毒に灯る花
ユヌベクス王が去った後の執務室は、再び墓標のような静寂に包まれた。
医師は数日の絶対安静を命じたが、レオナールは翌朝にはベッドの上に机を持ち込ませ、山積みの書類に向き合っていた。
青白い顔に、浮き出た血管。ペンを握る指先は頼りなく震えているが、その瞳だけは、何かに憑りつかれたような鋭さを失っていない。
「殿下、せめてこのスープだけでも。……これでは、本当に命が削れてしまいます」
セシリアが、湯気の立つ器をそっと差し出した。
彼女はカステル家の令嬢でありながら、レオナールの「手足」として王宮の最深部に潜り込んでいる。レオナールの冷酷な命令、彼が背負う汚名、そしてその裏で密かにアルザスへ送られる希望――そのすべてを、彼女だけが間近で見届けてきた。
「……すまない、セシリア。あと一刻(二時間)したら、それをいただこう」
レオナールは視線すら上げずに応えた。
彼にとって、セシリアは「有能な協力者」であり、この地獄を共にする「戦友」だった。彼女が自分に向ける視線が、単なる忠誠心や同情を超え、切実な思慕へと変わっていることに、今の彼は気づく余裕すら持てなかった。
セシリアは、レオナールのその鈍感さを恨むことはなかった。
むしろ、彼が誰にも心を開かず、愛という感情さえ忘れたかのように義務に没頭する姿を見るたび、胸を締め付けられるような愛おしさを募らせていた。
(……この方は、誰かのために自分を殺している。その「誰か」のために、ご自身を使い潰そうとしている)
セシリアは、レオナールの背後に回り、震えるその肩にそっと毛布をかけた。
指先がわずかに彼の髪に触れる。レオナールは一瞬、びくりと肩を揺らしたが、拒絶はしなかった。
「……手が、冷たいですね。少し、お休みになれば良いのに」
「休めば、その分だけ北へ届く剣が減る。……ウルフやマリスが、家族を抱いて眠るための『夜の静けさ』が、私の休んだ分だけ短くなるんだ」
レオナールの口から漏れたのは、祈りにも似た、呪詛のような執念だった。
彼はアルザスの平和を願う一方で、自分自身がその平穏を分かち合う権利を、とうの昔に放棄しているように見えた。
「……私は、殿下の盾になりたい。殿下が守ろうとしている人たちと同じように、私は、殿下を守りたいのです」
セシリアの言葉は、告白に近かった。
だが、レオナールはふとペンを止め、少しだけ不思議そうに彼女を振り返った。
「君は、十分に盾になってくれている。……カステル家との連絡、王宮の監視の目、君がいなければ私はとっくに力尽きていただろう。感謝しているよ、セシリア」
レオナールの言葉は真摯だった。だが、それはあまりにも「主君から臣下へ」の言葉でしかなかった。
セシリアは小さく苦笑し、胸の奥で疼く痛みと、それ以上に膨らむ情熱をそっと飲み込んだ。
彼はまだ、知らない。
いつの日か、この戦いが終わったとき、自分がその隣で歩むことを許される唯一の存在になりたいと、彼女が強く願っていることを。
今はまだ主従の絆で結ばれた二人だが、セシリアの心に芽生えた想いは、やがて来る春、彼と共にこの冷たい王宮を抜け出すための、確かな道標になろうとしていた。
「スープが冷めてしまいます。……一口だけでいいですから、私のために、飲んでください」
セシリアはあえて明るい声を装い、スプーンを口元へ運んだ。
レオナールは少しだけ困ったような顔をしたが、やがて諦めたように口を開いた。
毒を喰らい、嘘を吐き続ける王子の唇を、セシリアの差し出す温かなスープがわずかに潤す。
凍てつく王宮の片隅で。今はまだ微かな、けれど決して枯れることのない恋の蕾が、静かに、力強く時を待っていた。
「怪物」の仮面を被った青年が、その蕾に宿る熱に気づき、凍えた心を溶かされる日は、刻一刻と近づいていた。




