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メルクニア戦記  作者: 風花
第一章
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逆賊への変貌

 王都を脱出したフラン、エジル、ウルフ、マリスの四人は、追撃の目を掠めるようにして、ひたすらに馬を走らせた。辿り着いたボスコ渓谷は、数日前よりもさらに濃い死臭と、巻き上がる土埃に包まれている。背後には腐りきった王都、目の前には十万のアーシア大軍。メルクニア家は、文字通り逃げ場のない巨大な袋小路に立たされていた。

 渓谷の最深部、断崖に囲まれた急ごしらえの本陣。

 そこには、全身を敵の返り血で黒く染め、鎧の隙間に砂を噛んだ長男カルム、そして次男ライル、三男クリスら、前線を死守し続けてきた兄弟たちが顔を揃えていた。


「……親父、無事だったか」

 カルムが砂混じりの声を絞り出す。その瞳は連日の不眠不休の指揮で血走り、頬はこけていたが、父エジルの姿を認めると、一瞬だけ安堵の影が差した。

「ああ。フランの独断に救われた。……カルム、戦況は」

 エジルの問いに、カルムは傍らの使い古された地図を指差した。その指先は、極度の疲労と、それ以上に深い「絶望」によって微かに震えている。

「最悪だ。敵の増援は止まらない。だが、それ以上に……。王都からの補給が完全に途絶えた。届いたのは、最後通告とも呼べる一通の書状だけだ」

 カルムが差し出した書状には、現場の血を無視した、あまりにも無慈悲な言葉が並んでいた。

『裏切り者のメルクニアに与える糧食はない。もし一族の忠義を証明したければ、その身を挺して敵を一掃せよ。勝利のみが、貴公らの潔白の証となる』

 その文面を目にした瞬間、陣内に重苦しい、凍りつくような沈黙が降りた。命を懸けて守っている背後の国から、食料すら断たれた上で「死んで証明しろ」と突きつけられたのだ。それは、現場の人間を「使い捨ての駒」としか見ていない、中央の傲慢そのものであった。


「……さて。現場の惨状は、想像以上だな」

 沈黙を破ったのは、焚き火の傍らで一人、冷めた目で地図を眺めていたフランだった。彼は外套に付いた埃を払い、一族の誰もが口にすることを避けていた「組織の腐敗」という真実を、氷のような言葉で突きつけた。

「カルム兄上。その書状を書いた奴らは、最初から俺たちを助ける気なんてない。本気で俺たちを殺そうとしている。アーシアへの『供え物』としてな。慎んだ結果が、このザマだ。父上、兄上たち。いい加減に理解したらどうだ? 俺たちが守っている『組織』は、もう死んでいる」

 フランの瞳に、静かな熱が宿る。それは二十歳そこそこの彼が抱く、純粋で、それゆえに過激な「理想」であった。

「……俺の提案は一つだ。アムルからも、アーシアからも決別する。俺たちメルクニアはこのボスコ渓谷で『独立』を宣言すべきだ」

 その言葉に、兄弟たちの間に戦慄が走った。

「独立だと? バカなことを言うな。食料も兵も尽きかけているこの状況で、二大国を相手に立ち行くとでも思っているのか!」

 三男クリスが怒鳴るが、フランは鉄仮面のような無表情を崩さず、淡々と反論する。

「できる。この地形、そして俺が王都で握ってきた弱みの数々。それらを使えば、両国を競り合わせ、その隙間に俺たちの国を打ち立てることは可能だ。現場の苦労を知らぬ連中に、俺たちの価値を思い知らせてやればいい。腐った組織の一部でいる必要なんてない。俺たちが、新しい組織の頂点になればいい」

 フランの言葉は、一種の魔力を持っていた。現場を見捨てた本国への復讐心。自分たちの力を正当に評価させたいという渇望。それは、若きフランが抱く、歪んだ正義感でもあった。

 だが、その熱弁を遮ったのは、長男カルムの冷徹な一言だった。

「……フラン。お前の言うことは、確かに美しい。だが、それは『現場の正論』でしかない」

 カルムは、血に汚れた己の手を見つめた。

「独立などすれば、ここにいる五千の兵、そして領地に残った家族はどうなる? 両国から挟み撃ちにされ、一族の血は一滴残らず途絶えるだろう。お前の策は『個の武勇』に頼りすぎている。組織を率いる者の視点ではない」

 フランの眉が微かに動く。

「……ならば、どうする。このまま、あのバカげた命令に従って、笑われながら全滅するのか?」

「いや」

 ここで、沈黙を守っていた父エジルが、地鳴りのような声で割って入った。

「……アーシアに投降する」

 フランの目が見開かれた。

「父上……!? あなたが、誇りを捨てて降伏しろと言うのですか? 独立して、俺たちの力を見せつけるべきだと言ったのは——」

「フラン、お前はまだ若い。……独立とは、守るべきものをすべて捨てる覚悟がある者が口にする言葉だ。だが、私にはまだ、守らねばならぬ一族の血がある」

 エジルの瞳には、フランのような眩い理想ではなく、深く、暗い「生存への執念」があった。

「……アーシアの王ユヌベクスは、アムルの王とは違い、力を冷徹に評価する男だ。我らが軍門に下れば、メルクニアの血は残る。たとえそれが『逆賊』という名の汚泥に塗れた道であろうともな」

「親父の言う通りだ」

 カルムが、重々しく頷いた。

「フラン、お前の集めた情報は役に立つ。だが、それは独立のための武器ではない。アーシアと『対等な取引』をするためのチップだ。我々はアーシアの先鋒となり、アムルを討つ。……それが、このボスコ渓谷で死んでいった兵たちを無駄にしない、唯一の現実的な選択だ」

 フランは拳を固く握りしめた。自分の描いた「独立」という鮮やかな地図が、父と兄の「一族を守る」という泥臭く、しかし抗いがたい現実の前に、脆くも崩れ去っていくのを感じた。二十歳の彼にはまだ、数千人の命を背負って泥を啜る覚悟が、父たちほどには備わっていなかったのだ。

「……わかったよ。結局、俺の理想なんて、現場のわがままに過ぎないってことか」

 フランは自嘲気味に呟き、感情の消えた鉄仮面のような無表情へと戻った。

「いいでしょう。なら、徹底的に『逆賊』を演じてやるよ。父上たちが一族の生存を重んじるなら、俺はそのための『最も汚い仕事』を引き受けよう」

 こうして、会議は決着した。フランの独立派としての過激な理想は、メルクニアという組織を存続させるための「投降」という苦渋の決断へと飲み込まれていったのである。


 数時間後。

 ボスコ渓谷の砦から、一本の白い旗が上がった。

 それは、英雄メルクニア家が、その武名を捨て、生き残るために「悪」へと堕ちることを選んだ瞬間であった。

「……さて。掃除を始めようか。まずは、俺の理想を壊した、あの腐った王都からだ」

 フランはアーシアの陣営へと向かう馬の上で、遠く王都の空を見つめていた。

 彼の瞳からは、若者らしい輝きが完全に消え、冷徹な目的遂行の意志だけが、鉄の仮面のようにその横顔を覆っていた。



*****



 白旗を掲げたメルクニアの一行が、アーシア軍の包囲網を抜けて本陣へと向かう。

 周囲を取り囲むアーシア兵たちの目は、驚愕と畏怖に満ちていた。昨日まで自分たちを地獄の淵に突き落としていた「死神」たちが、自ら門を開いて現れたのだ。

 アーシア国王ユヌベクスの天幕。

 玉座に座るユヌベクスは、鋭い眼光を放つ中年の男だった。彼は、跪くエジルとカルム、そして一歩下がり、一切の感情を排除した鉄仮面のような無表情で佇むフランをじっくりと観察する。

(……この若造、ただ者ではないな。降伏の場にありながら、その眼光には屈辱も恐怖も、あるいは迎合の光すらも見えぬ)

 ユヌベクスは、フランの持つ「底知れぬ静寂」に警戒心と好奇心を同時に抱いた。

「……まさか、メルクニアが自ら来るとはな。アムルの王も、宝の持ち腐れが過ぎるようだ。特に、そこの者は」

「陛下。我らメルクニア家は、貴国への投降を申し出る。条件はただ一つ……。アムル王都への攻撃、その先鋒を我ら一族に任せていただきたい」

 エジルの声には、迷いがない。

「面白い。……フランと言ったか。貴殿がこの『投降』の絵を描いたのだな?」

 ユヌベクスが、フランを名指しした。

「……私は、父や兄に従う一族の一員に過ぎません」

 フランは抑揚のない声で答えた。その表情は一筋の波も立たぬ湖面のように静かだった。

「ですが、この『取引』が貴国にとって最大の利益になることは、アムルの腐った幹を切り落とす事で証明します。それが、アーシアにとって最も安上がりな勝利です。感情に価値はありません。あるのはただ、結果のみです」

 ユヌベクスは満足げに頷いた。この冷徹な若者が、一族の持つ「武勇」という荒削りな力に、「知略」という鋭利な刃を研ぎ澄ませていることを確信したのだ。

「よかろう。メルクニアの武を、我がアーシアの剣として迎え入れる。明朝、王都へ向けて進軍を開始せよ。貴公らの『清掃』、見せてもらうぞ」

 救国の英雄メルクニア家は、歴史上最大の「逆賊」へと変貌を遂げた。

 フランの瞳の中では、かつての独立という理想が灰となって消え、代わりに「組織を存続させるための冷酷な合理性」が、抜き身の剣のように光を放っていた。


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