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メルクニア戦記  作者: 風花
第四章
63/113

氷域の潜入者

 アイゼン要塞の北方、帝都へと続く「軍神の街道」。

 そこは数日前まで鋼鉄卿の絶対的な支配下にあり、不落の軍紀が支配していた死地である。王軍親征の軍勢が到着し、警護任務という名の呪縛に身動きを封じられるまで、残された時間はわずか。その数時間を食いつぶすように、七男ガインと八男マリスは、雪に閉ざされた針葉樹林を影となって駆けていた。

 やがて、街道沿いに急造された帝国の宿営地が見えてきた。敗走の混乱の中にあるはずの敵陣だが、そこには奇妙な静寂が横たわっていた。焚き火を囲む帝国兵たちに、かつての精悍さはない。彼らが怯えているのは、闇から迫るメルクニアの追撃ではなかった。背後の帝都から届く「何か」に、目に見えない処刑人の刃を突きつけられているかのような、異常な憔燥だ。

 二人は獲物を定める。中央の天幕、一際身なりの良い軍服を纏った中年の男。輜重しちょう管理を司る士官だ。彼は震える手で羊皮紙の束を握りしめ、うわ言のように数字を呟いていた。

「……あり得ない。この計算では、明朝には我が隊の食糧配給は『存在しない』ことになる。数分遅れただけで、予備枠から削られるなど……! 如何なる弁明も、あの男には通用しないのか!」

 ガインとマリスは顔を見合わせた。略奪や私腹を肥やした罰への恐怖ではない。フランが張り巡らせた「完璧すぎる兵站システム」から一分一秒でも外れた瞬間、切り捨てられることが確定してしまう、逃げ場のないシステムへの悲鳴。

 二人は音もなく、影から影へと跳躍した。歩哨を瞬時に無力化し、狂乱寸前の士官の口を塞ぐと、闇の深淵へと引きずり込んだ。


 要塞から数里離れた、地図にも載らぬ氷の洞窟。

 拘束された士官の喉元に、ガインの鋭い短剣が食い込み、細い血の筋を作る。

「答えろ。貴様らが怯えている『死神』の正体は何だ。そして——半年前にアイアン・ピークで捕らえられた我が兄、フラン・メルクニアはどうなった!」

 ガインの糾問は、悲痛な祈りに近かった。地下牢に繋がれ、衰弱していてもいい。生きて、自分たちの助けを待っていてほしい。自分たちが知る、あの皮肉屋で冷徹だが、家族のために殿を務めた「四兄」のままでいてほしい——。

 だが、士官の反応は、二人の少年の希望を根底から叩き潰すものだった。

「……フラン・メルクニア? 貴様、その名を……死神の名を、今、口にしたのか……!」

 士官の瞳が、狂気的な恐怖で見開かれる。彼はガチガチと歯を鳴らし、笑いとも泣き声ともつかぬ声を漏らした。

「救いに来たつもりか? 滑稽だな! あの男は今、帝都でリリアーヌ皇女の隣に鎮座している! 捕虜だと? 笑わせるな! 奴は筆一本で、帝国の非効率な血管をすべて切り刻み、戦場における『慈悲』や『融通』を、軍資金の論理で一掃しやがったんだ!」

 マリスが、剣を握る手に力を込める。指が白く震える。

「……デタラメを言うな! 兄上が帝国に魂を売るはずがない。俺たちを逃がすために、あの方は……!」

「魂だと? 奴にあるのは『損得』という名の神だけだ! 奴は言ったんだ……『国家という組織の効率を最大化する。そこに私情は介在しない』とな! 今や軍神鋼鉄卿すら、奴が弾き出した『勝利の方程式』を実現するための巨大な防波堤に過ぎん。奴が筆を走らせれば、前線のわずかな非効率は即座に断罪され、帝国軍という巨大な怪物が、以前より遥かに冷酷な精度で息を吹き返す。……お前たちが救おうとしているのは、もはや弟でも兄でもない。帝国の『頭脳』そのものなんだよ!」

 洞窟内に、沈黙が降りた。

 信じられるはずがない。だが、士官が漏らした「国家の効率」という言葉は、あまりにも彼らの知るフランの口癖そのものだった。


 要塞に戻った二人がもたらした「噂」は、勝利に沸いていたメルクニアの兄弟たちの間に、回復不能な裂傷を刻んだ。

「そんなはずはない! フラン兄は、俺たちを見下していたかもしれないが、裏切るような男じゃない!」

 五男エルムが、執務室の机を砕かんばかりに叩く。だが、三男クリスは一人、かつてフランと対立し、その冷徹な合理性に背筋を凍らせた記憶を反芻していた。

「……いや、あり得ない話じゃない。あいつにとって、所属する国家や血筋は『効率』の後に来る変数に過ぎない。もし帝国が、フランという怪物を正しく使いこなす度量を見せたのだとしたら……あいつは迷わず、その頭脳を提供しただろう」

「クリス兄さん! 兄上が俺たちの敵になったって言うのか!?」

 マリスの叫びが虚しく響く。救出対象か、それとも討伐すべき裏切り者か。

 兄弟たちが初めて互いの瞳に「不信」を宿した、まさにその時だった。

 地平線の向こうから、大地を揺らすような地鳴りと、天を劈く金管楽器の咆哮が響き渡った。現れたのは、黄金の装飾を施したアーシア王家の重装騎士団。そして、戦場には不釣り合いなほど巨大な、国王ユヌベクスを乗せた黄金の馬車。


「——ちっ、『邪魔者』の到着か」

 次男ライルが剥き出しの敵意を持って吐き捨てる。

 情報の真意を確かめるための再潜入も、フランの生存を裏付けるための追跡も、もはや不可能だ。門が開かれ、ユヌベクス王が、戦場を「卑しい泥仕事」と見下す譜代の将たちを引き連れて、凱旋パレードのごとき傲慢さで足を踏み入れる。

「よくやった、エジル。そしてメルクニアの勇士たちよ。予も、我が愛娘たちの婿が立てた手柄を誇りに思うぞ」

 ユヌベクスは満足げに微笑むが、その背後の譜代の将たちは、鼻をつまむような仕草で、功績を挙げたメルクニアを「野卑な外様」と蔑んでいる。彼らにとってこの親征は、メルクニアを「王の警備」という名目で前線から引き剥がし、手柄と指揮権を奪い取るための儀式に他ならない。

「……陛下、ご親征、恐悦至極に存じます」

 エジルが膝を突き、深々と頭を下げる。その脳裏には、先ほどの「噂」が重く、冷たく居座っていた。


 軍事的には足枷でしかない主君を守るため、自由を奪われるメルクニア。背後から自分たちを陥れようと画策する、無能な譜代の貴族共。そして北の深淵で、既に「帝国」そのものへと変貌しているかもしれない、最強の四男フラン。

 奪還したばかりのアイゼン要塞は、勝利の歓喜を吸い込み、疑念と呪縛が渦巻く、巨大な檻へと姿を変えていた。

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