理外の暴力
奪い取った鍵の束が、外套の内で冷たい音を立てる。
フランは影に溶け込むようにして、王宮の地下深く、陽光の届かぬ監獄へと足を踏み入れた。石造りの廊下は絶えず湿り気を帯び、壁に掛けられた松明の炎が時おり爆ぜる音だけが、死んだような静寂の中に響き渡る。
(……現場の管理を怠れば、こうも容易く綻びが出る。看守どもの借金と酒癖を把握していれば、鍵を奪うのは赤子の手をひねるより容易い)
フランは内心で冷ややかに毒づいた。彼が事前に仕掛けた「情報の毒」——看守たちの不正や借金に関する噂の流布——によって、監獄の警備体制は内部から瓦解していた。互いを疑い、保身に走る者たちの隙を突くのは、フランにとって剣を振るうまでもない「作業」に過ぎない。
一番奥、ひときわ重厚な鉄格子の前で、フランは足を止めた。
そこには、メルクニア家当主エジル、そして六男ウルフと八男マリスが収監されていた。
地下牢に響く足音が耳に入ったか、あぐらをかき、瞑想するように座っていたエジルが、静かに目を開けた。その声には、死を待つ者の弱々しさは微塵もない。湿った床の上にあっても、その背筋は鋼のように伸び、一族の長としての威厳を失っていなかった。
「父上。……迎えに来た。案の定、中央の連中には言葉など一滴の価値もなかったようですね」
「兄上!」
ウルフとマリスが、鉄格子に駆け寄る。
二人の瞳には、兄への敬意と、現状を打破しようとする強い意志が宿っていた。監獄の劣悪な食事と環境にあっても、彼らの背筋は伸び、指先はいつでも獲物を仕留められるよう硬く結ばれている。彼らはフランのように裏工作はできないが、武門の誇りにかけて、己の肉体を研ぎ澄ますことだけは片時も忘れなかったのだ。
「フラン、何をしに来た。剣を抜けば逆賊だと、私は言ったはずだ。我が身の潔白は、王の前でこそ証明すべきもの」
エジルがゆっくりと立ち上がる。その巨躯から放たれる威圧感は、牢獄の狭い壁すら押し広げるかのようだ。
「ええ、聞きましたよ。ですが父上、機能していないルールを守って全滅するのは『忠義』ではなく、ただの『管理不足』です。……それと、お二人。手ぶらで帰すほど、俺は甘くない」
フランは腰に下げた布袋を鉄格子の隙間から放り込んだ。重々しい金属音が響く。中から現れたのは、フランが潜入の途中で近衛の武器庫から「徴発」してきた、三振りの名剣だった。
「これは……業物ではないが、筋は悪くないな」
エジルが剣を抜き、その重心を確かめるように振る。空気を切り裂く鋭い音が牢内に響いた。ウルフとマリスも己の武器を手に取った瞬間、その表情から「囚人」の影が消え、メルクニアの「武士」としての魂が回帰した。
「兄上、外の状況はいかがでしょうか。ボスコ渓谷の兄上たちは、ご無事ですか」
ウルフが、真摯な口調で問う。その声には、己の身よりも、前線で戦う兄弟たちを案じる武人としての情愛が籠もっていた。
「最悪だな。バドス一派が近衛を総動員して、この一帯を物理的に封鎖し始めている。情報の回る速さが、俺の予測を上回った。……だが、俺がここまで来た以上、選択肢は一つだ。……行くぞ」
フランが鍵を開け、鉄格子が錆びた重い音を立てて開く。
その瞬間だった。廊下の先から、無数の軍靴が石畳を叩く激しい音が反響してきた。
「逆賊メルクニアが脱獄したぞ! 出入り口を完全に封鎖せよ! 抵抗する者は生死を問わん!」
怒号と共に、大型の盾を構えた近衛兵たちが雪崩れ込んでくる。その数、およそ五十。狭い地下廊下という地形において、数の暴力は絶対的な脅威となるはずだった。
「ウルフ、マリス。道を切り拓け。余計な情けは一族の命取りとなるぞ」
フランの短い下知。それは、慈悲を排した武人の号令だった。
二人の弟が、弾かれたように飛び出した。
ウルフは正攻法の見事な剣筋で、先頭の兵が突き出した槍を最小限の動きで受け流し、鋭い踏み込みで肩口を斬り裂く。マリスもまた、若さに似合わぬ確かな太刀筋で、盾の隙間を縫うようにして敵の足を払い、無力化していく。
「……御免!」
マリスの叫びは、敵への憎しみではなく、己の義務を果たすための真剣な咆哮だった。二人の剣は、メルクニア家が代々受け継いできた、剛健かつ流麗な「武の王道」そのものであった。
だが、その二人とは明らかに「色」の違う動きを見せたのがフランだった。
彼は弟たちが敵と「対峙」している間、一人だけ敵を「抹消」していた。
フランの剣には、武門の美しさなど微塵もない。相手が剣を振り上げる予備動作を察知した瞬間に指先を断ち、盾で守る一瞬の隙に膝の裏を抉る。それは、数多の戦場と情報の闇を潜り抜け、若干二十歳そこそこの若さで辿り着いた、徹底的な効率化に基づく「殺人術」であった。
感情を一切排し、機械的に急所を突き続けるフランの姿は、同じ血を引くウルフたちの目から見ても、寒気を覚えるほどに異質であった。
「……三秒。一人の処理に時間をかけすぎだ。現場では、その遅れが死に直結する」
冷徹な独白と共に、フランは兵たちの頭上を軽やかに跳ね、後方で安全を確保しながら指示を出していた指揮官の懐へ、影のように潜り込んだ。
指揮官が腰の剣に手をかける暇さえ与えず、フランの逆手に持った短剣が、その喉元を無慈悲に、そして正確に貫いた。
指揮官を失い、統制を失った近衛兵たちは、ウルフたちの圧倒的な気迫と、フランの「理外の暴力」に完全に気圧された。彼らが目にしているのは、二十歳の青年ではない。数千の死を看取り、組織の急所を冷徹に見抜く、老獪な支配者の眼光であった。
「下がらせるな! 数の利を活かせ!」
後続の兵が虚勢を張るが、フランが一歩踏み出すだけで、彼らの前列は崩れるように後退した。
「……これが、今まで忠義を尽くしてきた結果ですよ、父上。これでもまだ王に忠義を尽くす価値があると思いますか?」
フランは血を拭うことすらなく、冷ややかな声をエジルに向けた。
エジルは答えなかった。ただ、目の前の凄惨な光景と、あまりに合理的に死を積み重ねる息子の姿を、複雑な想いで見つめていた。
「行くぞ。……夜明けまでに、この腐りきった王都を抜ける」
フランは翻って走り出した。
地上へ続く階段を駆け上がる四人の影。
背後では、崩れ落ちた近衛兵たちの呻き声が、地下牢の闇に吸い込まれていく。
地上に出た彼らを迎えたのは、白み始めた東の空と、冷たい夜明けの風だった。
それは、最前線のボスコ渓谷で死闘を演じている長兄たちが浴びている、あの乾いた風と同じ匂いがした。




