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メルクニア戦記  作者: 風花
第四章
68/113

氷の死座

 石造りの床に横たえられたエルムの顔は、皮肉なほど穏やかだった。

 三男クリスの手によって丁寧に縫い合わされた喉元の傷跡からは、もはや鮮血の一滴も流れていない。その亡骸の上には、メルクニアの紋章旗が静かに掛けられていた。

 ろうそくの火が揺れる中、次男ライルが血を吐くような声で沈黙を破った。

「……父上。いつまで耐えればいい。エルムは殺された。王は、娘婿の兄弟であるエルムの死すら、交渉の道具にしたんだ。これ以上、この国に何の義理があるというのです。これではアムルの時と同じだ」

「……義理ではない。血だ」

 エジルの声は、氷のように冷たかった。エルムの手を握りしめたまま、彼は息子を振り返ることさえしない。

「……ライル。ウルフの妻イザベラ様は王の第一王女だ。そしてマリス、お前の婚約者エレナ様は第二王女だ。我らが今ここで反旗を翻せば、彼女たちはどうなる? 夫の一族が反逆したとなれば、あの冷酷な王は迷わず二人を『不浄の種』として処断するだろう。……ウルフ、お前はイザベラ様を殺せるのか? マリス、お前はエレナ様を見捨てられるのか?」

 問いかけられたウルフは顔を伏せて拳を震わせ、マリスは言葉を失って立ち尽くした。

 ユヌベクス王が愛娘たちをメルクニアに与えたのは、信頼の証などではない。メルクニアの喉元に食い込ませた、決して外せない「人質の牙」だったのだ。


「王は、エルムの死を不問に付す条件として、我らに明朝の先鋒を命じた」

 エジルはゆっくりと立ち上がった。その瞳には、もはや戦士の熱はなく、底知れない義務感だけが宿っている。

「鋼鉄卿の真正面だ。王は、自分に牙を剥いたエルムという『警鐘』を受け、我らを今のうちに使い潰すことに決めた。……これに従わねば、ウルフとマリスの妻たちが死ぬ。従えば、我ら自身が全滅する。どちらを選んでも、ユヌベクスにとっては不都合のない盤面よ」

「そんな……それじゃ、エルム兄さんは何のために死んだんだよ!」

 マリスが叫んだ。その脳裏には、先ほど別れたレオナールの悲痛な顔が浮かぶ。レオナールもまた、姉たちの夫であるメルクニアを案じながら、父王の非情な策を止めることができずにいるのだ。

「兄さんは、俺たちが王の犬にならないために……俺たちがこれ以上人質として利用されないために、自分を殺したんじゃないのか!? ここで言いなりになったら、兄さんの死が、ただの『王への謝罪』になっちまう!」

「……分かっている、マリス。分かっている。だがな……」

 エジルは初めてマリスを向き合った。その瞳に滲む苦渋は、一族の長として、そして一人の親としての限界を物語っていた。

「……俺は、これ以上、息子も、その連れ合いも、失いたくないのだ。エルムが命を賭して守ったのは、お前たちの未来だ。その未来いのちを、今ここで投げ出すわけにはいかぬ」


 やがて、エジルは祭壇に置かれた自身の兜を静かに手に取った。

 

「……明朝、我らは先鋒として鋼鉄卿に当たる。これは王への忠誠ではない。メルクニアの名において、嫁いできた王女たちの立場を……彼女たちの命を繋ぎ止めるための『代価』だ」

 エジルはエルムの亡骸を見下ろし、呪いのように低い声で呟いた。

「我らが最前線で軍神を食い止める限り、王は娘たちを殺せぬ。……奴が『これほど忠実で、かつ恐ろしい婿共を殺せば、王国の防波堤が崩れる』と、その臆病な魂に刻み込むまで、我らは戦場を血で塗り固めるしかない」

 それは、服従でも反逆でもない。

 愛する者たちを人質に取られた者が選ぶ、最も悲惨で、最も誠実な「地獄への行軍」の宣言だった。

「クリス。……フランに伝令は出せるか」

「……不可能です。要塞内の通信は、パルパト侯爵の息がかかった隠密によって完全に遮断されています。今、兄上に助けを求めることは、兄上の帝国での立場を危うくし、我らの背信を疑わせる隙を与えるだけです」

「そうか。……ならば、奴には知らせるな。奴は奴の戦場で、数字を動かしていればいい。……我らは、ここで泥を啜り、エルムの分まで盾となるだけだ」

 エジルはエルムの遺体に一礼すると、一度も振り返ることなく礼拝堂を後にした。

 明朝、彼らは死地へ向かう。

 家族を守るために、自分たちの命を最も「高価な盾」として使い捨てるために。

 外では再び雪が降り始め、エルムの流した血を、無慈悲に白く塗り潰していった。王国の闇は、獅子の誇りさえも、その冷たい雪の下に閉じ込めようとしていた。

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