豚の食指、震える天秤
レオナールが倒れたあの日から、王都アイギスの空気はより一層、粘りつくような嫌悪感を孕んでいた。
病み上がりのレオナールが執務室に閉じこもる中、セシリア・カステルは薬湯の準備を終え、静まり返った回廊を歩いていた。その時、人気のない曲がり角で、逃げ場を塞ぐように「肉の壁」が立ち塞がった。
「おやおや、麗しのカステル嬢。そんなに急いで、氷の彫像のような王子の元へ戻らねばならんのですかな?」
鼻を突くようなきつい香水の匂いと共に、ポロック侯爵が姿を現した。
贅肉のついた顎を揺らし、脂ぎった手で自らの口髭を撫でるその姿は、高潔な貴族というよりは、獲物を値踏みする強欲な商人のそれだった。ポロックにとって、今のアーシアはレオナールが勝手に肥やしてくれる「貯金箱」に過ぎず、彼はその果実をどう効率よく食い散らかすかしか考えていない。
「……ポロック閣下。道をお開けいただけますか。殿下がお待ちですので」
セシリアは完璧なカーテシーを保ちつつ、氷のような視線を返した。だが、ポロックはその視線さえ「高飛車な小娘を屈服させる愉しみ」として咀嚼するような男だった。
「公務、公務と。あのアリのように働く王子に感化されたか。だが、嬢よ、もったいない。お前のような美貌、そしてカステル家の血筋。あのような死人のような男に無駄に捧げるには惜しすぎる」
ポロックは一歩、また一歩と距離を詰め、セシリアを石壁へと追い詰めた。彼にとってセシリアが王子の「お気に入り」であるなら、それを自分の手中に収めることは、レオナールに対する絶対的な優越感の証明になる。
「どうだ。私の庇護下に入らぬか? 王子が『改革』で削り取った金は、今や私の金庫に溢れんばかりに流れている。宝石でも、領地でも、あんな堅苦しい王子には一生与えられぬものを、私が明日にでも用意してやろう。ついでに、あの男が夜な夜なうなされている『秘密』を少しだけ私に流してくれれば、お前の地位は揺るぎないものになるぞ」
ポロックは確信していた。金と欲望こそが人間を動かす唯一の真理であり、セシリアもまた、レオナールに仕えるのは単なる打算だと思い込んでいた。
その時。
回廊の石床を叩く、硬く、冷徹な足音が響き渡った。
「……私の所有物に、随分と下卑た値踏みをするものだな、侯爵」
そこに立っていたのは、壁に背を預けてもおかしくないほど顔色の悪いレオナールだった。しかし、その瞳に宿る暗い炎は、ポロックの背筋を凍りつかせるに十分な狂気を孕んでいた。
「で、殿下! これは、その……少々、嬢と世間話を」
「世間話に、兵を連れて壁に追い詰める必要があるのか? 貴殿が私の『改革』からどれほどの甘い汁を吸っているかは不問に処しているが……部をわきまえろ。貴殿の役割は、私が投げてやる餌を大人しく食うことだけだ」
レオナールはふらつきながらもセシリアの前に割って入り、ポロックの胸元をその冷たい指先で突き刺すように指した。その瞬間、レオナールの纏う空気が「王子」から、獲物の喉元を狙う「怪物」へと変貌した。
「失せろ。次はないぞ。私の視界から、その醜悪な欲を今すぐ片付けろ」
レオナールの殺気に圧されたポロックは、言葉を失って逃げるように去っていった。彼は最後まで、レオナールが「自分の獲物を横取りされた」ことに怒っているのだと、自らの物差しでしか状況を解釈していなかった。
ポロックの足音が消えると同時に、レオナールはセシリアの手首を掴み、乱暴なほどに強く引き寄せた。
「……殿下、痛いです……!」
「……」
レオナールは答えず、彼女を執務室まで連れ戻すと、扉を閉め、閂を下ろした。
振り返った彼の瞳は、先ほどの怒りではなく、深い、深い絶望的なまでの「怯え」に支配されていた。
「殿下、私は大丈夫です。あの男の誘いに乗るはずが――」
「黙ってくれ……」
レオナールはセシリアの手首を掴んだまま、彼女を壁に押し付けるようにして、その肩に顔を埋めた。全身が激しく震えている。
ウルフを失い、マリスを遠ざけ、両親さえも敵となったこの王宮で、もし唯一の「光」であるセシリアまでがポロックのような泥に塗れたら。あるいは、自分のせいで彼女が消されてしまったら。
その恐怖が、レオナールの鋼の理性を、粉々に砕こうとしていた。
「君を失ったら、私はもう……鏡を見ることさえできなくなる。アルザスの子供たちの足音を想うことすら、できなくなるんだ」
その告白は、主君のものではなく、暗闇で溺れる子供のような悲鳴だった。
セシリアは、自由な方の手で、レオナールの震える背中を優しく、力強く抱きしめた。
「私はどこへも行きません。殿下。あなたがどれほど泥を被ろうとも、私はその泥を一緒に受けると決めたのです。だから……自分を責めないでください」
レオナールは、セシリアの体温を確かめるように、さらに強く彼女を抱きしめ返した。
彼はまだ、この感情に名前があることを認めようとはしなかった。認めてしまえば、この残酷な計画が瓦解してしまうと恐れていたから。
だが、冷え切った彼の心臓に、セシリアの鼓動が確かな熱を送り込んでいた。
一方、自室に戻ったポロックは、恐怖を怒りで塗りつぶすように酒を呷った。
「……あの餓鬼、あの小娘にそこまで固執するとはな。ふん、独り占めしようというわけか。やはりあいつは、私と同じ穴の狢だ。だが、あんなに必死になる『宝物』なら、いつか別の使い道もあるというものよ……」
自らの欲望にのみ忠実なポロックの独白は、暗い王宮の闇に、不気味な響きとなって消えていった。




