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メルクニア戦記  作者: 風花
第六章
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摩滅する魂

 王都アイギスの第一王子執務室。そこは、もはや部屋というよりは、冷徹な数字と血の通わない書類によって構築された、精神のおりのようだった。

 深夜、レオナールは卓上の蝋燭が短くなるのも気づかず、一枚の特赦申請書に「却下」の印を叩きつけた。

 それは、かつて彼に剣の手ほどきをした老騎士の息子からのものだった。父の恩赦を乞う必死の嘆願。だが、その老騎士はレオナール自身が「無能」として放逐し、アルザスへの流民に仕立て上げた男だ。ここで私情を見せれば、ユヌベクスの猜疑心という牙が、即座にレオナールの喉元を食い破るだろう。

「……ふう」

 印を置く手が、微かに震えていた。

 レオナールはそれを隠すように強く握りしめ、冷え切った指先を顔に押し当てた。

 ここ数ヶ月、彼は満足な睡眠を取っていない。目を閉じれば、自分が切り捨てた者たちの恨みの声と、かつてマリスやウルフと笑い合った眩い光景が、交互に脳裏を焼き尽くそうとするからだ。


(あと、どれだけ……。あとどれだけ、自分を殺せばいい?)

 鏡を見れば、そこに映るのは「氷の王子」と揶揄される、生気のない男の顔だった。

 ポロック侯爵からは「話のわかる共犯者」として卑俗な笑みを向けられ、父王ユヌベクスからは「いつ自分を裏切るか」と、梟のような鋭い視線で常に監視されている。

 食事は、毒見を済ませたとしても喉を通らない。

 何を食べていても、砂を噛んでいるような感覚しかなかった。

 アルザスに送るための物資を、書類の数字を改ざんして捻り出すたび、レオナールは自分の魂を一片ずつ、切り取って差し出しているような錯覚に陥る。


「殿下……、少しはお休みください。このままではお体が……」

 茶を運んできた侍女のセシリアが、痛ましげに、消え入るような声で進言した。

 彼女だけは、レオナールが何のためにこの地獄に身を置いているかを知っている。だが、その彼女に対してさえ、レオナールは「王子」の仮面を脱ぐことができない。一度でも誰かに甘えてしまえば、張り詰めた糸が音を立てて切れてしまうことを、彼自身が一番よく理解していた。

「……下がってくれ。まだ、整理すべき砦の目録が残っているんだ」

 その声は冷たかったが、語尾にわずかな震えが混じった。命じるのではなく、自分を独りにしてくれと乞うような響き。セシリアはそれ以上何も言えず、悲しげに一礼して部屋を去った。


 静寂が戻ると、レオナールは机の奥底、二重底になった秘密の引き出しに手を伸ばした。

 そこには、一通の報告書が隠されていた。アルザスからの、極秘の潜入員による最新の動向報告。

 『ウルフ、第五子となる三男を授かる。長男は三歳、双子は二歳、次女は一歳。イザベラ王女と共に、屋敷はかつてない賑わいを見せている。マリスの妻エレナもまた、第一子を懐妊――』

 その文字をなぞるレオナールの指先が、激しく震えた。

「……そうか。五人目か」

 乾いた笑いが、喉の奥から漏れた。

 ウルフ。君はまた、愛する妻との間に新しい命を授かったのか。

 マリス。君も、父になるのか。

 アルザスに咲く五つの花、そして芽吹こうとする新しい命。

 その報告こそが、レオナールにとって唯一の「解毒剤」であり、同時に最も残酷な「毒」でもあった。

 彼らが愛に包まれ、子供たちの泣き声や笑い声に翻弄されているその瞬間、自分は一人、暗闇の中で誰の体温も知らず、自分の手を汚し続けている。

 ウルフがイザベラを抱きしめる腕の温もりも、マリスがエレナのお腹に手を当てる時の高鳴りも、今のレオナールには想像することさえ贅沢な、異世界の神話のように感じられた。

(守り抜く。……この手がどれほど黒く汚れようとも。君たちのその幸せだけは、絶対に、誰にも奪わせない)

 レオナールは、報告書を再び暗闇の奥へと隠した。


 心の均衡は、すでに悲鳴を上げている。だが、アルザスに走る子供たちの足音を想えば、まだ、戦える。

 彼は再びペンを取り、次の「改革」――アーシアの防衛線をさらに脆弱にし、アルザスを盤石にするための、嘘の羅列へと向かった。

 夜明け前のアイギス。

 「怪物」と呼ばれ始めた王子は、朝日さえも拒むように、深い影の中にその身を沈めていった。

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