獅子の殿(しんがり)
凍てつく夜明け。アイゼン要塞の城壁から見下ろす雪原は、朱く汚れ、立ち昇る血煙で霞んでいた。父エジルが斃れ、七男ガインも要塞のテラスで物言わぬ骸となった。王国軍は城門付近で整列したまま、メルクニアという名の獅子が完全に息絶えるのを待つ死肉漁りのように、冷徹な静観を続けている。
「……マリス、ウルフ。父上を連れて走れ。一歩も止まるな」
長男カルムが、折れた旗竿を杖代わりに、震える膝を叩いて立ち上がった。全身の傷から流れる血が雪を黒く染めている。その左右には、死の淵に立ちながらも静謐な殺気を放つ次男ライルと三男クリスが、当然のように並び立った。
「カルム兄さん! 何を……! 一緒に逃げるんだ、父上は、俺とウルフ兄さんで……!」
「行け、マリス。これは我ら兄の矜持だ」
カルムの声は、吹雪の中でも驚くほど明瞭だった。彼は一度だけ、必死に食い下がる末弟の肩に、血塗れの手を置いた。
「かつて、この要塞で敗れたあの日……俺たちはフランを一人にしてしまった。殿を任せ、奴を帝国の手に残してしまった。あの判断の誤りが、今日まで俺の心を焼き続けてきたんだ」
カルムの瞳に、激しい後悔と、それを塗りつぶすほどの決意が宿る。
「二度と、弟を見捨てはしない。……今度は俺たちがここに残る。お前たちは、その手を離さず、共に生きろ。一族の未来は、お前たち二人が繋ぐんだ」
ウルフとマリスは、兄たちの背中に「死」ではなく、家族を守り抜くための「壁」としての覚悟を見た。二人は父の亡骸を担ぎ、涙で凍りついた視界を振り切って、王国の包囲網へと駆け出した。
追撃してくる帝国の精鋭部隊に対し、三人の兄たちは絶望的な戦力差を嘲笑うかのように、一塊となって突っ込んだ。
「フランを奪った報いだ! 貴様らの命で、その不足分を補わせてもらうぞ!」
次男ライルが重い大剣を咆哮と共に横へと払った。帝国騎兵の馬の足を断ち切り、落馬した兵の首を情け容赦なく踏み砕く。その剣筋はもはや武芸を超え、家族を奪われた怒りが生んだ破壊の化身そのものだった。
三男クリスは、冷徹な死の番人となった。彼は戦場に落ちていた数多の弓と、死体から抜き取った矢を掻き集めると、指の皮が剥け、骨が露出するほど弦を引き続けた。
「……フランが帝都で流した涙の数だけ、お前たちの血を貰い受ける」
放たれる矢は、追撃を指揮する将校たちの眼窩を、呼吸を止める暇もなく正確に射抜いていく。
カルム、ライル、クリスの三人は、帝国の前衛を文字通り肉で押し破り、ついにその本陣、「鋼鉄卿」の目前へと到達した。
「鋼鉄卿! メルクニアの代価、受け取れえええ!!」
カルムが吠え、父エジルから受け継いだ戦斧を振り下ろす。鋼鉄卿は黒剣でそれを受け止めるが、父エジルに首筋を傷つけられた軍神の動きは、かつての神速を失っていた。
「……ッ!?」
鋼鉄卿の鎧の奥で、驚愕の吐息が漏れた。
カルムの戦斧が鋼鉄卿の右肩を粉砕し、鉄の破片を肉に食い込ませる。軍神が苦悶に身を捩った瞬間、その隙を逃さず、次男ライルの大剣が下段から這い上がり、鋼鉄卿の腹部の装甲を紙のように切り裂いた。
そして、三男クリスが放った最後の一矢が、鋼鉄卿の首筋――エジルがつけた、たった一つの綻びへ、吸い込まれるように突き刺さった。
その瞬間、鋼鉄卿の思考は真っ白な絶望に染まった。
(……これが、メルクニアか。私を追い詰め、その喉元に刃を届かせたのは、皇帝の軍勢でも、他国の勇士でもない。一族の愛着と、復讐心だけで動く、この泥塗れの男たちなのか)
鉄の仮面の裏側で、軍神は初めて「恐怖」を味わっていた。
あの日、この要塞でフランを捕らえた時、自分はこの一族を「少し骨のある獲物」程度にしか見ていなかった。だが今、三人の兄たちが自らの命を薪にして放った一撃が、自身の不敗神話を、その皮膚の下にある「生身の肉」ごと貫いている。
(……エジルよ。貴様の息子たちは、私を超えた……)
鋼鉄卿の喉から、声にならない鮮血が溢れ出す。首を、肩を、腹を。同時に三箇所を貫かれた軍神は、愛馬から崩れ落ちていった。
カルム、ライル、クリス。三人の兄たちは、軍神の肉体を貫いたその刹那、残された命の火をすべて使い果たした。彼らはもはや言葉を発することもなかったが、その顔には、一族を逃がし、仇敵に一矢報いた戦士の満足げな笑みが、かすかに浮かんでいた。
夜明けの光が、赤く染まった雪原を照らす。力尽きようとしていたウルフとマリスの前に、ようやく王国軍の譜代兵たちが、整然とした隊列で姿を現した。
「メルクニアの生存者を収容せよ! 陛下が、我が愛しき義理の息子たちを待っておられる!」
兵たちの声が響く。だが、その「収容」という言葉の響きは、マリスにとって檻の扉が重厚な音を立てて閉まる音と同じだった。
父を失い、カルム、ライル、クリス、エルム、ガインの五人の兄弟を一夜にして失った。
今や「メルクニア」という名は、生き残ったこの二人の兄弟と、帝都で捕らわれの四男フランだけになった。
ユヌベクス王が望んだ通り、牙を剥く年長者はすべて消え、後に残ったのは、王女という名の鎖で繋がれ、王の「慈悲」という名の毒を飲まされる、若き二人の兄弟だけ。
マリスは、自分たちを囲む王国軍の包囲網の中で、父の亡骸を抱きしめるウルフの震える背中を見た。そして遠く、一族をこの地獄へと誘い込み、今なお要塞の高みから冷笑を浮かべる「黄金の太陽」が昇る王都へと、屈辱と憎悪を抱えたまま、帰還の途についた。




