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メルクニア戦記  作者: 風花
第五章
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夜明けの光

 黄金の鎖が軋む音は、王都を包む静寂の中に紛れていた。

 アイゼン要塞の奪還、そして帝国最強の「軍神」鋼鉄卿の討伐。その空前絶後の功績は、アーシア王国において今や「メルクニアの神話」として語り継がれている。しかし、その神話の代償はあまりに大きかった。父エジル、そして上位三兄の戦死。さらには内紛と不信の末に散った五男と七男。

 生き残った六男ウルフと八男マリスに与えられたのは、英雄の称号という名のかせだった。

 ウルフが「離脱」を決意したその日から、メルクニアの屋敷は、王国の管理下にある「英雄の館」から、一族が脱皮を果たすための「静かなる戦場」へと変貌を遂げた。

 窓の外、白銀の雪が解け始め、黒い土が顔を覗かせている。それは、この国から根を引き抜くべき時が来たことを告げる、自然の合図のようでもあった。

 離脱の第一歩は、情報の遮断と、目立たぬ形での資産・人員の移転である。

 この困難な「後退戦」を実質的に指揮しているのは、第一王女イザベラであった。彼女は夫ウルフを愛し抜く一方で、第一王女という自身の立場が持つ「制度上の抜け穴」を熟知していた。


「……ここよ、ウルフ。この一枚の紙が、私たちの新しい領土になるわ」

 深夜、人目を避けた書斎で、イザベラが古びた羊皮紙を広げた。

 それは、王国の最北西、帝国の国境にほど近い「アルザス辺境区」の開拓権限証書だった。

 ウルフが怪訝そうに眉を寄せ、図面を覗き込む。

「アルザス……。ここは確か、岩だらけで耕作にも向かず、数十年前に放棄された廃村のはずだ」

「ええ、表向きはね。でも、ここにはかつてのメルクニアがアムル時代に築いた、隠し兵糧庫の跡があるはずよ。そして何より、ここは王都の目が届かない。……ユヌベクス父上にとって、ここは『捨てた土地』なの。そこに、精神を病み、再起不能となったメルクニアの敗残兵を、慈悲深く住まわせてやる……。王には、そう報告を上げておいたわ」

 イザベラは、冷徹なまでの微笑を浮かべた。彼女は父王ユヌベクスの性格を読み切っていた。王は、自分より優れた武勇を持つ者を恐れるが、自分に依存し、辺境でひっそりと朽ち果てていく弱者には寛大だ。

「……俺は、王都の監視下で『壊れた英雄』を演じればいいということか」

「そうよ、ウルフ。不名誉かしら? でも、それが一番安全に、一人でも多くの同胞を救う道なの。あなたが王宮で酔いつぶれ、私に縋って泣く姿を演じるたびに、一人のメルクニアの兵が『屯田兵』としてアルザスへ向かえる」

 イザベラは、ウルフの頬を両手で包み込んだ。彼女の瞳には、かつての支配的な執着を超えた、共犯者としての深い情愛が宿っていた。

 ウルフは、自分の手が血に汚れ、鎧が傷つくことには慣れていたが、誇りを捨てて卑屈を演じることには激しい抵抗を感じていた。だが、揺り籠で眠る我が子の寝息を聞くたびに、その抵抗は使命感へと変わっていった。


 離脱の準備は、女たちの手によって着々と進められた。

 第二夫人のカリンは、亡き五男エルムと七男ガインの直属だった兵たちの家族を、王都の商会と結託して「使用人」の名目で次々と郊外へ送り出した。

 カリンは、武家の女としての鋭い眼差しを失っていなかった。彼女にとって、息子たちを裏切り、死へと追いやった王国は、もはや守るべき対象ではない。

「ウルフ。あの子たちの魂を、こんな不潔な王都に置いておくわけにはいきません。アルザスの岩山は険しいでしょうが、そこには自由がある。あの子たちの部下も、それを望んでいます」

 カリンは、エルムが愛用していた折れた槍の穂先を布に包みながら、静かに語った。

 一方、側室のリーナもまた、末子マリスを支えるために動いていた。

「マリスには、私からすべてを話しました。あの子は……エレナ様を守るために、自分も汚名を被る覚悟を決めています。兄上たちがアイゼンで守ってくれた命を、今度は自分たちが繋ぐ番なのだと」

 マリスとエレナ。二人の若き恋人たちは、王都の華やかな社交界から「追放」される形での離脱を目指していた。彼らは王の前でわざと不敬を働き、あるいは未熟さを露呈させることで、「期待外れの若造」としてアルザスへ左遷される道を選ぼうとしていた。

 しかし、この離脱劇には、もう一つの重要なピースが必要だった。

 

 帝国の地で、捕虜から大蔵卿へと上り詰めた四男、フラン・メルクニアの存在だ。

 ウルフは確信していた。もし自分たちが王国を離脱しようとすれば、ユヌベクス王は必ず、それを「逃亡」と見なして追っ手を放つ。その時、王国軍の足を止め、彼らの関心を他へ逸らせるだけの「激震」が必要になる。

「……フラン兄さん。あんたなら、俺たちが動くタイミングを見逃さないはずだ」

 ウルフは地図のアルザスからさらに北、帝国領を指でなぞった。

 フランが帝国で進めている経済の掌握、そして軍制の改革。それらが王国にどのような影響を及ぼしているか、ウルフはイザベラが密かに入手した情報から察していた。

 フランは、王国がメルクニア一族を冷遇していることを知っている。そして、彼が王国に経済的な圧力をかければかけるほど、ユヌベクス王は内情に余裕を失い、メルクニアという「金のかかる英雄」を重荷に感じ始めるはずだ。

「離脱後の補給路、そして安全保障……。フラン兄さんが帝国側からアルザスへの秘密の交易路を拓いてくれれば、俺たちは王国に依存せずに生きていける」

 ウルフの言葉に、イザベラが小さく頷いた。

「あの人は、冷徹な数式で世界を見る人だわ。でも、リリアーヌ皇女から届く親書によれば、彼は今でも『メルクニアの動向』を最優先事項として処理しているそうよ。彼にとって、あなたたちはまだ『計算式』の中に必要な要素なのね」

 ウルフは、窓の外で溶けゆく雪を見つめながら、拳を握りしめた。


 かつて父エジルは、フランを「怪物」として遠ざけた。一族の武門としての純血を、フランの知略が汚すと恐れたのかもしれない。しかし、今となっては、その知略こそが一族の命脈を繋ぐ唯一の希望だった。

 父と三人の兄がアイゼンの雪原に刻んだのは、鋼鉄卿という壁を打ち破るための「犠牲の道」だ。

 ならば、自分が刻むべきは、一族を泥沼から引き上げるための「離脱の道」でなければならない。

「……ウルフ、疲れたでしょう」

 イザベラが背後から彼を包み込み、耳元で囁いた。

 彼女の指先が、ウルフの胸の傷跡を愛おしそうになぞる。

「あなたはもう、戦士でなくていいの。あなたは、メルクニアという新しい家族の王になればいい。王都の政治も、泥臭い交渉も、全部私と母上たちで片付けてあげる。あなたはただ、マリスや子供たちの前で、笑っていなさい」

 イザベラの言葉は、どこまでも優しく、そして傲慢だった。彼女は、王国の第一王女という地位も、華やかな生活も、すべてを捨てて「メルクニアの妻」として生きることを選んだのだ。

 ウルフはその温もりに身を預け、閉じていた瞳を開いた。

「……ああ。行こう、イザベラ。父上たちが眠るあの雪原よりも、さらに北へ。誰も俺たちを縛れない、アルザスの地へ」

 屋敷の奥で、赤子の産声が響いた。

 それは、古いメルクニアの終わりと、新しいメルクニアの始まりを告げる、静かな、しかし確かな号砲であった。

 

 黄金の鎖は、今まさに断ち切られようとしていた。

 彼らは「反逆者」としてではなく、「離脱者」として、自分たちの物語を自分たちの手で綴り直すために、暗い夜の闇へと足を踏み出したのである。

 

 雪解けの泥濘ぬかるみの先に、微かな夜明けの光が見え始めていた。

 メルクニア一族の、王国の仕組みからの離脱。

 それは、歴史の表舞台から一時的に姿を消し、より強靭な存在へと羽化するための、命を懸けた旅路の序章であった。

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