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メルクニア戦記  作者: 風花
第四章
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獅子の堪忍袋

 軍議が終わった後も、アイゼン要塞内の空気は淀み続けていた。

 王の身の回りの品を運ぶ譜代の兵たちは、前線で泥を啜り、仲間を失ったばかりのメルクニアの将兵を「卑しい降将の犬」と呼び、露骨に見下していた。

 事件は、要塞の炊き出し場で起きた。

 五男エルムが、負傷した部下のためにわずかな粥を運ぼうとした時のことだ。

「おい、どけ。それは陛下の愛馬に与える飼料より価値のない代物だ。汚い格好で陛下の通り道を歩くなと言っただろう」

 立ちはだかったのは、パルパト侯爵の息がかかった譜代の千人長だった。煌びやかな、しかし一度も血に染まったことのない鎧を着たその男は、エルムの手から粥の器を蹴り飛ばした。

 石畳に散らばり、泥にまみれた粥を見つめ、エルムの頭の中で何かが音を立てて切れた。

 アイアン・ピークでの敗北、四男フランの喪失、そして今の屈辱。

「……今、なんと言った。こいつらは、お前たちが王都でふんぞり返っている間に、この国を守るために指を、腕を、命を捨てた男たちだぞ」

「ふん、所誠は裏切り者のメルクニアだろう。その四男坊は今頃帝国の女に尻を振って、俺たちを売る算段をしているらしいじゃないか。お前もそのうち――」

 男の言葉が最後まで紡がれることはなかった。エルムの背に背負われた巨大な戦斧が、爆ぜるような速度で振り抜かれた。

「貴様のような屑に、兄上を語る資格はない!」

 凄まじい断裂音。

 洗練されただけの譜代の鎧など、鍛え上げられたエルムの剛腕が振るう斧の前では紙等同然だった。千人長は叫ぶ暇もなく、肩口から斜めに叩き斬られ、その肉体は文字通り「粉砕」されて絶命した。

 周囲の空気が凍りつく。エルムは返り血を浴びたまま、野獣のような瞳で周囲の譜代兵を睨みつけた。

「殺したい奴から来い。……俺たちは、死神(鋼鉄卿)を相手にしてきたんだ。お前らのような温室育ちを殺すなど、欠伸が出るぞ」

 メルクニアの私兵たちが抜刀し、エルムの背後を固める。広場は一瞬にして身内同士が殺し合う一触即発の戦場へと化した。


 一方、眼下で起きた惨劇の余波が、騒乱の熱気と共に要塞の最上階まで届いていた。

 八男マリスは、一人の少年と向き合っていた。アーシア王国の第一王子、レオナール。

「……マリス。今、エルム殿が譜代の将を――戦斧で両断した。広場は、今にも身内同士の殺し合いが始まらんとしている」

 レオナールは、窓の下から響く怒号を聞きながら、震える声で語りかけた。

「父上はこの暴発を、君たちを永遠に逃がさないための『鎖』にされた。……パルパト侯爵は一族の即時処刑を求めて叫んでいるが、父上はそれを許さなかった。代わりに、エルム殿の犯した罪を免罪する条件として、メルクニアの全兵権を王直属に差し出すよう、エジル卿に迫るつもりだ」

 マリスは息を呑んだ。皆殺しにするよりも残酷な一手。

 イザベラやエレナとの婚姻は、もはや対等な同盟の証ではなく、「反逆者の血筋を、王女が慈悲で繋ぎ止めている」という、一生消えない屈辱の象徴へ塗り替えられようとしている。

「父上は、姉上たちの婚姻すら利用されたんだ。……『反逆者の兄弟を持つ妻』という弱みを握れば、姉上たちも父上の傀儡にならざるを得ない。マリス、父上はメルクニアという獅子の牙を抜き、王座の前に伏す犬に作り替えようとしているんだよ」

「……レオ。お前は……お前はそれでいいのか」

 マリスの問いは、もはや怒りではなく、深い絶望を含んでいた。レオナールはマリスの目を見ることができず、拳を血が滲むほど握りしめた。

「……僕は、君たちを失いたくない。だが、今の僕には父上の策を止める権限がない。……マリス、もし最悪の事態になったら、僕が独断で北の門を開ける。君だけでも逃げろ。君までここに縛り付けられて死ぬことはない」

「……ありがとう、レオ。お前が本当の友だってことは、よく分かったよ」

 マリスは静かに、だが氷のように冷たく笑った。

「でも、俺には俺の帰る場所がある。例えそこが、王が用意した汚い犬小屋だったとしても、俺は父上や兄さんたちの横で斧を構える。……誇りを捨てて生き延びるくらいなら、獅子のまま泥の中で死ぬのが、俺たちメルクニアのやり方なんだ」

 マリスはそれだけ言うと、友に背を向け、エルムが血まみれで立ち尽くす下の広場へと駆け降りていった。

 残されたレオナールは、冷たい石の床に膝を突き、友が自ら死地へ、あるいは屈辱の深淵へと飛び込んでいく背中を、ただ見送るしかなかった。

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