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メルクニア戦記  作者: 風花
第六章
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北風の便り

 アーシア北方、アルザスの地を吹き抜ける風は、王都アイギスのそれとは異なり、肌を刺すような峻烈な冷気を孕んでいた。

 かつて「不毛の荒野」と蔑まれたこの場所は、今やメルクニアの手によって、周囲を急峻な崖と巧妙な偽装壁に囲まれた、巨大な「砦」へとその姿を変えつつあった。

 当主代行を務めるウルフは、新設された鍛冶場の熱気の中で、一本の長剣を検分していた。

 それは、数日前に複数のルートを経て運び込まれた荷の中から見つけ出したものだ。


「……間違いない。アイギス中央軍の刻印を、意図的に潰してある」

 ウルフが低く呟くと、傍らにいたマリスがその剣を手に取った。

 マリスの指先が、荒く削られた跡をなぞる。そこには、誰にも読めないはずのメッセージが刻まれているように感じられた。

「兄貴、これだけじゃない。最近流れ着いた元兵士たちが持っていた装備……。裏地には、王宮の宝物庫にあるはずの止血帯や軍用の携行食が縫い込まれていた。どれもレオの手配だ」

 マリスの声が微かに震えた。

 王宮に巣食うポロック侯爵の強欲と、父王ユヌベクスの蛇のような猜疑心。その二つの目を同時にかすめ、物資を抜き取る工作がどれほど命懸けであるか。一歩間違えれば、レオナールの首は明日にも広場に晒される。彼は今、たった一人で、味方からさえ「怪物」と罵られながら、薄氷の上のダンスを踊り続けているのだ。

「あいつは……自分の名誉も、未来も、すべてをこの砦を築くための『薪』にして燃やしているんだな」

 ウルフが剣を鞘に納めた時、背後から忍び寄った柔らかな温もりに、思わず肩を跳ねさせた。


「……ウルフ。また難しい顔をして、剣ばかり見ているのね」

 第一王女イザベラだった。彼女は、生まれたばかりの三男を腕に抱きながら、当然のようにウルフの背中にぴったりと身を寄せた。彼女の独占欲は隠しようもなく、ウルフの体に触れる指先一つにさえ「この男は私のもの」という強烈な自負が宿っている。

「イザベラ。……三男が生まれたばかりだ、少しは体を休めてくれと言っただろう」

 ウルフは呆れたように溜息をついたが、その手は優しく妻の腰を引き寄せていた。

 イザベラは、ウルフの首筋に顔を埋めて深く息を吸い込むと、年上の女房らしい余裕と、少女のような熱情が混ざり合った瞳で彼を見上げた。

「あら、私は元気よ。……それに、あなただって、私を拒んだことなんて一度もないじゃない?」

「それは……」

 ウルフは顔を赤くして言葉を詰まらせた。

 「もう十分だ」と口では言いながらも、イザベラに真っ直ぐな瞳で見つめられ、求められれば、彼はいつだって喉を焼くような愛おしさに突き動かされ、彼女を抱きしめてしまう。毎年新しい命が宿るのは、イザベラの重すぎる愛を、ウルフが同じだけの熱量で受け止めている証拠でもあった。

 足元には、ウルフの脚にしがみついて離れない三歳の長男。そのすぐ後ろでは、二歳の双子の姉弟が「おとーさま、みて!」と雪玉を投げてはしゃぎ回り、一歳の次女がその間をトコトコと楽しげに這い寄ってくる。


 騒がしい、あまりにも騒がしい。かつて、多くの兄弟たちと笑い、競い合った、あの頃のメルクニアの屋敷と同じ音が、今、目の前で再現されている。

「……っ」

 子供たちの笑い声の隙間で、ウルフの目から一筋の涙がこぼれた。

 自分は生き残り、そして、こんなにも愛され、新しい命に囲まれている。イザベラは夫の涙をそっと指で拭い、その指を自分の唇に当てた。

「ねえ、ウルフ。次は私に似た女の子がいいかしら? それとも、またあなたにそっくりの男の子?」

「……君の気が済むまで、付き合うよ」

 観念したように笑うウルフを、イザベラは独占欲に満ちた熱い抱擁で包み込んだ。


 その光景を少し離れた場所で見ていたマリスと、第一子を授かったエレナも、穏やかな笑みを交わし合っていた。

 アルザスには、命が溢れている。汗と、笑い声と、むせ返るような愛の熱気。

 だが、その光景を見守るマリスの瞳には、ふと影が差した。

 自分たちがこうして愛し合い、新しい命を祝福し、賑やかな食卓を囲んでいる。その一方で。

 王都アイギス。あの冷たい石造りの牢獄のような宮殿。

 レオナールは今、誰に笑いかけることもなく、誰に抱きしめられることもなく、たった一人で「怪物」を演じている。


 彼には、ウルフのような騒がしい子供たちもいない。イザベラのように熱狂的に愛してくれる妻もいない。ただ、暗闇の中で、一通の感謝状さえ届かない孤独な戦いを、何年も、何年も続けているのだ。

「……兄貴。レオは今、何を食べているんだろうな」

 マリスの呟きに、ウルフも、そしてイザベラも沈黙した。

 彼が孤独であればあるほど、アルザスの家族は増え、笑い声は大きくなる。

 彼が泥を被れば被るほど、この砦の石垣は高くなり、イザベラの抱く赤子は健やかに育つ。

 レオナールは、自らの幸福をすべて生贄として捧げ、このアルザスの「光」を守り抜こうとしている。

「レオナール様……。本当の地獄を、独りで歩いてらっしゃる」

 マリスが北の空を見上げた。

 そこには、レオナールが一人で背負っている、アーシアという国の重苦しい闇があった。

「レオ。……お前が独りでいいと言うのなら、俺たちが無理やりにでもお前をここへ引きずり戻してやる」

 ウルフは子供たちを一人ずつ抱きしめ、最後にイザベラの手を強く握った。

「それまで、その孤独に心を焼き切られるなよ。……お前の守ったこの光が、いつかお前を温めると信じていろ」

 アルザスの砦に響く槌の音は、もはや復讐の音ではなかった。

 それは、たった一人の親友のために。彼が命懸けで作ってくれたこの「幸せ」を、いつか彼自身にも分け与えるための、希望の鼓動だった。

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