王都潜入
ボスコ渓谷の硝煙と、馬を走らせ続けた返り血の匂い。それが外套の繊維の奥深くまで染み付いている。だが、四男フランが今身を置いているのは、湿り気を帯びた王都アムルの、どぶ川の臭いが立ち込める裏路地であった。
(……組織が腐る予兆は、いつも末端の『情報の歪み』から始まる)
フランは内心で吐き捨てるようにそう毒づきながら、薄汚れた革張りの帽子を深く被り直した。
彼が冷めた目で見つめる王都は、最前線の凄惨な光景を知る者からすれば、吐き気を催すほどの違和感に満ちていた。広場では極彩色の衣装を纏った大道芸人が火を吹き、拍手を浴びている。大通りに面した高級料亭からは、着飾った貴族たちが夜ごとの宴に興じる笑い声が漏れ、上質なワインの香りが漂ってくる。
だが、その喧騒の底には、泥のような「悪意」が沈殿していた。
数日前まで「国の守護神」と崇めていたメルクニア家に通敵の疑いがかかった途端、王都の空気は一変したのである。民衆は、自分たちを長年守ってきた一族への感謝を、驚くべき速さで忘却していた。
「裏切り者のメルクニアが捕まったんだ。これでようやく、本当の『忠臣』たちが国を守ってくれる」
「ああ、あの野蛮な連中、アーシアの金で俺たちを売り飛ばそうとしていたらしいぜ」
「どうりで、前線から一向に勝利の報せが届かないわけだ。わざと負けていたんだろう」
酒場の隅から漏れ聞こえるのは、根拠のない中傷と、裏切られたと思い込んだ者たちの身勝手な憤怒ばかりだ。
彼らにとって、アーシア国の侵攻という現実の脅威は、もはや「メルクニアという悪」を叩くための娯楽に成り下がっていた。最前線で長兄カルムたちが、十万の軍勢をわずか五千の精鋭で、文字通り命を削りながら食い止めている絶望的な現実など、誰の目にも入っていない。
(民には『国境付近の小競り合い』としか伝えられず、一方で『メルクニアの裏切り』だけは大々的に喧伝されている。……救いようがないな。現場で流した血の一滴一滴が、中枢に届くまでにすべて『裏切りの証拠』に書き換えられている)
この「情報の意図的な断絶」こそが、フランが若干二十歳そこそこの若さで、私財を投じて独自の情報網を築き上げた最大の理由だった。
父エジルや、武勇にのみ生きる兄たちは、自分たちが戦場で結果を出し続けている限り、背後の国が揺らぐはずがないと信じていた。だが、フランだけは違った。彼は初陣の際、前線の兵糧が不足しているにもかかわらず、本部の役人が「メルクニア家が物資を横流ししている」という噂を流して保身を図る実態を目の当たりにした。その時から、彼は「公式な言葉」を一切信じなくなったのである。
フランは少年と言ってもいい年齢の頃から、私財や戦功で得た報奨を惜しみなく使い、乞食、売春婦、博徒、そして酒場の店主たちを銀貨で繋ぎ、王宮の裏側で囁かれる「真実の欠片」を拾い集める仕組みを独力で構築してきた。その手腕は、数十年を宮廷の陰謀に費やした老政治家をも凌駕する、徹底して実利的なものであった。
フランは、路地裏の奥にある地下酒場『鼠の隠れ家』の扉を潜った。
「……待たせたな」
影に溶け込むように座ったフランの前に、初老の店主が音もなく安酒を差し出す。そのグラスの底、琥珀色の液体の向こう側に、丸められた紙片が沈んでいた。店主は声を潜める。
「旦那、今すぐ立ち去りな。街の空気は最悪だ。メルクニアの親類を見つけたら、懸賞金が出るって噂まである」
「だからこそ、俺が動く。宮廷の公式な報告書には『自分たちの地位を脅かさない嘘』しか並んでいないからな」
フランは紙片を広げ、内容を脳内に叩き込む。近衛兵の交代時間、地下牢の看守たちの極秘の借金リスト。そして、今回の「偽造密書」をでっち上げた王の側近・バドスの弱み。
「処刑は明後日の早朝……。罪状は『通敵罪』か。現場で泥を啜っている者たちに、安全な場所から石を投げるとは。連中、よくもこれだけの空想を公文書に仕立て上げたものだ」
フランは立ち上がり、壁際で燃える暖炉へと歩み寄った。濡れた紙片を火の中に放り込む。一瞬、青白い炎が上がり、卑劣な計画の骨子が灰へと姿を変えた。
(……本部の人間は、現場の人間が『命令一つで動く駒』だと思っている。だが、駒を動かしているのは感情であり、生活であり、そして弱みだ。彼らが信じている権威など、情報の刃一枚で簡単に切り裂けることを教えてやらねばな)
二十歳の若者が持つべき溌剌とした輝きなど、そこには一切ない。獲物の喉元を狙う、影の支配者の冷徹さだけが、外套の影に潜んでいた。
(父上。あなたは『剣を抜けば逆賊だ』と言った。それは、ルールが機能している組織での正論だ。……だが、既にルールが崩壊し、腐敗が極まった場所では、正論はただの自殺志願でしかない。俺が今から行うのは、剣すら抜かぬ『清掃』だ。泥棒に正義を説いても無駄なように、この国には一度、徹底的な浄化が必要なのだ)
王宮の地下牢へと潜る前に、フランには寄るべき場所があった。
*****
フランがまず向かったのは、王の最側近である文官、バドスの隠し別宅であった。
バドスは表向きは清貧を装い、「メルクニアの贅沢が国を滅ぼす」と説いていたが、フランの情報網は彼がアーシア国からの賄賂をこの別宅に運び込ませている事実を正確に掴んでいた。
二階の窓から侵入したフランが見たのは、恰幅の良いバドスが、安らかな寝息を立てている姿であった。
「……良い身分だな、バドス殿。ボスコ渓谷の土の味を、お前にも教えてやりたくなった」
フランはベッドの上に立ち、枕を蹴り飛ばす。その衝撃で飛び起きたバドスが見たのは、月光を背負い、死神のようなシルエットで佇むフランであった。
「な、何奴だ! 近衛! 近衛はおらんのか!」
「無駄だ。お前が近衛に支払う手当を中抜きしているせいで、彼らは今頃、階下の酒蔵で勝手に酒を飲んでいる。……お前が作った『組織の歪み』に、お前自身が食い殺される番だ」
フランは懐から、一通の書類を取り出した。
「これは、お前がアーシア国と交わした本物の書状……ではない。俺が酒場で精巧に偽造させた、『お前が王を暗殺してアーシアへ亡命する計画書』だ。筆跡も印章も完璧に模してある」
「な……! デタラメだ! こんなものは証拠にならない!」
「ああ、デタラメだ。だが、猜疑心の強い我が王がこれを見たらどう思うかな? お前が父上を陥れた時と同じように、王は『真実かどうか』など興味はない。自分を脅かす存在を消したいだけだ。……お前が一番よく知っているだろう?」
フランはバドスの喉元に、短剣の切っ先を突きつけた。
「……今すぐ、地下牢の鍵と、看守への出入り許可証を渡せ。さもなくば、明朝の処刑台に立つのは、父上ではなくお前になる」
震える手で差し出された鍵を奪い取ると、フランは一瞥もくれずに部屋を去った。
王都の夜は、これからが本番である。




