第1章ー21 「吉報か暗雲か」
視界が横転する。
何度もぐるぐると周り、背中にキツイ衝撃が走る。地面にたたきつけられ、本日二度目となる強制的な呼吸停止に思考が追い付かない。一体何が起こったというのか、そのことばかり考える。
激しくせき込む。肺の空気が無駄に無くなり、息が苦しくなる。背中がマズイ痛みを湛えている。もう少し動かしたらどこかの骨が折れてしまいそうな感覚だ。
――攻撃⁉
そこでようやく、そこまで思考が到達する。急いで身体を起こし体勢を整える。息ができないことなど関係ない。あれだけの攻撃を放てる相手だ、ここで寝っ転がっていたら本当に死ぬ。今度こそ、背骨が折れる。
そこで初めて、俺は自分がログハウスの外に叩き出されてしまっていることに気が付いた。背中を襲った衝撃は、ログハウスのドアを突き破った時のものだ。俺たちの上ってきた階段の出口は、リビングの床にある。そしてそれはちょうど、玄関から見ての直線上の位置。俺は、階段を上った直後に後ろから殴り飛ばされたのだ。
息ができないことを隠すように、身体を沈ませる。いつでも飛び掛かれる体勢を整え、相手の姿を拝見する。
端的に言うならば、そこには大熊がいた。
身長は優に三メートルは超えるだろう。どうやって家の中に入ってきたのか疑問なほどの巨体は、目につく部分全てが分厚い筋肉に覆われている。その表面を這う浅黒い皮膚には、大小、加えて年代もさまざまな傷が走っている。
それは切り傷だったり、肉が抉られた跡だったり、皮膚が割かれた跡だったりと多種多様。どう考えても、人間だけを相手にした者の身体ではない。顔は深いしわが刻まれた悪人面。不敵な笑みを浮かべており、そのしわだけが年齢を測るために使える材料だ。
顔だけを見れば、おそらくは七十代後半。しかし白髪となったはずの髪が、まるで剣山のように伸び天を刺している。見れば見るほど、年齢が解らなくなってくる。
そして、瞬間的に悟った。
この熊男には、勝てない。
「反応は、まずまず……っといったところか?」
「……いきなり人殴り飛ばしといて、それは無いんじゃないの?」
ニタリと、男が凶悪な笑みを浮かべる。首筋を、死神の鎌が撫でる。
「よく受け身を取った。大抵の奴はあれで背骨が折れる」
「なんてことすんだよ! こっちも折れかけたわ‼」
「ガッハハハ! だろうな。さあ、次はどうする? 小僧」
瞳の色が、はっきりと戦闘色に染まったのが解った。
これは、挑発だ。俺が飛び込んで行くかどうかを試しているのだ。あの熊男に勝てないことはもう解っている。それを踏まえてどう行動するかを見ているんだ。
「……どうした、来んのか?」
「見え見えの罠にかかるまで馬鹿じゃない」
直感だが、熊男は俺を本気で殺す気はない。そうしたかったのなら、初撃で俺は死んでる。吹き飛ばされてではなく、その場で折れて真っ二つになって。それに、ここまで騒ぎを起こしてミレーナが出てこないことも不自然だ。おそらくは、ミレーナ公認の襲撃だろう。
だとすれば、熊男の狙いは俺の実力を見るためか、あるいは単なる暇つぶしか。どっちにしても、俺を試していることには変わりないと思う。なら、この罠に引っ掛かってはだめだ。
「そうか…………来ないか。来ないならこっちから行くぞぉぉぉぉぉぉおおおお‼」
「――ッ⁉」
そう叫ぶや否や、熊男の足元が大きく陥没。それが踏み込みのせいで生まれたものだと認識した時には、巨体はあり得ない速度を持って俺へと肉薄していた。
その間、わずか一秒。相手との距離、現在約一メートル。
「ふんッッ!」
巨大な拳が空気を裂く。反射的に身体をそらす。異常な風切り音を響かせた拳は、数舜前まで俺の頭があった場所を通過する。頭の代わりに大気が弾け、衝撃波にも似た爆音が轟いた。
それだけでは終わらない。恐ろしいほどの勢いを活用し、すぐに次のパンチが襲う。
右、左、右、左アッパー……からのエルボー。一発当たれば絶命必須な暴力の嵐を、なんとか紙一重で躱す。避けてもなお、数舜前から分岐した俺の未来が脳内で展開され、冷や汗が止まることはない。
考えるな、思い出すな、いまこのときを凌がなきゃ俺は確実に死ぬ。悠長に物事を考えている暇なんてない。避けろ、避けろ、どうせ反撃なんてできないのだ。反撃など捨てろ。集中力の続く限り避けろ。
そのとき、
「距離を取って‼」
雨宮の声が、鼓膜に届いた。考えることもせず、熊男がパンチを空振りした瞬間に全力で後退する。またオドを練る量をミスったのか、肉体強化をした足に鋭い痛みが走った。
「真上!」
その声とともに、一瞬だけ視線を上へと向ける。同時に、口角が上がる。視界の片隅にそれをとらえ、ああそうかと納得する。
「サンキュー、雨宮!」
右腕を突き上げる。大きく広げた掌に、硬い感触が走った。すぐさま落とさぬように握りしめる。手に吸い付くように冷たく、それでいて心地よい感触。これほど安心し、気持ちが落ち着く武器はひとつしか知らない。
鞘を握りしめ、いっきに引き抜く。その鞘も墨を塗ったような黒。放り投げ、切っ先を熊男に向ける。
刀身から柄まで、何もかもが黒曜石のような黒。それは弱く光を反射し、反射した陽光は薄い紫色。石のような材質だが、それ実は世界樹という化け物じみた材質を削って造られた刀。この世に一本しかないと言われた、規格外の木刀。
「ずいぶんと不思議な剣じゃないか。お前の武器か」
「一応ね。すこぶる硬いただの木の棒だ」
「ハッ、あほ抜かせ。世界樹がただの棒っ切れなわけねぇだろうがぁぁあ‼」
黒刀を構える。突進してくる熊男に回避行動をとりながら、刀スキルを発動する。構え慣れた体勢で、刀にオドを通す。大気中のマナが干渉し、刀身が青く光を放ち始める。
構えは下段。刃の方を上に向けた、独特の構え。発動するのは、振り下ろされるパンチを受け流しながら攻撃を叩き込めるカウンター技。
一撃でいい。それだけ当てたら、欲張らずに退散だ。
巨体が迫る。巨腕がうなる。その距離はみるみる近づき、俺を吹き飛ばさんと空気を押しつぶす。
狙うは、肘から上の上腕三頭筋。そこを切り裂き、一気に走り抜ける。
まだ、まだだ、もう少し。
まだ遠い、まだ避けられる。俺に当たるギリギリまで――、
――いま‼
刀が、リンッと鋭い音を放ち、急加速する。人の力ではまず不可能な加速度は、腕を振るためだけに全振りした肉体強化だ。スピードは問題ない。切れ味の方は、青い光が保証してくれている。
時間間隔が引き延ばされる。密度が極限まで小さくなった世界。刀と巨腕が、コマ送りのように断続的な動きをする。
単発系刀スキル《風馬》。斜め上に斬り上げる、反動が最も少ない刀スキルのひとつ。肉体強化の反動が少ないこれなら、斬った後すぐに距離を取れる。ゲームの時の動きに引っ張られることはない。
だが、
鈍重に、口元が大きく開かれる。
気合の塊が、熊男の口から放たれる。
《――――セイッ‼》
俺には、そんな風に聞こえた。
――……あっ。
灰色の世界で、そのことをただ茫然と認識する。ああ、外れたと、確定した未来を半ば他人事のように理解した。
俺を狙っていたはずの腕が、急速に軌道を変えていた。
刀は、狙い通りの輝跡を描く。
それは寸分の狂いもないほど精密に制御した、修行の成果と断言できるもの。行悪な破壊力を持った青い刀身が、空気すらも斬り刻む。
狙い通りの軌道をなぞり、狙い通りの威力と速度で、
空を切った。
途端に、思考速度が現実へと強制的に叩き落される。そうかと思えば今度は、とてつもない量の土塊が、顔を身体中を叩く。熊男が地面を殴ったのだ。だが、身体は無事。そして熊男は俺の目と鼻の先にいる。俺はちょうど、熊男の腕の間に挟まりこんでいるような状態だ。
土煙の中、隠し切れない巨体のシルエットが目にはハッキリと映っている。無理に体勢を変えたせいなのか、その姿は全身隙だらけ。
熊男はまだ動かない。だが、すぐに動き出す。捕まる前に、安全に脱出するには――。
「――ッらあぁ‼」
とっさに飛び出した足。足が狙うのは、熊男の顎。下から蹴り上げれば、巨人だろうと脳震盪で動けなくなる。
「――残念、そりゃあまずい」
視界が、逆転していた。
気が付けば、身体がもう一度中を舞っていた。地面が頭上に来ている。それなのに、身体が落下する気配はない。足には万力で締め付けられるような圧迫感と痛み。
そうか、俺はつかまれているのか。
「ああいうときは、隙を作るための攻撃はむしろ悪手だ。それから、素手で戦う相手に素手ってのもいただけねぇ。なぜオレが素手だったかよく考えろ。戦闘中も、そのことに気を配れ」
グイっと身体が持ち上げられ、目の前にあった顔がそう言って凶悪に笑った。不覚にも、何も言えない。こんな状況に、思考が付いていけない。
「おい、ミレーナ。お前の弟子にしちゃあ、ちっとばかしおざなりじゃあないか?」
「そう厳しいことを言うな。この二人はまだ一か月しか経っていない。それにしては、ずいぶんと戦えるようになったと思うが?」
「なに⁉ 一か月か! ガッハハハ、なるほど、それなら上々か」
壊れた扉から、いつの間にかミレーナが顔を出していた。ルナも雨宮も心配そうに見つめてはいたが、心配していたのは命とは別の物だろう。現に、今はほっとした表情が浮かんでいるのがよく見てとれる。
もちろん、逆さで。
「それより、少しは場所を選んだらどうだ。玄関に穴が開いたぞ」
「おっとすまん、すまん。直してやるからちょっと待ってろ」
「…………降ろしてくれません?」
俺を放置したまま話は続く。必然的に、俺はふたりの会話が終わるのを待つしかない。ルナと雨宮が笑いをこらえている。俺はそれから、面白くなさそうに目をそらすことしかできない。
「ときに、ガルダ。君の目的は達成できたか? できたなら帰れ」
「そう怒るな。まずはこの扉を直す。部品は余っているか? ああ、そうだ、直すあいだに菓子でも出せ」
「落ちているものでも食べていろ死にはしない」
「悪かった。いい土産は持ってきてるから許せ。な?」
ミレーナが無言で室内へと姿を消す。謝りながらそれに追従する、ガルダと呼ばれた熊男。歩くたびに、身体が激しく揺さぶられる。そして、雨宮とルナも室内へと入っていく。おれも、半ば強制的にガルダに連れられることとなる。
もちろん、逆さで。
◇◆
どう考えても外見に不釣り合いな部屋数を内蔵するログハウスのとある一室。応接間と呼ばれるそこには、現在、熊男――もといガルダと名乗る大男が来客用のソファーに腰かけている。
少し身体が傾くたびにソファーが嫌な音を立て、なぜか俺まで冷や冷やとする。そして、来客用に出されているのはお茶のみ。本当に茶菓子は用意していない。
「まず、お前たち二人にははじめまして、になるか」
その言葉に、二人同時に頷く。それを確認し、ニタリと凶悪な笑みを浮かべて茶菓子をつかみ、口に放り込む。ちなみにそれは、ガルダ本人が持参したものだ。
「オレの名はさっき聞いた通りだ。ガルダ、一応『冒険者ギルド セルシオ支部』のギルドマスターだ。信ぴょう性は、オレの横にいる奴が保証してる」
隣に立っている人物に目を向ける。彼女は笑い、小さくこちらに手を振る。
その女性とは、レーナだった。
よそ行きの服を着ているのか、ギルド内の制服ではなくもっとしっかりとした造りのものを身にまとっている。どちらかと言えば戦闘の色が濃いか。それは、この場所に来るからこそなのだろう。
こちらも会釈を返し、ガルダへと視線を戻す。この一瞬の間に、皿に乗ったお菓子はなくなっていた。
「で、結局は何の用だ。手紙ではもったいぶって教えなかっただろう。まさか、私の弟子たちをからかいに来ただけではあるまい」
「もちろんだとも。流石に、そんなつまらん理由で内容を隠したりはせん。また半殺しなど、たまったもんじゃない」
「「「⁉」」」
俺、雨宮、ルナの視線が一斉にミレーナの方を向く。ミレーナが呆れたようにため息をつき、心外だとでも言いたげな表情を浮かべる。
「真に受けるな。何があっても君たちにそんなことはしない。若気の至りだ」
「…………半殺しにはしたんですね」
「…………まぁ……数十年前に……一度」
室内が一瞬、静まり返った。
「「数、十年……?」」
あっ、と気が付いたような表情のルナに、そういうことかと納得するガルダとレーナ。そして、盛大に置いてきぼりをくらう俺たち二人。
いまのは、聞き違いではなかろうか。思わずそう考えてしまう。
少し赤面しながら発せられた肯定の言葉。しかし申し訳ないが、俺はそれとはまったく別の部分に食いついてしまった。
「うん? なんだミレーナ、言ってなかったのか。そいつは人間のナリしてるが、立派なエルフ族だ」
ハーフだがな、とミレーナが不貞腐れた様子で追加説明を加える。それは、自身がエルフであると公言したも同然。久しぶりの異世界ファンタジーに、自分で口を挟んだにもかかわらず言葉が続かない。
そう言えば、だいぶ前の「若いとは良いな」云々の発言の真意は、もしかしてそういうことだったのか。なるほど確かに、それだけ生きていれば、俺たちなんてとてつもなく若く感じるという感覚も十分に納得なのだが……。
「こいつはな、こんな見た目だが中身は御年――」
「もう一度半殺しにされたいか? 少しはデリカシーという言葉を覚えろ」
そいつは失敬と、ガルダは口を閉じる。もうこれ以上その話題について語るつもりはないようだ。ミレーナのこめかみにも、なぜだか血管マークが浮かび上がっているようにすら錯覚する。
「さてと、ふざけるのはこれくらいにして――」
その途端、
一瞬で、周りの空気が乾燥する。チリチリとでもいう擬音語がピッタリなほどのプレッシャーが、防御をすり抜け乱暴に身体の内側をなでる。
「〝迷宮〟が見つかった」
刺し殺されるような雰囲気を、跳ね上がった心臓は知覚していたようだった。
◇◆ ◇◆ ◇◆
この世界には、〝迷宮〟と呼ばれる場所が存在する。ゲームの用語で言えば『ダンジョン』大多数が想像する通り、中にはモンスターがはびこり、ボスモンスターが存在し宝を守っている。ボスを倒せば、その宝が手に入るというどこかで聞いたことのあるものだ。
そんな超常現象を平然と認める空間が、この世界には存在する。そして厄介なことに、放っておくと『迷宮』は拡大を続ける。よって、中の〝核〟を早急に破壊しなければ厄災の元となるのだ。
「しかし、なぜそんな話を持ってきた。それは騎士団の仕事だろう?」
「無論、騎士団が出るつもりだ。お前たちも、騎士くらいは見たことがあるだろう?」
ガルダの問いに、晴香は樹と同時に頷く。騎士とは、その名から想像する通り、王国を守るのが仕事の軍隊だ。過去に、樹と自分を助けてくれたあの金髪青年も騎士団の人間に当たる。
「あれに何人か欠番が出た。こっちで何かあったらしく、人員補充もせずそのまま挑むらしい」
「ずいぶんといい加減だな。あの騎士団がそんなことをするものか?」
「オレも最初は耳を疑った。だが、理由を聞いて納得よ。負傷したのが荷運びの連中だったそうだ。それもこっちで雇った」
これも、ミレーナからの抗議で訊いたことの中に入っていた。
騎士団は、戦う方面を担当する戦闘部隊(通称前衛)と、食料や機材を運ぶ後方支援隊に分かれている。しかしここは精鋭が集まるセルシオだ。今回は、こちらの地理に詳しい冒険者をこっちで雇ったらしい。
それに加えて、今回は少し特殊な状況らしい。
何でも、十分に腕の立つものを選んだのだが、何らかの形で彼らの内数人が負傷。だが、そもそも最初の段階ですでに若干の飽和状態だったらしく、むしろ数人減ったことで適性数に収まった。そして現在に至る、という流れらしい。
つまり、人員の欠損の話をわざわざ持ってきたということは……。
「お前たち全員、この後が予想できただろう。俺の力で、何人かはねじ込める」
「「…………」」
「強制はしねぇ。どうせやらされるのは荷運びだとしても、普通ならいい経験になるって言うんだが……」
ガルダが、言葉を切る。
「今回はちと、迷宮が異質らしいからな」
〝異質〟その言葉の意味を、この場にいる全員が――少なくとも晴香自身は理解できなかった。
◇◆
歩き慣れた木の床、ミレーナの自室に続く長い廊下を、微かにきしませながら晴香は歩く。手に持っているのは、とある魔術を発動する場合に用いる計算式。
魔術は感覚的側面もかなりの割合を占めるが、行っているのは脳内での演算に過ぎない。それに、晴香は自身が持っている科学の知識を補助として埋め込んでいるのだ。実際は、この数式だってこれ単体では何の力もない。いわゆる、暗示に使う小道具のような位置づけだ。
故に、これがなくても魔術は発動する。元々感覚的なものなのだ。究極的なことを言えば、自身が納得するならそれでいい。だが、それでは不十分なのだ。完全な感情任せは、感情の起伏によって魔術が暴走をすることを容認していることと同義だ。そんなことを、ミレーナは、何より晴香が許せるわけがない。
だからこそ、数式を用いている。数式は字面以上の意味を持たない、逆に言えば、そこには感情の混ざる隙は一分もない。書かれていることだけが全てなのだから。感情を一切排除した道具が、計算式というものなのだから。
今回のものは、計算ミスや数式の使用ミスはないはずだ。それに、いくつかアレンジも加えてある。論理には破綻がないことは確認済みだ。文系の自分にしては、だいぶいい出来だと思う。
ほっと息をつく。ひとまずやらなければならないことを終え、心に余裕ができる。
余裕ができると、晴香の思考は決まってあの話へと向けられる。
――神谷くん、どうするんだろう。
いつしか、晴香の思考は遥か彼方――、
あの時へと、さかのぼっていた。
◇◆
『異質、か……どんなところがだ?』
異質、その言葉の意味を、ミレーナはガルダに問うた。それを受け、どこまで話していいものかと迷う素振りを見せたものの、結局ガルダはすべて話したのだった。
迷宮には、瘴気と呼ばれる毒素が充満している。それは呼吸によって体内へと入り、臓器を侵食していく有害な物らしい。
ガルダの話によると、その毒素が異様に薄いらしい。なにも装備をつけなくても平気なほどに。
そして、魔獣の種類。
迷宮には、地上から入り込んだ魔獣が住み着くことが多々ある。なぜなら、迷宮が吸い取っているのは魔獣の生命エネルギーなのだ。それによって、迷宮は拡大を続ける。迷宮が住む場所を提供し、魔獣が核の守護を担う。まさに、持ちつもたれずといった関係だ。その魔獣が、本来ならばあり得ない種類なのだという。
地域によって、魔獣の種類は異なる。それは、現地で魔獣を調達するという迷宮の特性上故だ。それにもかかわらず、今回の迷宮に生息する魔獣の種類が、どう考えてもこの地域にいるものではなかった。雪国にしか存在しない種族までもがエンカウントしたのだ。
故に、異質。何が起こるのか解らないという意味でだ。
ミレーナの反応は、後ろ向きだった。まだ、晴香たちには早いんじゃないかと、そうハッキリ告げて。
だが、
「行かせてください」
横から聞こえた言葉の意味を、神谷 樹の思考を理解するのに少し戸惑った。
たったいま、まだ早いと告げられたばかりなのに。誰が見ても、行かない方が吉であることは明白なのに。それでも、樹は行くと言ったのだ。
『行く。一人でも』
春香の問いかけにそう答えた。理由を聞いても、まだ言えないと口をつぐむ。ミレーナまでもが諭しても、樹が譲ることはなかった。
『…………ひとまず、お前さんの意見は解った。あとはまぁ、ミレーナと相談してくれ。期限は、三日後だ』
◇◆
あのとき、樹が何を思っていたのかは解らない。昔からそのあたりのことを話さないことはよくあった。そしてそれは、決まって樹にも確証がない時ばかり。つまり今回も、明確が理由がないということだろうか。
だとしたら、なにが樹をそこまでさせているのだろう。
そんなことを考えているうちに、扉の前へたどり着く。少し前から気が付いていたが、どうやら少しだけ扉が開いているようだ。開いた扉の隙間から、部屋の光が漏れ出している。
――それを言ったら、この世界の言葉を話してる時点で不自然なんですけどね。
ノックしようと手を伸ばすと、そんな声が聞こえた。声は、聞き覚えがありすぎるもの。どうやら、樹が先に来ていたようだ。それならばと、少し身体が後退する。
本来ならば、時を改めてもう一度来るのが常識だろう。ましてや、聞き耳を立てることなど褒められた行為じゃない。
それでも、
解っているはずなのに、いけないことだと自覚しているはずなのに、動くことができなかった。罪悪感を抱きながらも、聞き耳を立てずにはいられなかった。
――さっきから思っていたが、君は何が気になっているんだ? これだけ忠告しても譲らないとは、それほどのものがあるのか?
――……はい。どうしても、向こうの世界に戻る手掛かりが欲しいんです。そのためには、自分で行くのが一番早い。
――ハルカには、言っていないだろう?
――いっても仕方ないでしょ。
ドクンと、心臓がひときわ強く跳ねたのが解った。本人にしたらあまり大したことのない気持ちなのかもしれない。それでも、春香にとっては十分にショックなことだった。
言っても仕方がない。それはつまり、端から晴香には期待していないということ。それを聞かせたところで、何の得もないということ。
考えずには、いられなかった。
自分は、雨宮晴香という存在は、樹にとっていったい何だったのかと。
これまでの態度は、頼むと言ってくれた言葉は、
全部嘘だったのかと。
「………………ッ」
自分が今どんな気持ちなのか、よく解らなかった。
悲しいのか、怒っているのか。色んな感情がごちゃ混ぜになっていて、判別がつかない。唯一解っていたことは、自分が、唇を血が出るかと思ったほどに噛みしめているということだった。
――それより、訊きたいことがあるんです。
――……何かな。
そして、
――俺たちの、寿命についてです。
樹があのとき言った言葉は、いまでも思い出す。
壊れたスピーカーのように、いまでも時々木霊している。




