泥を啜る英雄
王宮の夜会――それは、アイゼンの雪原に流れた鮮血を、芳醇な赤ワインで洗い流し、戦場に一度も足を踏み入れなかった者たちが「勝利」という甘美な果実を貪り食うための、醜悪な祭壇であった。
豪奢なシャンデリアが放つ光は、大理石の床に反射し、着飾った貴族たちの虚栄心を煽り立てる。そこには鉄の臭いも、死の間際に吐き出される白息の熱さもない。あるのは、甘ったるい香水の香りと、勝利の功績をいかに自分たちの権勢へと結びつけるかという、卑俗な計算だけであった。
「おやおや、これはこれは。メルクニアの新たな『当主』様ではありませんか」
不快なほどに高く、耳障りな声が響いた。
声をかけたのは、王国の利権を代々差配してきた譜代貴族の重鎮、ポロック侯爵であった。彼の周囲には、似たような肥った体躯に豪華な刺繍を施した服を纏った貴族たちが、ニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべて群がっている。
彼らが取り囲んでいるのは、壁際で静かに杯を手にしているウルフと、その隣で所在なげに視線を落とすマリスであった。
「ウルフ殿。……いや、今は当主とお呼びすべきかな? 失礼、あまりに覇気がないものだから、かつてのメルクニアの方々とは、どうにも結びつかなくてね。あのエルム殿やガイン殿のような乱暴者が生きておられたら、今頃は我らのような文官を突き飛ばして、戦功を叫び散らしていたことでしょうに」
ポロック侯爵が扇子を口元に当て、周囲の貴族たちと顔を見合わせた。
「全くですな。あの手の荒くれ者がいなくなって、ようやくこの王宮も静かになったというものです。メルクニアも、ようやく『話の通じる』、いや、言いなりになる当主を迎えて、王国にとっても一安心ですな」
その言葉は、あからさまな侮辱であった。亡き兄弟たちを「乱暴者」と切り捨て、その死を「平和の訪れ」であるかのように嘲笑う。
彼らは忘れているのだ。いや、あえて忘れた振りをしている。今、自分たちがこの暖かい広間で、贅を尽くした料理を口に運び、安穏と笑っていられるのは、誰のおかげか。
アイゼンの雪原で、鋼鉄卿という絶望を前に、自らの肉体を盾にして王国への道を塞いだのは誰だったか。エジルが、カルムが、ライルが、クリスが……彼らが文字通り肉の壁となって時間を稼いだからこそ、この無能な豚どもは今、首を繋げていられるのだ。
「……ポロック卿。兄弟たちの不調法を、今さらながらお詫びいたします。……今の私には、彼らのような勢いはございませんので」
ウルフの声は低く、どこか湿り気を帯びていた。彼は深く頭を下げ、濁った瞳で床を見つめる。その姿は、かつて「メルクニアの双牙」の一角として戦場を駆けた若武者とは程遠い、毒を抜かれた老犬のようであった。
「はっはっは! 見なさい、この謙虚な姿勢を。やはり当主が変われば、こうも教育が行き届くものか。マリス殿も、お兄様を見習って、少しはましな顔をされたらどうだ? いつまでもアイゼンの悪夢にうなされているようでは、次男坊として務まりませんぞ」
標的はマリスへと移る。
マリスは拳を強く握りしめ、肩を微かに震わせていた。彼の脳裏には、自分を逃がすために盾となった兄たちの最期の叫びが、今も鮮明に響いている。
彼らの安寧は、メルクニアの屍の上に築かれた砂上の楼閣に過ぎない。その事実を無視し、死者を土足で踏みにじる男。
(黙れ……兄さんたちが守ったのは、お前たちのような連中じゃなかったはずだ……!)
怒りが、喉元までせり上がってくる。だが、その隣でウルフが、マリスの袖を強く、しかし静かに引いた。
それは「耐えろ」という無言の、しかし絶対的な命令だった。
今、ここでこの男の首を跳ね飛ばすのは容易い。だが、それをすればイザベラやセシル、そして協力してくれるレオナール王子が積み上げてきた「離脱」への計画はすべて灰燼に帰す。自分たちが「無害な敗残兵」として王都を去るためには、この侮辱という名の泥を、最後の一滴まで飲み干さなければならないのだ。
「……申し訳ございません。まだ、夜会の空気に慣れておらぬもので。兄たちの不在が、これほどまでに身に染みるとは思いませんでした」
マリスは、血が出るほど唇を噛み締め、辛うじてその言葉を絞り出した。
「おや、不機嫌そうですな。怖い、怖い。……まあ、ご安心なされ。君たちがアルザスの岩山で土を掘り返して暮らす分には、我らも何も言いはしませんよ。せいぜい、父上の遺産である『開拓権』を無駄にせぬよう、精を出すことですな。剣を振るよりは、鍬を持つ方が今の君たちにはお似合いだ」
貴族たちの下卑た笑い声が、夜会の音楽をかき消すように響き渡る。
周囲の者たちも、もはやメルクニアを恐れる必要はないと確信したようだった。かつての恐るべき「戦う怪物」たちは死に絶え、残ったのは誇りを失った抜け殻と、怯えた子供だけ。
ウルフやマリスの性格を、彼らは「つけ込みやすい優しさ」だと断じたのだ。エルムのような短気な猛将ではないからこそ、どれほど踏みつけても、大局のために耐え忍ぶだろう――その理性的で高潔な「忍耐」を、貴族たちは「臆病」と履き違え、心ゆくまで土足で踏みにじった。
「失礼いたします」
ウルフは静かに一礼し、笑い声の渦から逃れるように、マリスを連れてテラスへと向かった。
夜風が、火照った頬を冷やす。
マリスはテラスの手すりを叩き、声を殺して泣いた。
「兄さん……俺、悔しいよ……! あいつら、父上たちがどんな思いで戦ったかも忘れて……自分たちが生きてる理由さえ、もうメルクニアとは無関係だと思ってるんだ!」
「ああ、わかっている。……マリス、今は泣いてもいい。だが、この屈辱を忘れるな」
ウルフの横顔は、夜の闇に溶けていた。だが、その瞳だけは、暗闇の中で獲物を狙う獣のような鈍い光を宿していた。
「奴らは、俺たちの『沈黙』を、屈服だと思い込んでいる。……だが、俺たちは死んでいない。ただ、根を植え替えるために、枝を切り落としただけだ。奴らが忘れたというのなら、思い出させてやる必要などない。新しいメルクニアが、いつか奴らの夢を喰らうまで、牙を隠し続けるだけだ」
ウルフの手が、マリスの肩を強く掴む。
「アルザスへ行くぞ、マリス。そこで俺たちは、王国という恩知らずな檻から解き放たれた、真のメルクニアを育てる。……あの男たちの笑い声が、いつか悲鳴に変わるその日まで、俺たちは泥の中で牙を研ぐんだ」
遠く、王宮の奥底から再び下卑た笑い声が聞こえてきた。
その光景を、テラスの陰から見つめるレオナールの瞳には、深い悲しみと、メルクニアの犠牲を土足で踏みにじる自国の腐敗への、激しい憤怒が静かに燃え盛っていた。
ウルフとマリスは、再び夜会の喧騒へと戻っていく。
その背中は、もはや「敗残兵」のそれではなく、獲物を待つ隠密のそれへと、静かに変わりつつあった。




