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メルクニア戦記  作者: 風花
第六章
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北極星からの伝言

 ポロック侯爵との一件から数日。王都アイギスを包む夜気は一段と冷え込み、窓を叩く風の音が、孤独な王子の寝所を嘲笑うかのように響いていた。

 レオナールは、セシリアが慎重に淹れた茶の湯気に目を細めながら、机の上に置かれた「奇妙な書状」を食い入るように見つめていた。

 それは、北方から流れてきた商隊の荷に紛れ込んでいたものだ。表向きは「アルザス地方の開拓状況に関する不平不満を連ねた、無学な民の訴状」を装っていたが、レオナールはその筆跡の癖を見逃さなかった。

 特定の文字を、かつて王宮の図書室で姉弟だけが解読に耽った「王家古文書の換字法」で拾い上げると、そこにはアーシア王家、それもレオナールとイザベラだけが共有していた秘密の符牒が浮かび上がった。

 レオナールは震える指先で、その暗号を一つずつ紐解いていった。

 現れたのは、かつて王宮で聞いたどの言葉よりも気高く、そして、今の彼には眩しすぎる「姉」の声だった。


『愛すべき、私の弟へ。

 あなたが「廃棄品」として送ってくれたものは、こちらで立派に砦の門となり、凍える子供たちの眠る屋根となりました。あなたがアーシアの未来を削り、泥を啜りながら捻り出したその一つひとつが、今、この北の地で確かな「命の鼓動」となって脈動しています。

 報告しましょう。ウルフとの間に、五人目の子が生まれました。

 三男です。この子は、生まれた瞬間から全く泣き止まず、自分の意志を通そうと全身で声を張り上げていました。その妥協を許さない頑固な泣き顔を見ていると、幼い頃、一度決めた正義を決して曲げなかったあなたの横顔を思い出して、少しだけ笑ってしまいました。ウルフも「この強情さはレオにそっくりだ」と、困ったように、けれど嬉しそうに笑っていますよ。

 長男はもう、ウルフの真似をして木の剣を振り回し、双子は雪原を駆け、次女は私の膝の上で笑っています。マリスのエレナも、もうすぐ新しい命を抱くでしょう。

 レオナール。あなたが一人で地獄を歩いていることは、風の噂で知っています。

 「怪物」と呼ばれているそうね。結構なことだわ。その醜い仮面が厚ければ厚いほど、アルザスの子供たちは温かなパンを食べられる。あなたが悪逆の限りを尽くすと巷で囁かれるたび、私たちは、あなたがどれほど深く、私たちを愛してくれているかを痛感するのです。

 けれど、勘違いしないで。

 私たちは、あなたに「死んでくれ」と頼んだ覚えはありません。

 ウルフは、夜に赤子をあやしながら、いつも遠い南の空を見ています。マリスは、届いた剣を研ぐたびに、あなたの首を絞めてでもここへ連れ戻すと息巻いています。そして私は……あなたの姉として、あなたに「命令」をします。

 レオナール。生きなさい。

 どれほど魂を摩滅させようとも、最後の一片だけは、私たちのために残しておきなさい。

 あなたが守り抜いたこの子供たちを、いつかその冷え切った腕で抱き上げるまで、あなたは死ぬことすら許されません。

 あなたが北極星を信じるなら、私たちもまた、闇の中に光るあなたの孤独を信じています。

 ――愛を込めて。アルザス砦の母、イザベラより』


 最後の一文字を読み終えた瞬間、レオナールの視界が不自然に歪んだ。

 パチリ、と。

 高価な羊皮紙の上に、一つ、また一つと、温かな雫が吸い込まれていく。

「……あ……」

 喉の奥が焼けつくように熱い。

 イザベラの綴った「五人の子供たち」の存在。会ったこともない彼らの笑い声が、レオナールの脳裏に、鮮やかな色彩を伴って溢れ出した。自分は、ただ泥を啜っているのではなかった。この泥が、北の地の花を咲かせているのだと、イザベラの言葉が証明していた。

 ――そして、その震えの中で。

 レオナールは、自分の中にある「もう一つの渇き」を、暴力的なまでの鮮明さで自覚した。

 「最後の一片を残せ」という姉の言葉。

 それは、自分もまた「一人の人間」として、誰かを愛し、誰かに愛される幸せを求めてもいいのだという、最大の赦しだった。


「……セ、シリア……」

 気づけば、その名を呼んでいた。

 傍らで見守っていたセシリアが、驚きに目を見開く。レオナールは机に突っ伏したまま、震える手を伸ばし、彼女の衣の端を掴んだ。

 これまで、彼女を「有能な協力者」だと己に言い聞かせてきた。彼女への執着は、この地獄を生き残るための依存だと思い込もうとしていた。

 だが、それは違う。

 自分は、この女性を愛している。

 ポロックに触れられそうになった時のあの激しい殺意も、彼女の淹れる茶の香りにのみ安らぎを感じるこの瞬間も、すべては、凍てついた自分の心が、隣にいる彼女という火を本能的に求めていたからだ。

「殿下……?」

「セシリア……。私は、……私は、生きたい。……君の隣で、……君と共に……」

 それは、彼が地獄に身を投じて以来、初めて口にした「個人の願い」だった。

 アルザスの再興のためでも、王国の変革のためでもない。一人の男として、愛する女性の温もりを感じながら生きたいという、あまりにも人間らしく、切実な告白。

「殿下、……はい。ここに、おります」

 セシリアは、涙を流しながら、レオナールの震える背中を力強く抱きしめた。

 レオナールは彼女の腰に腕を回し、その胸に顔を埋めた。彼女の鼓動が、自分の死に体だった心臓を激しく打ち鳴らしている。

(ああ、……そうか。私も、幸せを願ってよかったのか……)

 姉の愛と、セシリアの体温。

 二つの光が、凍てついた王子の心根を、根こそぎ溶かしていく。

 レオナールの瞳には、冷徹な仮面の下で長らく失われていた、静かだが力強い「希望」の火が灯っていた。


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