毒の沈黙、梟の罠
深い闇の底から引きずり上げられるような感覚。
次にレオナールが目を開けたとき、視界に入ったのは執務室の高い天井と、泣き腫らしたような顔で自分を見つめるセシリアの姿だった。
「……殿下、お気づきになりましたか」
セシリアの囁きに、レオナールは重い頭を動かそうとしたが、焼けるような倦怠感が全身を支配していた。枕元には、王宮付きの医師が残していったと思われる苦い薬の匂いが漂っている。
診断は「極度の過労と心因性の衰弱」。王子の献身的な(あるいは冷酷なまでの)執務ぶりが、ついに肉体の限界を超えたのだと、周囲には説明されていた。
「……私は、どれくらい眠っていた」
「半日ほどです。……その、殿下がお休みになられている間、陛下がお越しになりました」
セシリアの言葉に、レオナールの背筋を氷の刃が撫でた。
一番見られてはならない瞬間に、最悪の男がいた。
「通せ」
部屋の外から響いた低く重厚な声。レオナールが制止する間もなく、扉が開かれ、アーシア国王ユヌベクスが音もなく入室してきた。
王は病床の息子を案じる様子もなく、ただ冷徹な梟のような眼差しで、横たわるレオナールを見下ろした。
「……王太子ともあろう者が、自己の養生もできぬとはな。ポロック侯爵が嘆いていたぞ。お前という右腕を失えば、アーシアの改革が止まってしまうと」
「……申し訳ございません、父上。少々、根を詰めすぎました」
レオナールは掠れた声で応え、上半身を無理やり起こした。
ユヌベクスは部屋の隅に控えるセシリアを一瞥して下がらせると、ベッドの傍らまで歩み寄り、声を一段と低めた。
「レオナール。お前は意識を失っている間、随分とうわ言を漏らしていたな。……あれは何だ?」
心臓が跳ねた。
ウルフの名を呼んだか? アルザスと言ったか? あるいは、誰にも言えぬ懺悔を口にしたか?
レオナールの脳裏に、最悪のシナリオが幾重にも重なる。だが、恐怖に呑み込まれそうになった瞬間、彼の理性が冷徹に囁いた。
(待て。……父上なら、もし確証を掴んでいるのなら、今この場で私を尋問するか、あるいは既に捕縛しているはずだ)
ユヌベクスは、相手の動揺を誘ってボロを出させる名手だ。
もし「うわ言の内容」を本当に掴んでいるのなら、わざわざ本人に尋ねたりはしない。これは――カマをかけている。
「……聞き苦しいところをお見せしたようです」
レオナールは、あえて自嘲気味な笑みを浮かべ、うつむいた。
「おそらく、ポロック侯爵への愚痴でしょう。あの男は欲が深すぎる。削減した軍費の半分を懐に入れようとする彼を、いかにして王権の枠に繋ぎ止めるか……眠りの中でもそればかりを考えておりました」
「……ほう」
「あるいは、地方貴族どもの呪詛かもしれません。奴らの顔を思い出すたび、吐き気がする。私が『怪物』となって奴らの首を絞める夢を、毎晩のように見ております」
レオナールはゆっくりと顔を上げ、父王の瞳を真っ直ぐに見据えた。
その瞳には、かつての慈悲深い王子の光はなく、ただ父と同じ「孤独な支配者」の、澱んだ執着だけが宿っているように見せた。
ユヌベクスは無言のまま、数秒間、息子の瞳の奥を探るように見つめ続けた。
部屋を支配する沈黙。
やがて、王はフッと短く鼻を鳴らした。
「……フン、つまらぬ夢だ。改革という毒を煽りすぎたか。精々、己の毒に当たって死ぬなよ、レオナール」
ユヌベクスはそれだけ言い残すと、翻って部屋を去っていった。
扉が閉まる音が響くと同時に、レオナールはベッドに崩れ落ちた。全身から一気に冷や汗が吹き出し、指先が激しく震える。
(勝った……。今のは、凌いだ……)
父は、レオナールの「孤独な野心」を信じた。
息子が自分と同じように、誰にも頼れず、欲深な臣下や反抗的な貴族との暗闘に疲れ果て、精神を病んでいるのだと。
レオナールは震える手で顔を覆った。
父を騙し通せた安堵よりも、自分がこれほどまでに「ユヌベクスと同じ人間」を演じきれてしまったことへの、吐き気を伴う絶望が胸を突く。
(あと、何度……。あと何度、嘘を重ねれば、あの光に届く?)
レオナールは再び、重い瞼を閉じた。
夢の中でさえ、彼はもはや、ウルフやマリスと笑い合うことはできなかった。
彼が再び見る夢は、やはり、冷たい石造りの牢獄で独り、返り血を拭い続ける「怪物」の姿だった。




