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メルクニア戦記  作者: 風花
第四章
67/113

不変の誇り

 石畳の上に広がった鮮血が、冷たい外気に触れて白く煙を上げている。

 広場を埋め尽くしたのは、王直属の近衛兵とパルパト侯爵配下の譜代兵、およそ五百。対するは、血まみれの戦斧を杖代わりに立ち尽くす五男エルムと、彼を死守せんとするメルクニアの私兵わずか数十名。

「武器を捨てろ、野蛮人め! 貴様が殺したのは王国の千人長だぞ!」

「エジル卿はどうした! 息子一人制御できんのか、これだから外様は!」

 盾を叩き、罵声を浴びせる譜代の兵たち。彼らの目は、同胞を殺された怒りよりも、目の前の「獅子」を公然と嬲り殺しにできる好機への、卑屈な悦びに満ちていた。

 そこへ、要塞の二階テラスの重厚な扉が開く。現れたのは、アーシア国王ユヌベクス。その隣には、勝ち誇った笑みを隠そうともしないパルパト侯爵が控えていた。

「皆、控えよ。予が話そう」

 ユヌベクスの静かな、しかし有無を言わせぬ声が広場を支配した。喧騒が引き潮のように消え、重苦しい沈黙が降りる。王は手すりに細い指をかけ、眼下のエルムを、まるで壊れた愛玩物を見るような冷淡な目で見下ろした。

「エルム・メルクニアよ。貴殿の働きは、アイゼン奪還において目覚ましいものであった。だが、今の暴挙は弁明の余地なき殺人だ。本来ならば、この場で一族諸共、反逆の罪に問うべきところだが……」

 ユヌベクスは言葉を切り、広場の一角で必死に耐えている父エジルや兄たちの姿をゆっくりと眺めた。

「予は慈悲深い。メルクニアの武威を失うのは王国の損失だ。……そこで、エジル卿。一つ提案がある。エルムの身柄を王宮の地下牢へ移し、無期限の謹慎とする。その代わり、今後メルクニアの全兵権を予に返上せよ。一族は王直属の『影』として、予の命令のみに従う私兵となれ。そうすれば、エルムの命も、メルクニアの家名も、予が守ってやろう」

 それは慈悲などではない。

 エルムを「人質」として永久に生かし続け、一族を去勢し、王の指先一つで動く奴隷に作り替えるという、最も残酷な「死刑宣告」であった。


「……ふざけるな」

 メルクニアの陣営で、次男ライルが低く唸った。剣の柄を握る指が、怒りで白く震えている。

「エルムを盾にして、俺たちに犬になれと言うのか。父上、あんな条件を飲めば、俺たちは死ぬまであの王の靴を舐め続けることになります!」

 だが、家長であるエジルの顔は、苦悶に歪んでいた。

「……しかし、飲まねばエルムが死ぬ。それだけではない。王女たち……イザベラもエレナも、反逆者の妻として処刑、あるいは追放されるだろう。一族が、ここで終わってしまうのだぞ」

 三男クリスは、冷徹な目でテラスの王を見据えていた。

「……王は、フランがいなくなった後の『穴』を、エルムで埋めるつもりだ。フランが知略で王を支えるなら、エルムを鎖に繋いで武力として振り回す。どちらにせよ、メルクニアという組織を解体し、個々の部品として王家のコレクションに加えるつもりです。……最悪の『効率』だ」

 マリスは広場に駆け降りたものの、兵たちの壁に阻まれ、兄たちの元へ辿り着けない。

「エルム兄さん! 逃げてくれ! レオが……レオが道を作ってくれるって言ったんだ!」

 叫びは、冷たい風にかき消された。エルムには、その言葉が届いているのか、いないのか。彼はただ、血塗られた戦斧を見つめていた。


 エルムはゆっくりと顔を上げた。

 彼の視線は、テラスで自分を見下ろすユヌベクスを通り越し、そのさらに高いところにある、灰色の冬空を見つめているようだった。

(……フラン兄上。あんたなら、この盤面をどう見る?)

 フランなら、きっとこう言うだろう。

『エルム。お前という個体の生存コストが、一族全体の資産価値を上回っている。お前が生きている限り、メルクニアは王に無限の搾取を許すことになる。これは、極めて非効率な投資だ』と。

 エルムはふっと、優しく、どこか悲しげに笑った。

 自分はフランのように頭は良くない。クリスのように冷静でもない。ただ、誰よりもこの家族を愛していた。家族のために斧を振るうことだけが、自分の誇りだった。

「陛下。……あんたの言い分は分かった。だが、一つだけ勘違いしてる」

 エルムの声が、広場全体に響き渡った。

「メルクニアは、あんたの私兵いぬじゃない。俺たちは、誇りのために剣を振るう獅子だ。そして獅子は……檻の中で飼い殺されるくらいなら、自ら舌を噛み切るもんだ」

 エルムは、愛用してきた重厚な戦斧を、無造作に石畳へと捨てた。カラン、と乾いた音が静まり返った広場に響く。彼は迷いのない手つきで、腰に差した短剣を抜き放った。

「エルム、やめろ!!」

 エジルが、ライルが、マリスが、一斉に叫び、兵の壁を突き破ろうと突き進む。

 だが、エルムの決意はそれよりも速かった。

「父上、兄さんたち。……メルクニアを、頼んだぞ」

 エルムは、テラスで目を見開いたユヌベクスを真っ直ぐに射抜くような視線で見据えたまま、その刃を、自らの喉元へと深く、迷いなく叩き込んだ。

「――っ!!」

 声にならない叫びが広場に満ちる。

 鮮血が、降り始めた雪を真っ赤に染め上げ、エルムの巨体がゆっくりと、しかし誇り高く崩れ落ちていく。


 静寂。

 ただ、吹雪の音だけが虚しく響いていた。

 ユヌベクス王の顔から、余裕の笑みが消え失せていた。彼が欲しかったのは「エルムという人質」であり、その命を盾にメルクニアを支配するはずだった。だが、エルムは自らの命を「捨てる」ことで、王の手から鎖を奪い取り、盤面そのものを粉砕したのだ。

 ヴォルガ侯爵が顔を真っ青にして後ずさる。

「……な、なんという狂気だ。メルクニアの連中は、正気ではない……!」

 広場の中央で、エジルは崩れ落ちた息子の亡骸を抱きしめ、天を仰いで慟哭した。ライルとクリスは、抜いた剣を鞘に戻すことすら忘れ、ただ呆然と立ち尽くしている。

 最上階の窓からこれを見ていたレオナール王子は、自身の無力さと、友の兄が選んだあまりにも凄絶な「答え」に、喉を掻きむしって泣き崩れた。

 エルム・メルクニア。

 彼はその死をもって、王の謀略を打ち砕き、一族の自由を守り抜いた。

 だが、それは同時に、メルクニア一族がアーシア王国という「システム」の中で、もはや決して共存できない存在になったことを意味していた。

 雪が降り積もる。エルムの亡骸を白く覆い隠すように。

 その光景は、これから始まる「崩壊への序曲」の、最初の、そして最も悲劇的な一拍であった。

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