裏切りの蹄音
ボスコ渓谷の砦に、かつてのアムル国旗が翻ることは二度となかった。
メルクニア家の面々は、アーシア軍から支給された漆黒の外套を纏い、かつて命を懸けて守り抜いた街道を、今度は「侵略者」として進んでいた。漆黒の軍勢が雪解けの泥道を埋め尽くし、無数の馬蹄が凍てついた空気を絶え間なく震わせる。
先頭を行くのは、父エジル、そして長男カルム、次男ライル、三男クリスの重装騎兵部隊である。その後方に続く隊列の中で、周囲の兵たちが一際緊張感を持って距離を置いていたのが、五男エルムと七男ガインの部隊であった。
この二人は一族の中でもとりわけ気性が荒く、緻密な戦術よりも、己の得物で敵陣を正面から突き破ることに至上の価値を置く「粗暴な武者」として知られていた。
五男エルムは、身の丈ほどもある巨大な戦斧を軽々と肩に担ぎ、その重圧で馬を唸らせていた。一方、七男ガインは、メルクニア家には珍しい細身のレイピアを愛用している。それは華奢な装飾品ではなく、鎧の隙間を確実に捉える実戦的な刺突剣だ。エルムの斧が「面」で叩き潰す力業なら、ガインのレイピアは「点」で急所を抉る、疾風の如き早業であった。一族最強クラスの破壊力と殺傷力を誇るこの二人にとって、戦場とは己の武を証明する場に他ならない。
「……なあ、フラン兄上。いつまでこの速度で進むんだ? 俺たちの部隊なら、今すぐ突っ込んで次の関所を更地にできるぜ」
エルムが低い声で問いかけた。その口調には、父や兄たちに向けるような反抗心はなく、むしろ「最強の指揮官」への進言に近い響きがあった。ガインもまた、レイピアの鍔を指先で弾きながら、期待の籠もった視線をフランに送る。
だが、その前方を行く四男フランは、振り返ることもなく、抑揚のない声で短く応えた。
「……エルム、ガイン。許可なく列を乱せば、全体の進軍速度に狂いが生じる。それはアーシア軍に『制御不能な戦力』という不安要素を与える行為だ。……それとも、前回の模擬戦での『教育』が足りなかったか?」
その瞬間、エルムとガインの背筋に、氷のような戦慄が走った。
二人は、かつて幼少の頃から幾度となく挑み、そして一度として届かなかった「絶望」を思い出した。一族随一の剛腕を誇るエルムの斧も、最速の刺突を誇るガインのレイピアも、フランの「理外の武」の前では無力だった。フランの剣には、武人の誇りも熱量もない。ただ、機械が部品を処理するように、最短経路で、最も効率的に、相手の「生命のスイッチ」を切るための精度しかなかった。
かつての手合わせで、フランに喉元へ冷たい刃を突き立てられた瞬間の死の記憶——。それは、粗暴な弟たちの野生を、理屈抜きに、そして絶対的に服従させていた。
「……いや、分かってる。兄上の言う通りだ。列は乱さねえ」
「……冗談だよ、フラン兄上。俺たちは兄上の指示を待ってるだけだ」
エルムとガインは即座に表情を引き締め、それ以上は一切の不満を漏らさず、粛々と馬を進めた。一族最強クラスの突破力を持つ弟たちが、二十歳の、剣よりも筆が似合うはずの兄の「静寂」に一言で屈したその光景は、周囲の兵たちに無言の圧力を与えた。
街道の先、最初の拠点となる『白樺の関所』が見えてくる。
そこには、メルクニア家の投降をいまだ信じられず、混乱の極致にあるアムルの守備兵たちがいた。指揮官は、父エジルの古い友人である老騎士ロラン。彼は「英雄たちが王都を救いに戻ってきた」と信じ、門を開けようとしていた。
「……エルム、ガイン。正面から暴れるのは、後でカルム兄上の許可が出てからだ。今は俺の指示する地点から、一気に地下水路へ突っ込め。……敵の命を奪う必要はない。武具を破壊し、戦意を削ぐだけでいい」
フランの冷徹な下知が飛ぶ。彼は懐から、独自の情報網で得た関所の地下構造図を取り出し、背後の弟二人に正確に放り投げた。
「水路の奥にある隠し扉をエルムの斧で粉砕しろ。内部へ侵入後、ガインはレイピアの速さで守備兵の腕や足を狙い、門の開閉装置を確保する。……父上の友人であるロラン殿を無傷で捕らえるのが、最も『効率的』な幕引きだ。できるな?」
「……了解だ、フラン兄上。扉を粉砕して、誰も殺さずに道を空ける」
「……レイピアで急所を外すのは精密な作業だが、兄上の計算通りにやってみせるよ」
エルムとガインは、自慢の得物を握り直し、闇夜に紛れて水路へと消えていった。弟たちの荒々しい武勇を、フランは「最も確実に障害を排除する手段」として、冷徹に、そして完璧に御していた。
数刻後、関所の内側から激しい破壊音と、兵たちの怒号が響き渡った。
ロラン率いる守備隊は、正面の「英雄」に目を奪われている隙に、背後から現れたエルムの斧によって扉を、ガインのレイピアによって戦意を、それぞれ断ち切られた。フランの予測通りのタイミング、予測通りの手法で、関所という組織は内部から瓦解したのである。
正面の門が内側から静かに、しかし力強く開け放たれたとき、松明の光に照らされたのは、一切の乱れなく整列したエルムとガイン、そしてその中心で、一切の汚れも寄せ付けず、無表情のまま佇むフランの姿であった。
「……白樺の関所、無力化を完了しました。父上、カルム兄上。ロラン殿を含め、主要な将兵は捕縛、あるいは武装解除済みです。進軍を継続してください」
フランの報告に、エジルは苦渋に満ちた表情で頷いた。
自分たちが選んだ「生存」という道が、フランという冷酷な管理者と、彼に絶対の忠誠を誓う粗暴な弟たちによって、どれほどの「無慈悲な正解」を積み上げていくのか。その重みに、武門メルクニアの面々は、夜明け前の寒気以上の震えを感じていた。
王都まで、残る拠点はあとわずか。
フランの瞳の中では、かつての「独立」という甘い理想は既に灰となり、代わりに「一族を最強の駒として売り込む」ための、精緻な計算式だけが回り続けていた。




