼んだ瞬間、胸の奥がまた崩れた。
有沢紬じゃない。
架空の存在じゃない。
作られた記憶じゃない。
漢字も知らないまま、何度もひらがなで書いた名前。紙袋にも、スマホケースの裏にも、泣きながらなぞった名前。次の私へ残した、たった一つのお願いの中にあった名前。
「今度は、置いていかない!」
声は震えていた。綺麗な約束にはならなかった。そんなことを言える立場じゃないことも分かっていた。約束なんて、忘れたら終わりだ。私は何度も忘れてきた。
それでも、今の私は覚えている。
この手の冷たさを。
払った時の軽さを。
ケースの内側に爪を立てた痛みを。
つむぎをひとりにしないで、と泣きながら書いた自分を。
私は、紬の手を握ったまま、もう一度言った。
「絶対に、ひとりにしない!」
有沢紬の手は、今度こそ誰にも払われなかった。
この話だけ、水族館の豆知識はなし。
スマホケースの裏は、外から見えない場所。
普通は、誰かに読ませるための場所じゃない。
だからそこに書いた言葉は、誰かへの命令じゃなくて、忘れてしまう、次の私へのお願い。
つむぎをひとりにしないで!
信じろ、じゃない。
疑うな、でもない。
怖くなっても、怒っても、それでもひとりにはするな。
それだけを、たぶん私は、何度も書きました。
――楠乃愛




