安寧の日々より
「どういたしまして」
おそらくは、それが僕の人生において『最も多く口にした言葉』であるはずだ。
他人からの礼や詫びに対して、自分は大したことはしていません、どうか気にしないでくださいと願い返すための打ち消し言葉。それこそが十八番。
「あぁ、いえ、お気になさらず……学校に遅れてしまうので、僕はこれで」
孫からの贈り物だという小物入れを大事そうに両手で抱え、頻りに礼を言うお婆さんに手を振りつつ踵を返す。ともすれば、過分な感謝から逃げ出すように。
そして事実として、受け取るべきではない感謝から逃げるために。
駆け出しながら、チラと片手のスマートホンの画面に目をやれば……時刻は始業五分前。たとえ汗だくになって駆けようとも、もう間違いなく遅刻確定の頃合い。
────けれど、朝早くから『日課』を終えられた分で損は帳消し。
今日は一日、気楽に気持ちよく生きられるだろう。
◇◆◇◆◇
……さて。
予定通り気楽に気持ちよく過ごした一日の終わりがけ、放課後。
「────あまりに過ぎた『お人好し』は、ただの馬鹿か異常者の類だぞ。芳野」
「肝に銘じておきます」
「百回も銘じて身に付かないとは、ウチの爺さんより凝り固まった肝だな……」
入学から飛ぶように高校一年次が過ぎ去り、二年次も半ばに差し掛かる九月。二年続けて担任となった久川先生から有難い説教を賜るのは、何度目のことか。
カラッとした美人だが、怒ると男性教師より余程こわい。しかし理不尽な文句は付けたりせず生徒側に寄って親身になってくれる人柄で、基本的には人気者。
そんな皆の久ちゃん先生から、彼女の言葉通り三桁あまり説教を受けているような問題児は……まあ、まず間違いなく校内で自分だけだろう。
なお今のように指導室へ呼び出されての本格的なもの以外も含めれば、百どころか二百や三百でも利かないはず。問題児どころか、大問題児だ。
けれども、皆が「おっかない」という本気で怒った顔までは見たことがない。
それはひとえに────
「で、今朝は何してたんだ」
「お婆さんが落とし物をしたと困っていたので、一緒に探していました」
「またベタベタな……見つかったのか?」
「はい。大切なものだったそうで、見つかって良かったです」
「そりゃ、まあ、良かったけど────いや、うん。偉いは偉いな、よくやった」
────とまあ、嫌味ったらしいと評判な教頭から毎日の如く小言を投げられるほどに、この人が生徒側に寄り過ぎる真の『お人好し』に他ならないからだ。
良し悪しは別として、慕われるのも頷けるというものである。
「ただ、私も諦めず何度でも語らせてもらうがな……〝人助け〟ってのは、自分の身を切ってまで頑張るようなもんじゃない。お前のソレは『自己犠牲』に両脚ツッコんだ狂気の沙汰だぞ? 持論だけども口酸っぱく言っているように――――」
「自分を犠牲にする人助けは、健全な救いとは言えない。でしょう」
「一言一句を暗記できてるなら、それも肝に刻んでくれ」
「善処します」
「……この際ハッキリ言わせてもらう。私がこれまで出会った中で、お前ほど『善処します』が信用ならない人間はいないぞ。いい加減にしとけよ芳野律人」
恐縮ですと宣えば、褒めてないと溜息をつかれて、
「以上、今日の説教は終わり。気をつけて帰れよ」
「はい。ありがとうございました」
手をヒラヒラと振り退室を促す久川先生に頭を下げて、僕は指導室を後にした。
◇◆◇◆◇
「────お、ようやく解放されたか。お勤めご苦労さん?」
「待ってなくていいって言ったでしょ、隼太」
各部活動の近いようで遠い喧騒の中を潜り抜けて放課後の教室へ戻れば、窓際。他人の机に我が物顔で腰を載せていた友人、早乙女隼太が出迎えた。
まるで、刑期を終えた虜囚に声を掛けるかの如き揶揄い文句。親しい間柄ゆえに真実じゃれ合い程度の冗談と通じるソレも、通例となったのはいつからか。
もはやリアクションの一つも返さなくなった僕の素っ気ない言葉に対して、隼太は「つれないねぇ」と気にした風もなく軽薄に笑ってみせた。
「で、律。今日はどっちだ?」
「呼び出し喰らったんだから、わかるでしょ。直帰」
「ほんとにつれねぇな。たまには寄り道でもしてこうぜ」
「週三ペースを『たまに』とは言わない気がするんだけど」
隼太と知り合ってから、早五年。友人となってからは、四年と少し。
なぜこうも気に入られているのか、こうも構われるのか……紆余曲折を経て、その全てに自覚と納得を持っているため今更どうこう思ったりはしない。
他人と比べて少々おかしな生き方をしているとはいえ、別に孤高を気取ったことも孤独を愛したこともありはしないゆえに――──
「んー……ラーメン?」
「夕飯が入らなくなるよ。ハンバーガーくらいにしとこう」
素っ気ない自分のことを構ってくれる友人のことは、
素っ気ないままに、大事にしているつもりだ。
────そして、下校の合間。
「へぇ、転校生」
「そ、転校生。今日、お隣だってよ」
「隣って、どっちの」
「A組だな」
ありふれたファストフード店の隅っこで、ポテトやら何やらをつまみながら。
いつもいつも「炭酸が薄い」と文句を言うくせに決まってコーラを頼む隼太が、細かな氷が取り残されたカップを控え目にジャラジャラと振り揺らす。
暇つぶしの内訳は、これも普段通りの定型パターン。
あれやこれやと学校の情報を滔々と語る彼に対して、こちらが無限に相槌を打って返す攻守交替なしの他愛もないルーティーンセッションだ。
「それにしては、騒ぎもなにも無かった気がするけど」
「あー、なんかこう、物静かな子だったから? 周りも気遣ってたんだよ多分」
「野次馬に行った隼太以外は、か」
「失敬な。俺以外も……特に野郎は、少なからず拝みに行ってたぞ」
「そうなんだ」
「そうなんだよ。相も変わらず、世情に我関せず心穏やかに教室と図書館を往復してる優等生問題児殿は気付かなかっただろうけど」
呆れた表情と併せて散々な言われようだが、特に反論の余地がないので無言のままポテトを口に運ぶ。いつもいつもではないが、件の『日課』を終えた後の自分は省エネモードで静かに生きているゆえに、こちらもコレが平常運転。
そして隼太の方も、そんな反応には慣れ切っているゆえのこと。
「控え目に言って、すげー可愛かったぞ転校生」
「そうなんだ」
「こう、庇護欲を刺激されるタイプというか」
「へぇ」
「あれは確かに、静かに見守って安寧に貢献したくなるのもわかるというか」
「なるほど」
「まあ個人的な好みで言えば、もうちょい豊満な方が」
「控え目に言って、すげー失礼で下世話だし気持ち悪いよ隼太」
いつもの付き合いは、いつもの如く。
そこそこ無為に、それなりに幸福に、過ぎていった。
毎週金曜日更新予定。本日このまま一時間毎に四連投。
はじめましての方々、はじめまして。
良い子のアルカディアン諸氏、ごきげんよう。
全員お砂糖に沈めてやるから覚悟しろ。




