無もなき誓約
王都の春は、残酷なまでに鮮やかだった。
メルクニア別邸の庭園には、かつてマリスとエレナが将来を語り合った季節と同じ花が咲き乱れている。しかし、二人の間に流れる空気は、もはや甘い恋人たちのそれではない。
「……マリス様。王宮では、私たちが『不仲になった』という噂が流れています」
エレナが、手元の紅茶を揺らしながら静かに言った。
彼女は第二王女という高貴な身分でありながら、今やその美貌に影を落とし、やつれた「悲劇の姫君」を演じている。ユヌベクス王やポロック侯爵たちの前では、戦傷で腑抜けた婚約者に愛想を尽かし、日々を涙で過ごしているという筋書きだ。
「ああ。……すまない、エレナ。僕がもっと、兄さんたちのように頼もしければ、君にこんな真似をさせずに済んだのに」
マリスは拳を握り、俯いた。
彼はわざと酒場の喧騒に身を置き、自堕落な次男坊を演じ続けている。手の甲には、酔っ払いとの喧嘩でついたとされる偽の傷跡。それは、王の密偵たちに「メルクニアの末弟は、もはや再起不能なほどに壊れた」と信じ込ませるための、痛々しい偽装だった。
「謝らないでください。……私は、あの方々の玩具になるくらいなら、あなたと共に荒野を彷徨う道を選びます。それがたとえ、王女としての名を捨てることになっても」
エレナは立ち上がり、マリスの傍らに膝をついた。彼女の瞳には、一人の男と共に地獄へ落ちる覚悟を決めた女の強さがあった。
「マリス様。私たちは、この王都にいる間は『夫婦』になれません。……形式上の婚約は、近いうちに私の父——王によって、事実上の白紙、あるいは無期限の延期とされるでしょう。そうすれば、私は自由な身として、あなたの後を追える」
「……エレナ」
「ですから、今は指輪も、華やかな式も要りません。……ただ、あなたの『真実』を私にください」
二人は、誰の目にも触れない木陰で、静かに唇を重ねた。それは祝福の鐘も、会食の音楽もない、孤独な誓約だった。
同じ頃、王宮の執務室。
窓から差し込む春の陽光とは対照的に、室内には冷徹な静寂が満ちていた。
ユヌベクス王は、密偵から届けられた一枚の報告書に目を落とし、感情の起伏を感じさせない平坦な声で呟いた。
「……メルクニアの八男マリス、自堕落な生活により第二王女エレナとの仲も破綻寸前、か。王女は心身を病み、北方の療養地への隠居を希望、と」
王は報告書を机に放り投げた。その瞳には、娘の心痛を案じる気配など微塵もなかった。あるのは、期待していた「メルクニアを王家の血筋で縛り付ける」という計画が、相手の無能さによって立ち消えになったことへの、冷めた失望だけだった。
「ふん、所詮はエジルの末っ子。親の威を借るだけの子供に、メルクニアの名は重すぎたか。これではもはや、婚姻による懐柔の価値もない」
王は傍らに控える側近に、視線も向けずに命じた。
「……エレナの婚約は無期限の延期とせよ。傷物となった王女を無理に押し付けて、メルクニアに余計な同情が集まるのも好ましくない。いずれ彼女の体調が回復した折にでも、適当な譜代の家に、家格を整えるための『象徴』として降嫁させるよう手配しておけ。王国にとって、無駄な資源を遊ばせておく余裕はないのだからな」
王にとって、エレナは愛すべき娘ではなく、王国の安定という巨大な計算式における「変数」の一つに過ぎなかった。その変数が有効に機能しないと分かれば、次なる「適正な配置」を事務的に検討するだけのことだ。
その様子を影で聞いていたレオナール王子は、奥歯が割れるほどに強く噛み締めた。
父の言葉には、娘の人生への敬意も、父性も欠片も存在しなかった。ただひたすらに、王家の利益を最優先する冷たい「正論」のみが支配していた。
(……救いようがない。あの男にとって、私たちは人間ですらないのだ)
レオナールは拳を固く握り、窓の外、友が潜む別邸の方向を見つめていた。
(それでいい、マリス。そのまま、皆に背を向けて行け。父上がお前たちを『無価値』だと切り捨てるその瞬間に、お前たちは真の自由を手に入れるのだ。……私は、ここでお前たちの『不在』を守り抜こう。たとえこの私が、父の計算式から消される日が来たとしても)
離脱の日は、刻一刻と近づいていた。
マリスとエレナ。二人の「偽りの破局」は、王が娘への無関心を貫いたことで、皮肉にも完璧な逃走経路を完成させた。
彼らは、お互いに一言も「愛している」とは口にしなかった。
代わりに交わされたのは、「必ず、北の地で会おう」という、血よりも濃い再会の約束。
それは、若き恋人たちが「名前」を捨て、王家の「駒」であることを拒み、ただ一人の人間として手を取り合い、荒野への一歩を踏み出すための、峻烈な夜明けであった。




