黄金の鎖からの離脱
窓外に広がる王都の景色は、白銀の雪に覆われていた。かつてメルクニアの軍装を象徴した色と同じはずなのに、今のウルフの瞳に映るそれは、凍りついた墓標の群れのようにしか見えなかった。
アイゼン要塞の奪還後、メルクニア一族は「救国の英雄」という美名のもと、その牙を一本ずつ抜かれていた。かつての軍における権限は、王命によって事実上解体。生き残った兵たちは王軍の各師団へ分散され、ウルフの手元に残されたのは、形式ばかりの儀礼兵のみ。ユヌベクス王の狙いは明白だった。メルクニアの武力を王国の仕組みという巨大な歯車の中に噛み合わせ、二度と己の意志で回らぬように固定することだ。
背後で、衣擦れの音がした。
「また、雪を見ているのね。ウルフ」
柔らかな毛布を肩にかけたイザベラが、そっと彼の腰に腕を回した。彼女の温もりは、この氷の檻の中で唯一、ウルフが戦場での惨劇を忘れ、安らぎを得られる場所だった。
ウルフは、彼女の手を優しく包み込み、短く息を吐いた。
「……イザベラ。俺たちは、このままこの国の一部として消えていくのかな」
その言葉は、絶望ではなく、静かな自問だった。イザベラは彼の背中に頬を預けたまま、少しだけ力を込めて抱きしめ直す。
「いいえ。あなたが消えるのを、私が許さないわ。でも、あなたがこの国の仕組みに取り込まれ、骨抜きにされていくのを黙って見ているつもりもない。そうでしょう?」
彼女は、ウルフが夜な夜な地図を見つめていることを知っていた。アイゼンの雪原に捨ててきた父や兄たちの誇り。彼らが命を懸けて守ろうとしたのは、アーシア王国の領土ではなく、「メルクニア」という一族の意志そのものだったはずだ。
「マリスはまだ若い。エレナ様と共に、この檻の中で王家の駒として磨り潰されていくのを見たくないんだ。……だが、俺たちがこの国を出れば、それは王への不実となる。君を、そして生まれたばかりのこの子を、厳しい流浪の身に置くことになるかもしれない」
「流浪? そんなところ、私たちが歩くわけないじゃない」
イザベラがウルフの前に回り込み、その頬を両手で挟んだ。姉さん女房らしい、揺るぎない自信に満ちた微笑。
「私は第一王女よ。王国の仕組みなんて、誰よりも熟知しているわ。……ウルフ、あなたはメルクニアの長になった。ならば、一族がどこに在るべきかはあなたが決めなさい。王への反逆ではない。ただ、私たちは、私たちの足で立てる場所へ『離脱』するだけよ。私は、あなたについて行くんじゃない。あなたの行く先を、私の力で整えてあげると言っているのよ」
イザベラの言葉は、慈愛に満ちた福音だった。彼女は夫を愛していたが、同時に、彼を「飼い殺される英雄」として終わらせるつもりもなかった。一族の誇りを守るための離脱——それは、愛する夫が再び自分自身を取り戻すための、唯一の道だと確信していた。
「離脱……か」
ウルフが呟いたその言葉は、初めて重力を持って部屋の中に落ちた。
王国の法を離れ、黄金の鎖を静かに断ち切る。その先にあるのは、帝国という巨大な影か、あるいは荒野か。
「フラン兄さんなら、とっくに最善の道筋を描いているんだろうな」
「ええ。でも、今のメルクニアの決断を下すのは、彼ではなくあなたよ。……自分の心に従いなさい、ウルフ。あなたが選ぶ場所が、私たちの、そしてこの子の生きる場所になるわ」
ウルフは、揺り籠で眠る赤子の穏やかな寝息を聞きながら、イザベラを引き寄せた。
安らぎの中にありながら、彼の瞳には、かつての戦場で宿していた鋭い光が戻りつつあった。
メルクニアは、このまま王国の仕組みに埋もれて死ぬことはない。
彼は静かに、雪解けの季節に備えて、一族をこの檻から連れ出すための「離脱」への歩みを、心の奥底で描き始めた。




