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メルクニア戦記  作者: 風花
第四章
64/113

軍神の微笑

 アイゼン要塞を望む、北方の帝国軍本営。

 不落の要塞を失った直後であるにもかかわらず、陣中に敗軍の悲壮感は微塵もなかった。そこにあるのは、血生臭い戦場には不釣り合いなほど精緻な、冷酷なまでの「静寂」である。

 その中心で、鋼鉄卿は帝都から届けられた最新の「補給計画書」を眺めていた。

 差出人の名は、帝国大蔵卿代行――フラン・メルクニア。

 かつては前線の勇猛さや略奪に頼っていた帝国軍の兵站は、今や遠く帝都にいる一人の男の手によって、食糧一粒、矢の一本に至るまでが「最適化」された巨大な機械へと変貌を遂げていた。

「……信じがたいな。アイゼンを失い、補給線が伸びたというのに、兵たちの腹は以前より満たされている。帝都の腐敗した貴族共を数字で吊るし上げ、軍の胃袋へ直結させたか」

 鋼鉄卿が地を這うような低音で独り言ちると、傍らに控える参謀が、恐縮した様子で言葉を添えた。

「はっ……。大蔵卿代行閣下フランからは『現場の非効率は、敵の追撃以上の罪悪である』との書簡が届いております。既に、到着が数分遅れた輜重部隊の責任者が、自身の『非効率』を理由に更迭されたとのことです」

 鋼鉄卿はフンと鼻を鳴らした。帝都で筆一本を振るい、前線の将兵を震え上がらせる「かつての捕虜」の顔を思い浮かべる。

「あの男、アイアン・ピークで私を足止めした時と同じ目をしている。……奴は今、帝都という名の戦場で、我が軍に勝機を献上し続けているわけだ」


 その時、天幕の外から凍てつく風と共に伝令が飛び込んできた。

 アイゼン要塞の動向を監視していた物見からの急報。その内容は、鋼鉄卿が待ち望んでいた「敵の自滅」を告げるものだった。

「報告! アーシア王国軍、アイゼン要塞に大規模な増援が到着。掲げられた旗印は――アーシア王家、金の獅子! 国王ユヌベクス自らの親征と思われます!」

 将軍たちが顔を見合わせ、ある者は困惑し、ある者はさらなる劣勢を覚悟して身構える。だが、重厚な甲冑に身を包んだ鋼鉄卿だけは、仮面の奥でゆっくりと口角を上げた。

「……来たか。策略家を自称する、愚鈍なる羊め」

 鋼鉄卿は立ち上がり、壁に立てかけられた巨大な戦斧を手に取る。その重圧だけで、天幕内の空気が一段階低くなったように感じられた。

「帝都の死神フランが予言した通りだ。ユヌベクスは、メルクニアの武威を評価しすぎ、同時に恐れすぎた。……だからこそ、その手柄を独占させぬため、そして監視下に置くために、最前線という名の死地へ自ら首を突っ込んできたわけだ」


 鋼鉄卿は、フランが書簡に記していた一文を反芻する。

 『王の親征は、メルクニアという資源の機動性を奪い、防衛コストを最大化させる。彼らはもはや兵ではなく、ただの壁となる』

「メルクニアは確かに強い。だが、奴らはあまりに身内を愛しすぎ、義理堅すぎる。……今、アイゼン要塞において、メルクニアは『最強の矛』から、王という名の巨大な荷物を守るためだけの『番犬』に成り下がったのだ」

 鋼鉄卿の瞳には、すでに蹂躙の光景が宿っていた。

 王が鎮座した今、メルクニアは王を危険にさらすような大胆な攻勢も、柔軟な撤退も許されない。ただ、要塞に縛り付けられ、鋼鉄卿の暴力に耐え続けるだけの「標的」に変わった。

「ユヌベクスは、自らの権威を守るために、自軍最強の駒の足を自ら折った。……これほど愉快な見世物もそうはあるまい」

 鋼鉄卿は、フランが帝都で整えた「完璧な補給」を背に、全軍へ向けて咆哮した。

「全軍に伝えよ。これより反攻を開始する。狙うは要塞の陥落ではない。……王を守ろうとして、一歩も動けぬままなぶり殺しにされる、メルクニアの獅子共の首だ!」

 軍神の圧倒的な武力と、帝都から冷徹な知略を送り込むフラン。

 その二つが完全に噛み合った瞬間、アーシア王国軍が沸き立った「勝利の報」は、史上最悪の「崩壊の序曲」へと反転した。

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