第5話 契約1
うさぎは廃ビルの入り口から、外に飛び出した。
頭の中は蒸気機関のように暴走し、ただただこの場所から逃げ出したかった。
うさぎの唯一動いた本能は、廃ビルが危険なのだと知らせていた。だから、廃ビルの外に逃げた。
廃ビルの外に逃げれば、この病気も、あの化け物も、歪な灰色の月も、全部なくなると思ったから。
「なんでぇ……!? どうしてぇッ……!!」
廃ビルの外には二車線の道路があり、人のまばらな繁華街が広がっているはずだった。
しかし、そこにあるのはうさぎの全く知らない光景だった。
正面にはボロボロの高層ビルが立ち並び、道路は大災害の後のように、ひび割れ穴が空いていた。うさぎの視界には、いまだ空気中を漂う灰が見え、空には割れた月が浮かんでいる。
廃ビルの敷地の外にでても、この異常な現象は続いていた。
逃げ場をなくしたうさぎは自分の両手を見た。肌は青白くなり、静脈が浮き出ている。
うさぎはその場で嘔吐した。頭はガンガンと痛み続け、気を失ってしまいそうだった。夢でも何でもなく、現実が壊れてしまった。
どこに逃げれば安全なのか、と考え続けたうさぎは、ひなたの事に思い至った。
ひなただったら助けてくれるかもしれない。今から戻れば……。
そして、ひなたと別れた最後の瞬間を思い出した。
自分は逃げたのだ。
真っ先に逃げた。脱兎の如く、新しい友達を置いて、逃げ出した。
恐怖でいっぱいなのに、こんな時まで羞恥心が浮かんでくる。ひなたは「逃げて」と言ってくれた。友達を裏切るみたいに置き去りにしたうさぎを、憎んでも怒ってもいなかった。
ひなたは最後まで、うさぎの事を考えてくれた。それなのに……。
「アアアアァァッー……! オアァァァッー!」
化け物の鳴き声だ。
うさぎは飛び上がり、その場から逃げだした。
見れば崩れた道路の方角に筋肉の化け物が集まり始めている。1頭、2頭、3頭……次々と数が集まり、何かを探すようにうろついている。
うさぎは口を押さえて、自分の泣いている声が漏れないようにした。
もう、駄目だ。本当におしまいなんだ。
最後の最後まで、私は友達を置いて逃げる臆病者だった。
うさぎは廃ビルの壁にもたれて、声を殺して泣いた。
立ち上がって、移動する勇気も、化け物に立ち向かう勇気もなかった。
廃ビルの床は、ガラスや建材の破片が散らばっている。それを踏み潰す音がした。
小さな、スニーカーが新雪を踏むような、軽快で楽し気な足音が近づいてくる。
うさぎは恐怖のあまり這いつくばって逃げようとした。それを通せんぼするみたいに、小さなスニーカーが立ちふさがった。
「お前さぁ。友達見捨てて、一人で逃げて、恥ずかしくないわけ?」
うさぎは涙を流しながら、顔をあげた。
目の前には、黒いパーカーを着て、茶色のハーフカーゴパンツをはいた小学生くらいの男の子が立っていた。
男の子はツンツンにとんがった黒髪を揺らし、コンビニ前の不良みたいにしゃがんだ。そして、意地悪な顔で笑った。
「おれがその根性、叩き直してやるよ」
少年の指が伸びて来て、うさぎの額を弾いた。
「痛ッ……」
デコピンだった。
「お前、おれと契約して魔法少女になれよ」
*******
ひなたは何かを答える間もなく、目の前の銀髪の青年に助け起こされた。
「見せろ」
銀髪の青年に指で触れられると、背中の焼けるような痛みは治り、肺を蝕んでいたむず痒さも消え去った。目の前で起きていることが信じられなかった。
青年の周辺だけは灰が消え、清らかな空気が流れているようだった。
「あ、ありがとう。あなたは……いったい?」
ひなたが尋ねると、青年は瞬きをした。間近で見る睫毛は長く、銀色の髪と白い肌は異国の王子のようだ。
「俺は、マーキュリーという。契約を司る者だ」
それだけ言って、マーキュリーはひなたを凝視した。何か説明が続くのかと思いきや、マーキュリーは黙ってしまった。どうやら自己紹介はそれで終わりのようだ。
「あ、あの……」
外国の方ですか? と変な質問をしそうになり、ひなたは首を振った。緊張と混乱で訳が分からなくなっている。
まずはこちらも名乗るべきだろうか。それよりもここから逃げる方法を聞くべきだろうか。ひなたは何を聞くべきか迷い、目をぐるぐるさせていた。
マーキュリーはそんなひなたを凝視したまま、薄い唇を開いた。伝承を語る詩人のような、低く美しい声がそこから生まれた。
「俺と契約して、魔法少女にならないか」
「う˝ぇッ……!?」
思わず汚い声を上げてしまった。ひなたは目を見開いて驚いた。
命を助けてもらったこと、奇妙な病気を治してもらったこと、それには感謝しているが、この状況は何なのだ?
絶体絶命の危機を少女漫画のヒーローみたいな男の人に助けてもらって、今度は女児アニメめいた契約を迫られている。
ひなたは自分が騙されやすいと考えていたが、他者の悪意には人一倍嗅覚が鋭かった。
ところが、このマーキュリーという男の人からは、善意も悪意も感じとれない。
まるで、虫か石でも相手にしているかのようだ。
「け、契約? 魔法少女……? あの、言ってることが分からないんですけど!」
ひなたはマーキュリーから距離をとった。
契約なんて言葉を軽々しく扱う相手には、注意しないといけない。
そして、自分がマーキュリーに対して、好意のような警戒のような複雑な感情を抱いてしまっていることを悟られたくなかった。
いくら危機の最中でも、顔の良い銀髪ポニテ大学生に命を救われて、ドギマギしない訳がないのだ。
マーキュリーはその場に跪いて、肩を抱くみたいにひなたに顔を近づけてきた。腹に響く、聞いていて心地の良い声がひなたの耳元を揺さぶる。
「君には、魔法少女の適正がある。君は、だれかを助ける勇敢な心を持っている」
「うおぉッ! 急に近づかないでッ!」ひなたはマーキュリーの低音から逃れるように、彼を押しやった。「あ、そそそうだ、うさぎッ……! あの、友達が下の階にいるんです!」
「心配しなくていい。その娘は無事だ」
マーキュリーは端正な顔を指で押しやられながらも、冷静だった。
ひなたはうさぎが安全だと知って、ほっとした。このマーキュリーという男はよく分からないが、ひなたを喜ばすためだけに嘘をつくような男ではないだろう。
ひなたは押しやったことを謝った。
「ご、ごめんなさい……。でも、どうして私なんですか? まさか選ばれちゃった感じ、ですか……? ていうか、これって断れるの?」
マーキュリーは恭しく頷いた。
「ああ。君の自由意志を尊重する」
「そうなんだ。えっと……魔法少女になるメリットは?」
「……魔法少女は、すごい」
「すごい」
「そうだ」
「デメリットは?」
「……最悪の場合、君は、交通事故で死ぬ」
「交通事故」
「魔法少女にならないか?」
「えっと、今の内容で契約するのはちょっと……」
マーキュリーの瞳の奥に、深い悲しみが刻まれた。
北極圏から見る星空の煌めきが、遠く寂しげな青い光を放っているかのようだった。
マーキュリーにはどこか放っておけない雰囲気があった。ひなたは思わず声をかけた。
「じゃ、じゃあ、えっと、魔法少女になれば、人助けをできますか?」
「部分的には、そうだ」
「魔法少女は善行?」
「そうだ」
「私の友達や家族に危険が及んだりはない?」
「……部分的には、そうだ」
「なら、やってみようかな……」
マーキュリーの瞳に眩い星の光が灯った。
「俺と契約して、魔法少女になってくれるか?」
「ええ、はい。じゃあ、やってみます。……よろしくお願いします」
マーキュリーは頷き、掌をひなたの頭の上に添えた。淡い光の奔流が、ひなたの中に注ぎ込まれていく。
ひなたは温かなものが自分の全身を満たし、それによって身体中の神経が目覚めていくのを感じた。全身で何かが開き、そこから光の経路が生まれていく。
「君は、強い魔法少女になる」




