偽りの王太子、真実の孤独
王宮の回廊を吹き抜ける風は、まだ冬の刺すような冷たさを孕んでいた。
第一王子レオナールは、重厚な石造りのバルコニーから、暮れなずむ王都を見下ろしていた。眼下に広がる街の灯りは、一見すれば平穏そのものだ。だが、その光の裏側で、友であるマリスやウルフが、泥を啜るような思いで「不名誉」を演じ、国を去ろうとしていることを彼は知っている。
レオナールは、父である国王ユヌベクスを、かつては畏敬の念を持って見上げていた。王とは、国を守るための冷徹な盾であるべきだと信じていたからだ。しかし、アイゼン要塞での惨劇と、その後のメルクニア一族への仕打ち——功臣を使い潰し、その牙を抜いてから辺境へ放逐する非情なやり口に、彼の中の何かが決定的に壊れ、そして燃え上がっていた。
「……私は、あの人のようにはなれない。だが、このまま黙ってあの人の息子でいることも、もうできない」
レオナールは独り、静かに呟いた。
彼の戦いは、メルクニアのような目に見える「離脱」ではない。それは、腐りかけた王国の中心に留まり、独りで毒を飲み込みながら、内側からすべてを造り替えるという、果てしなく孤独な「革命」への道だった。
レオナールの日常は、欺瞞に満ちていた。
彼は父王の前では、従順で非力な、政治に無関心な王子を演じ続けた。ユヌベクス王がメルクニアの武威を削ぎ、貴族たちを恐怖で支配する様を、レオナールは虚ろな笑みを浮かべて肯定し続けた。
「レオナールよ。メルクニアの残党も、ようやく王都から消える。あれは強すぎた。強すぎる刃は、いつか主の喉を突く。お前も、王になるならそれを忘れるな」
玉座の間で、父は満足げにそう告げた。レオナールは深く頭を下げ、その表情を隠した。
「……御意にございます、父上。力なき私には、父上の深謀遠慮、ただただ感服するばかりです」
その言葉を口にするたび、喉の奥が焼けるような嫌悪感に襲われる。
執務室に戻れば、彼はすぐさま信頼できる数少ない近臣たちを呼び寄せ、地下水脈のように張り巡らせたネットワークを動かした。
レオナールの味方は少なかった。王の恐怖政治に怯える老臣たちは頼りにならず、彼が頼れるのは、アイゼンの戦場を生き残り、王の不当な論功行賞に不満を抱く若い将校たちや、税の重圧に喘ぐ民衆の代表者たちだけだった。
「殿下、あまりに危険です。王の密偵は至る所に潜んでおります。万が一、この計画が漏れれば……」
忠実な側近が声を震わせる。レオナールは、マリスからもらった古い木彫りの細工を指でなぞりながら、静かに首を振った。
「危険なのは、この国そのものだ。友が、英雄が、国のためにすべてを捧げた者たちが、名誉を捨てて逃げ出さねばならない国に、未来などない。……私は、マリスに約束したんだ。彼らが胸を張って帰れる場所を、私が作ると」
レオナールの孤独な戦いにおいて、最大の目的の一つは、メルクニア一族がアルザスへ到着するまでの「隠れ蓑」になることだった。
彼は王の関心を逸らすため、あえて王宮内で小さな政争を引き起こしたり、偽の「帝国の不穏な動き」の報告を上げさせたりして、王の密偵たちの目をアルザスから遠ざけた。
また、彼は第一王女イザベラとも、密かに連絡を取り合っていた。
姉である彼女がウルフを愛し、共に離脱しようとしていることを、レオナールは最初から見抜いていた。彼は姉に対して、王宮内部の動静を伝え、離脱のタイミングを計らせていた。
「姉上、準備は?」
夜の庭園、風の音に紛れるような小声で、彼はイザベラに問いかけた。
「ええ。ウルフもマリスも、もう覚悟を決めているわ。……レオナール。あなたは、本当に残るつもりなの? ここに居れば、いつか父上の刃があなたに向くわよ」
イザベラの懸念に、レオナールは寂しげに微笑んだ。
「私が逃げれば、父上は狂ったようにメルクニアを追い、根絶やしにするでしょう。私がここに留まり、『良き息子』を演じ続けることが、彼らにとっての最大の盾になる。……姉上、どうかマリスを、ウルフを頼みます。私の分まで、彼らを愛してやってください」
その言葉は、ある種の遺言に近い重みを持っていた。
レオナールは、自分が起こそうとしていることが、成功しても失敗しても、王族としての平和な生を捨てることを意味すると知っていた。
メルクニアが王都を旅立つ前夜。レオナールは、王室の秘密書庫に独り籠もり、かつての建国王たちが遺した「正義」についての古文書を読み耽っていた。
彼の机の上には、密かに集めた各地の不満分子の署名と、革命の際に制圧すべき拠点の地図が広げられている。
そこへ、一人の若手将校が音もなく現れた。アイゼンでメルクニアに命を救われた、レオナールの腹心だ。
「殿下。メルクニアの方々、第一陣が間もなく王都を離れます。……マリス様が、一目だけでも殿下とお会いしたいと」
レオナールの肩が、微かに震えた。親友との別れ。一目会えば、自分の決意が揺らいでしまうかもしれない。あるいは、マリスを無理にでも引き留めたくなってしまうかもしれない。
「……会わぬ。会えば、私の心は折れてしまう」
レオナールは、絞り出すような声で言った。
「マリスに伝えろ。……『いつか、お前が笑って私を殴りに来る日を、私はこの玉座で待っている』と」
彼は涙を拭い、再び地図に目を落とした。
これから彼を待っているのは、血の繋がった父を裏切り、王宮という魔窟で独り、狂気を演じながら革命の機会を伺う日々だ。
誰にも褒められず、歴史には「父に背いた反逆者」と書かれるかもしれない。
それでも、彼は友の自由のために、そして一族を失った女たちの涙のために、その暗い闇を歩むことを決めた。
「メルクニア……ウルフ、マリス。お前たちが荒野で新しい根を張る間、私はこの腐った土壌を、すべて焼き払っておこう」
レオナールは、ランプの火を強くした。
その光は小さかったが、彼の瞳に宿る意志の火は、王宮のどの灯火よりも激しく、熱く燃えていた。
そこには、一族を救うために離脱する者たちの背中を、独り静かに、そして命を懸けて見送る、若き王子の「孤独な革命」の始まりがあった。
雪解けの季節。
泥濘に足を取られるのは、逃げゆく者たちだけではない。
王宮に留まり、底なしの沼を独りで歩み始めるレオナールの戦いもまた、ここから始まるのであった。




