第53話 神殿の野望
一日遅延しまして申し訳ありません。
主人公→宮廷召喚術師→主人公の視点となります。
扱いづらいと思っていたドレイグ・フォームではあったのだが。
コツをつかめば、界樹の化身であることは、さほど難しいことでは無かった。
この雑草もどきは少し斜め上の例外だが、植物とは本来、一度根付いた場所から動かないものだ。
つまり、究極の引きこもりであり、思い起こせば、俺はもともと、そっち方面には希有な資質を持っていたはずだ。
母さんの再婚以降、あれこれとあって、そんな余裕が無かったわけだが、俺は久方ぶりに引きこもりモードに入った。
どうも、傍から見ると呆けているようにも見えるのか、以前に俺の部屋にノックも無しに入ってきて、これを目撃した母さんは呆れつつ、半ば引いていたようだった。
俺としてはある種の瞑想状態だと思っているのだが、そのあたりの主観の相違については、特に気にしていない。
自意識は保ちつつ雑念を払い、フラットな精神状態のままでいると、何かが噛み合ったような感触を覚えた。
それは、俺が六番目の化身たるドレイグ・フォームを自分のものとした瞬間だった。
「ほほう、見事なものじゃな。初代などは結構な修行を経て、それを体得したようじゃが。貴様もそうした修行の経験があると見える」
それを察知したらしい聖双角から、ノインの感心したような思念の呟きが伝わってきたわけだが、生まれつきの資質だと返答するのも面倒な精神状態だったので、そのまま放置することにした。
「まぁ、妾が時空魔法と闇魔法で補助すると言っても、これからの主体が貴様である事には変わりが無いからの。界樹の手綱は、しっかりと握ってもらわねばな」
そんな聖双角は、俺をサポートする位置に陣取っているのだが、その体勢が何と言うか、いささか問題のある状態である。
〈使い魔〉として俺をフォローするガノンの『眼』には、どっかりと胡座をかいた筋骨逞しい聖双角の、その膝の間に抱え込まれるように、中性的な樹木の妖精とも見えるドレイグ・フォームが座っている光景が映っている。
制御用の魔法具であるベルトが一つしか無いので、こんな格好でベルトを共有せざるを得ず、少し落ち着かないものがある。
もっとも、変身前の格好は落ち着かないどころではなかったのだ。
一つしかないベルトを二人で使うため、俺の背中に成長した姿のノインが密着した姿勢になり、二つの脂肪の塊が、押しつぶされることに抗議するかのような弾力を伝えてくる感触には、さすがに平然としてはいられなかった。
俺が瞑想状態に入ったのも、それが一つの原因だったわけだ。
もっとも、結果としては偶然にも正解へと辿り着くこととなったので、世の中、何がさいわいするか分からないものだ。
さて、ドレイグ・フォームを完全に掌握した俺は、龍華なる人為的な魔法生物――正確には、その失敗作の因子を持つ、ブラーシュ男爵夫人の身体へと触手を伸ばした。
光を全く反射しない闇色の肌に、鋭い棘がびっしりと生えている彼女の身体は、数千年もの間、歪みを蓄積してきた魔法的因子が、言うなれば隔世遺伝のように顕在化したものだ。
いかな界樹とは言え、これへの特効薬は持ち合わせていない。
唯一の方法としては、この因子を除去するしかないのだが、彼女の身体に封じられた格好となったこれは、いったん外へと出れば、龍毒と言われる、恐るべき瘴気へと変じてしまうのだ。
作業は慎重の上にも慎重を期して行われねばならない。
万が一の事があった場合には、ノインが時空魔法で時間を巻き戻して対処する段取りだが、その手段は一回しか使えない上に、かなり限定的な範囲でしかないと明言されている。
それでも対処できない事態が発生した場合は、闇魔法でブラーシュ男爵夫人ごと龍毒を封じ――それも極めて短時間しか持たないそうだが――その間に亜空間〈ビブリオ〉へと転移させることになっている。
そこまでの準備を整えた上で、俺は伸ばした触手を、シャルロッテちゃんの時と同じようにナノマシンレベルに微細化させて、慎重に闇色の肌へと接触させた。
だが、そこで意外にも強靱な抵抗によって、触手の侵入は遮られる。
「その肌は一種の結界でもあるようじゃの。まぁ、そうでなくては、今まで歪んだ因子を封じてはおられんじゃろう」
ノインの、いかにも納得したかのような思念が伝わってきた。
ならば、と俺はさらに触手を微細化した。
単位にするとナノメートルの千分の一であるピコメートル級といったところだろうか。
俺達の世界でいう、一番小さな原子――水素原子が0.1ナノメートルだから、それよりも百分の一も微細化したことになる。
ここまで来ると、他の〈使い魔〉を全て還した状態でも魔力の消費量が半端ではないが、補助魔法具であるベルトのおかげもあって、何とか結界を無事に透過することに成功した。
と同時に、その触手からイメージの奔流とでもいうべきものが伝わってくる。
結界の中へ魔法的な接触を行った為に、ブラーシュ男爵夫人の記憶とリンクしてしまったようだ。
彼女にとって最も幸せな時期でもある、物心ついてから幼女時代までを両親とともに過ごした記憶。
多感な時期を迎える頃、突然に降りかかった母親の病死という不幸。
そして、それが引き金となったかのように歪んだ因子の顕在化が始まる。
むろん、彼女自身も苦しんだわけだが、異形と化していく愛娘を目の当たりにした父親の狂乱ぶりは筆舌に尽くせぬものがあったようだ。
この時、ある意味では当然だろうが、先代の男爵は娘の治癒を神殿に求めたのだ。
むろん、彼女の病は神殿の治癒魔法で治るものでは無かったわけだが、神殿側は寄進が足りぬからと称して、さらなる財貨を要求したようだ。
かくして、先祖代々の家宝や資産、宮廷における地位や領土すら神殿に引き渡した結果、アンベルクでも屈指の精強を謳われた騎士団を擁するブラーシュ男爵領は急速に衰退していくことになる。
その心労が祟ったのか、失意と無念の中で先代ブラーシュ男爵は亡くなり、完全な異形と化したクラウディアが爵位を引き継いだのだ。
当時、十六にも満たない年齢で、そんな父親の死や、異形と化していく自身の苦悩を乗り越えた彼女は、これこそが真の貴族とも言うべき存在であっただろう。
その強靱な精神に、俺は敬服せざるを得なかった。
ちなみにこの時期にガイナス導師と知己になったようだが、いかなAクラス冒険者といえども、オムー文明における魔導学者の失敗を遠因とする、クラウディアの疾患には為す術もなかったのだ。
だが、その縁が巡り巡って、〈装魔の勇者〉たる俺が彼女を癒やすべく、こうしてここにいることになる。
彼女の記憶に触れ、言わば追体験した形になった俺にとって、先代ブラーシュ男爵や、クラウディアの苦悩はもはや他人事とは思えないものになっていた。
そして、俺――ドレイグ・フォームとなった〈装魔の勇者〉は、ブラーシュ男爵家に降りかかった災難を癒やす、そのとば口に立っているのだ。
(ここからだ)
俺達の世界でも、重金属や放射性物質で汚染された土壌を植物によって修復浄化する、いわゆるファイトレメディエーションが研究されているわけだが、界樹には、それの魔法版とも言うべき能力がある。
透過させた触手によって、歪んだ因子を少しずつ吸収し、体内に生成した結界の、貯蔵組織のような部分に転移させるのだ。
あとは、その貯蔵組織を封印結晶化させて、亜空間〈ビブリオ〉の石碑――神鋼で囲った陣に仕舞い込む段取りだ。
ただし、言うほど簡単な作業では無い。
具体的な例を挙げるならば、利き手とは逆の手を使って、箸で納豆を一粒ずつ摘まむようなものだと言えば、これに近いだろうか。
少しでも間違うと、界樹といえどもただでは済まない。
龍毒は究極上位種にとっても致命的なシロモノなのだ。
薄氷を踏むような思いで、俺はその作業を開始した。
この時、俺もノインも龍毒という、とてつもなく大きな要素に気を取られて、ある可能性――いや、一つの事実を見逃していた。
そして、それに最初に気づいたのはノインだった。
「むぅ。よく考えれば当然じゃな」
「どうした。つか、話しかけるんじゃない。気が散るだろうが!」
一つの因子を貯蔵組織に転移した直後の、キリの良いタイミングだったので良かったが、これが違う過程だったら危うく操作を間違ったかもしれない。
思念による会話で、思わず叱責してしまったが、続くノインの言葉に俺は青くなった。
いや、ドレイグ・フォームは青々としたカラーリングなので、その表現は色々と突っ込まれそうだが、それはともかく、どうしてその可能性に思い至らなかったのか、俺は頭を抱えたくなった。
万が一を考えて、人気の無い山奥へと場所を移動した事は間違っていない筈だ。
だが、そんな場所は、魔物の出現率が高いということを考慮すべきだったのだ。
「この気配は猪鬼か。まぁ、数は多いし、上位種も混じっておるのがちと厄介じゃが、妾や貴様ならば相手にもならんな。――いつもなら、という前提があるが」
そう、この龍毒の浄化作業は、途中でたやすく中断や再開ができるようなものでは無い。
つまり、これが終わるまで俺もノインもまともに動けないのだ。
かくして、聖双角と界樹の二つの究極上位種は、猪鬼達がわらわらと沸いて出てくるのを黙って見ているしか無かったのだった。
◇◆◇
宮殿において私に割り当てられた部屋、つまり、宮廷召喚術師の執務室は、召喚魔法関連の貴重な文献や魔法具があることから、これまで余人の立ち入りを認めてはこなかった。
従って、マチアスやバルテルといった召喚術師以外の人間がこの部屋に入ったのは、セリアが初めてだろう。
その初めて招き入れた人間が、よりによって監史であったという事実には、我ながら皮肉めいた運命を感じざるを得ない。
「と言う事は、普段、ここにおられるのはエレオノーラ様お一人ということですか」
なんとなく立ち尽くした風情で、セリアは周囲を見回している。
「そうね。侍女の立ち入りも禁じているから、少し散らかっているかもしれないけど、楽にしてちょうだい」
「……少しぃ??」
執務席に腰を下ろしつつ、そう言った私の耳に、セリアの憮然としたような声が聞こえた。
「何か言ったかしら?」
「いえ、何でもありません」
作業効率の観点から床へ置いた品々を見やりつつ、セリアは溜息をついたようだった。
そう言えば、この部屋を訪れたマチアスも似たような溜息をつくわけだが、私の天才的な閃きによる配置の妙には誰しも同じ感慨を持つのだろう。
そのセリアは、気を取り直すかのように軽く頭を振り、それらの品々を器用な足さばきで回避しつつ、私の執務席の前までくると、懐から羊皮紙を取りだし机の上に置いた。
どうやら、伝書鳩のようだ。
「先ほど、ヴェルナー卿から連絡がありました。結論から言いますが、オリヴァー卿一行は、無事にブラーシュ男爵領に到着したそうです」
「あら? ずいぶんと早いのね。一角獣でも使わないと、難しいと思うけど」
「経過については、文書をご覧下さい。途中で出くわした魔物が……」
「なんですって?」
私は咄嗟に腰を浮かせかけ、そう言えば無事に到着した旨を先に聞かされていたことを思い出して、再び腰を下ろした。
そんな私を見やって、セリアがぼそっと呟いた。
「マチアス卿にアドバイスを頂いておいて正解でした」
「え?」
「いえ、何でもありません。それで、話を戻しますが……」
何事かをスルーされたような気もするが、まずは、オリヴァー卿の件が優先だ。
「細かい経緯は文書を見て頂くとして、やはり、コウイチなる若者を員数外としたのは誤りであったと、ヴェルナー卿も見ておいでのようですね。〈七大の勇者〉までの高位魔法や身体能力は無いようですが、ヴェルナー卿によれば、彼の感覚には常人離れしたところがあるとのことです」
「感覚?」
「例えば、見えない筈の位置にあるものを、どうも把握しているような動きを見せたとか」
それを聞いて、私はふと別の事を思い出した。
「見えない筈の……。そう言えば、先日に宮殿を訪れた時、〈黒の騎士団〉の動きを知っていたかのように振る舞ったそうね」
「はい。宰相付きとなっている同僚から聞いた話や、彼を目撃した侍女の話を統合しますと、彼を捕らえるべく、隠形を駆使して待ち構えていた団員達の、その裏をかくような経路を進んで〈紫の騎士団〉の専用領域まで辿り着いたようです」
「専用領域……ね。素直に縄張りとでも言えばよいのに」
誉れ高き〈七大の騎士団〉の行動様式が、幼い頃の私が住んでいたような、貧民街にたむろする連中の振る舞いと相似したものであるという事実は、私としても呆れてしまうしかない。
まぁ、私がとやかく言う筋合いのものではないので、私は先を促した。
「それで、〈紫の騎士団〉の縄張り――いえ、専用領域で、コウイチは親衛隊を制圧したのだそうね」
「はい。関係者の記憶がどうにも曖昧なので、正確なところはわかりませんが、三十人はいた親衛隊を、正面から一人で制圧したようです。これも目撃した侍女の話を統合した内容になりますが、体術ではなく、衣服から生えた鞭のようなものと、水魔法か何かを使ったようです」
「その鞭はともかく、水魔法はあり得ないわ。コウイチにそんな資質が欠片でもあれば、〈見者の水晶〉が見逃す筈がないもの」
あの巨大な水晶玉は、触れた人間の資質を、その顕在化の有無にかかわらず輝きとして映し出す貴重な魔法具なのだ。
コウイチに水魔法の資質があるならば、見逃すことなく青の輝きを放ったであろう。
つまり、その侍女が目撃したものは、コウイチが駆使した魔法ではあり得ない。
だからといって、見間違いなどということもなかろう。
仮にも監史たるセリアが証言として採用した目撃談である。
その信頼度には間違いは無い筈だ。
そうなると、答えはひとつしかない。
今更言うまでも無く、彼は召喚術師であって、異界の存在を使役する能力を持つ。
つまり、その水魔法を始めとしての諸々は、彼が召喚した召喚獣――いや、使役獣によるものだ。
多種多様な種族を召喚して見せたものの、どれもが卑小に過ぎ、例の小鬼討伐で示した情けない結末も相まって、落ちこぼれの烙印を押されたに等しいコウイチだが、マチアスなどが指摘するように、その判断は早計だったようだ。
極めて特殊な形態ながら、彼が示したものは使役獣の能力を駆使した結果だろう。
〈七大の勇者〉ほどの派手さはないものの――いや、むしろ、それゆえにこそ敵に回すと厄介な能力であるようだ。
私はここで、神殿長たるディートハルトが口にしていた〈装魔の勇者〉や、〈魔を鎧いし者〉なる言葉を思い出した。
「装魔……か。あの大きさなら、装備の中に潜ませる事も不可能じゃないわね」
手乗り文鳥ほどの飛龍もどきや、ハムスター程度の剣牙狼もどきを思い浮かべて私は独りごちた。
あの大鬼もどきなどは少し難しいだろうが、装魔とは、つまり、そのような形態で能力を発揮するものと見て間違いなかろう。
「いや、それだけじゃないわね」
たしか、あの大鬼もどきには五本の角があった。
マチアスによれば、それは、プレニツァで発見された石碑にも記された神鬼なる存在の特徴でもあるようだ。
そして、同じ特徴を持つ存在が、いつぞやの鷲獅子騒ぎの場所となった中央市場において大衆から目撃されている。
情報が十分でない為に断言はできないが、おそらく両者には何らかの関係があるはずだ。
つまり、神殿長が警戒していたのは、その辺りだろうか。
私は、それらの情報と推論をセリアに説明した。
ジークベルト将軍の意向を汲んだとは言え、仮にも監史たる彼女がこちらに肩入れする為の条件として、情報の共有については念入りな契約を結んだ事項の一つである。
「あのコウイチという若者が……そうなのですか」
「まだ確定したわけじゃないから、報告は押さえてもらえるかしら」
「監史は、そのような曖昧な報告は致しませんよ」
「助かるわ」
私は本音混じりに安堵の息を吐くと、ここで軽く首を傾げた。
「だとしても、ディーハルトの動きにも解せないところがあるのよね。この件について、国王にも報告せずに、神殿独自で対応しようとしているようにも見えるけど」
「これは報告ではなく、単なる噂話になりますが……」
そんな私にセリアが言いにくそうに口を開いた。
「その、〈禍神の使徒〉の襲来は、〈七大の勇者〉の力を持ってしても、国家存亡の危機には違い無いと言われています」
その点は私個人も否定できない。
〈七大の勇者〉を召喚し、手元に置く形となったアンベルクはともかくとして、他の国家の中には滅亡するところもあるだろう。
いや、その伝説級である災害規模から言えば、アンベルクとて安泰とは言えない筈なのだ。
「そうね。国家は滅ぶかもしれないけど、人々は生き残る。多かれ少なかれ、その為に私達は動いているのだから」
「それです」
「はい?」
「国家が滅び、人々が生き残る状況をこそ、神殿は望んでいるという噂です」
「な……」
「そして、生き残った人々に対し、新たな秩序を神殿主導で構築するのだそうで。最終的にはいくつかの国家であったところをまとめ、神権体制の帝国を築く……などと言う根も葉もない噂を、神殿付きの監史から聞いたことがあります」
まあ、そんな荒唐無稽な話では、確かに噂の域を一歩も出ないだろう。
私は一笑に付そうとして、そして、失敗した。
もし、万が一にも、そのような事を真面目に企む連中が存在するとすれば、それは楽観的などと言うレベルではない。狂信的な、お花畑とでも形容すべきだろう。
だが、私はそんな輩に、いやと言うほど心当たりがあるのだ。
また、そうした連中は、たいていは自分の尺度でもってしか考えないものだ。
ひとつの可能性として、〈七大の勇者〉の凄まじい能力を目の当たりにした連中が、このままでは勝ち過ぎる、既存国家が残るような事になっても困る、などと考えたらどうなるか。
他愛もない妄想ではあるのだが、そんな妄想に真剣に取り組む連中がいるのも事実だ。
そんな思いでセリアを見ると、彼女は黙って頷いてきた。
(つまり、何らかの動きは察知しているけど、根拠や確証が得られないと言うことね)
治癒魔法の元締めであり、複数の国家に跨がった神殿組織は、国王と言えども恣意的に手を出すわけにはいかない相手だ。
いや、いくら何でも、その神殿が、おかしな妄想の元に「バランスを取る」などと称して、足を引っ張るような真似は……。
そこまで考え、ディーハルトを始めとした神殿上層部の面々を脳裏に浮かべた私が出した結論は一つだった。
(あの連中なら、やりかねない)
〈禍神の使徒〉は、そのような思惑など跡形もなく吹き飛ばすほどの脅威である。
少なくとも、日頃から異界の存在たる召喚獣に触れ、勇者召喚にあたっては、いくつもの古文書に接した私にとって、それは仮定ではなく、極めて現実味を帯びた――事実だった。
おそらくは、魔物などと相対する現場にいる騎士や、冒険者なども同じ意見であろう。
その現実的な脅威の前にあってなお、楽観の極みとも言える野望を抱ける神殿に対し、初めて私は異次元的な恐怖を覚えたのだった。
◇◆◇
上位猪鬼が何匹か混じっているが、究極上位種たる界樹や聖双角にとっては、本来ならば、さしたる脅威ではない。
だが、今と言うタイミングは最悪だった。
中断するわけにはいかない龍毒の除去作業のさなかに襲いかかられては、全てが台無しになってしまう。
つまりは、こいつらもおしまいになるわけだが、愚鈍な猪鬼や、それに輪をかけて愚鈍な上位猪鬼に、そんなことを説いても無駄だろう。
あるいは、先日の犬鬼上位種のように、〈禍神の使徒〉から啓示を受けているのかもしれないが、コミュニケーションが成り立たないのでは分かりようが無い。
確実なのは、世界の破滅をもたらす引き金が、愚鈍な魔物によってなされると言う事実だけだった。
そして、ノインの冷徹とも言える思惟が、俺に決断を促してきた。
「こうなってはしかたがあるまい。その御婦人の身体を〈ビブリオ〉へ転移させるぞ。さもなくば、妾や貴様は言うまでも無く、貴様の大事な人々も死ぬことになる」
それでも俺は、その決断に躊躇せざるを得ない。
他に方法が無いとはいえ、一人の人間を死に至らしめる行動を、おいそれと取れるものでは無い。
何よりも、壮絶とも言える彼女のこれまでを追体験した俺には、とても無理な話だった。
むろん、義妹達や、オリヴァーさん、シャルロッテちゃんは大事な存在だ。
その意味で言えば、クラウディアなど少し会話した程度――いや、まともな会話を交わした相手ですらない。
だからと言って、あっさり割り切れるほど、俺は人間ができていないのだ。
「た……」
たぶん、俺がこの世界に召喚されてから、それが初めてだったかもしれない。
「助けてくれ」
そう、俺は――助けを求めていた。
「誰か……誰か、助けてくれ」
絶望的な祈りにも似た思いと共に、俺は心の中で叫んでいた。
「いくら何でも、彼女をこのまま死なせるのは可哀想だろ。頼む、誰でもいい。助けてくれ!」
「助けたら、何をくれます?」
「俺にできることなら、何でも」
「ふふふ。確かに聞きましたよ」
「え? あれ?」
俺の祈りに答えたのは、明確で、しかも馴染みのある人物の意志だった。
近くの茂みから姿を現した彼女を見て、俺は呆気にとられてしまった。
それは、女冒険者にして、どういうわけか眠ったままになっていたカーヤだった。
しかし、なぜ、彼女がこの場に現れたのか。
そもそも、界樹と化した俺や、ノインならともかく、いかに鍛えた女冒険者であっても、こんな山奥までの道のりを、この短時間で踏破できる筈が無い。
「あ、ひょっとすると……」
何か心当たりがあるのか、俺の背後でノインが呟いた。
「貴様が真龍の――ローグ・フォームとなった瞬間、その近くにおったからの。魔法陣の影響を何か受けたやもしれぬ」
「その通りです」
その思念の呟きが聞こえた様子で、カーヤが大きく頷いた。
つか、日頃と違ってずいぶんとハイテンションになっているようだ。
「ふむ、神酒の香りもするな。それも何かしらの要因になっていると見える」
そう言えば、あの時、神酒入りの水筒を持っていたが、カーヤ自身も少し呑んでいたのかもしれない。
そんなことを考えている俺達や魔物達の前で、カーヤはますますハイテンションになっていったようだった。
「そして、さすがは師匠が贔屓にしている職人さんです。その精魂こめた特注の品を身につけていたおかげで、私にはこんな能力が与えられたのです」
不意に、身構えるようなポーズとなった彼女の全身を、見たことも無い奇妙な魔法陣が覆った。
そして、その魔法陣が消えた後、彼女の衣服が完全に変化していたのだ。
いや、あれを衣服と呼ぶのは少し無理があるかもしれない。
獰猛な爪を生やした肉球手袋と、同様な意匠のブーツ。
ケモノミミなども妙にリアルになったわけだが、マスクだけはωな感じのままだ。
その背後でピコピコと蠢く尻尾を含め、カーヤが身につけているのはそれだけだった。
いや、これ、カーヤなんだろうか。
腹筋は割れているし、全体的なシルエットも逞しくなった感じである。
「あの娘、ひょっとして、オムーの魔導学者が試作的に創った獣人の血を引いておるやもしれんぞ。ここの騎士の女どもが龍種の血を引いているのと同じじゃな」
そんなノインの呟きを聞きながら、俺はひたすら呆気にとられていた。
どうやら、いくつもの要因が重なった結果が、目の前のカーヤということになるようだ。
そのカーヤの口元から、獅子とも虎ともつかぬ獰猛な咆吼が放たれ、そして、彼女は魔物達に襲いかかったのだった。
重ねて申し訳ありませんが、諸々の事情で、次週はお休みを頂きます。
次回更新は8/28を予定しています。
感想欄にて、誤記をご指摘頂きましたので、訂正しました。
ご指摘、ありがとうございました。




