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メルクニア戦記  作者: 風花
第三章
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遠き知略への戦慄

 南方の最前線、アイアン・ピークの断崖を震わせる咆哮は、未だ止むことを知らなかった。

 かつてフラン・メルクニアが自らを「最後の一駒」として差し出し、一族の血脈を逃がした因縁の地。そこは今や、帝国軍の象徴である鋼鉄卿と、奪還に執念を燃やすメルクニアの精鋭たちが激突し続ける、鉄と血の巨大な炉と化している。

 巨大な鉄槌を大地に突き立て、戦況を睨んでいた鋼鉄卿のもとに、帝都からの伝令が到着した。

 運ばれてきたのは、戦略上の要請ではなく、帝都の政治情勢を伝える極秘の報告書であった。鋼鉄卿は、返り血で汚れた手で無造作に封を切り、その内容に目を落とした。

 最初は、見間違いかと思った。

 あるいは、帝都の文官たちが誇張を交えた報告を上げたのかと。

 だが、読み進めるにつれ、鋼鉄卿の太い眉は跳ね上がり、その屈強な肉体が微かな戦慄に揺れた。

「……何だと。バルド公を無血でねじ伏せ、帝都の経済網を一夜にして掌握しただと……?」

 鋼鉄卿の低い声が、天幕の中に地鳴りのように響く。


 彼がアイアン・ピークの絶壁で捕らえた時のフランは、ただの「死に損ない」であった。一族を守るという義務を果たすためだけに、己の命を道端の石ころのように投げ出し、虚無の瞳で死を待っていた敗残の将。それが鋼鉄卿の記憶にあるフラン・メルクニアのすべてだった。

 捕虜となった後、彼がリリアーヌ皇女の目に留まり、その知略を帝国の牙として振るい始めたという噂は聞いていた。だが、この報告書に記されているのは、そんな「拾い物の軍師」の域を遥かに超えた怪物の姿だった。

「経済圏の再編、徴税権の集約……。挙句の果てには、あのラグナスの『黒狗』さえも飼い慣らし、反対勢力を一掃してリリアーヌ殿下の隣に座を占めたというのか。……ふは、はははは!」

 鋼鉄卿は、思わず天を仰いで豪快に笑い飛ばした。


 笑わずにいられなかった。かつて「死」のみを安息としていたあの男が、一人の少女から「生」という毒を盛られ、あろうことか帝国そのものを自分の計算式のなかに組み込み、支配し始めたのだ。

「あの時、奴は確かに死を望んでいた。自分という資源を使い潰し、空虚なまま終わることを望んでいたはずだ。だが、今の奴を動かしているのは、そんな枯れ果てた義務感ではない。……『執着』だ。リリアーヌ殿下を婚姻という唯一の頂に押し上げるために、帝国そのものを最強の組織へと作り替えようとしている」

 鋼鉄卿は、戦場を吹き抜ける冷たい風に目を細めた。

 視線の先、断崖の向こう側には、今もなお「弟を救う」という名目のもと、奪還戦を仕掛けてくるメルクニアの兄弟たちの陣営がある。

「皮肉なものだ、メルクニアの連中よ。貴公らが血を流して救おうとしている弟は、もはや貴公らの保護を必要とする弱者ではない。……それどころか、帝国という巨大な機構そのものを自らの盤面として書き換え、この俺に届く兵糧や矢の数までをも完全に支配し始めているぞ」


 実際、フランが「帝国大蔵卿」として主導した兵站の適正化により、最前線に届く物資の質と速度は劇的に向上していた。かつて自分を捕らえた敵将にさえ、必要とあれば「利」を与えて動かす。

 情愛でもなく、恐怖でもなく、圧倒的な「合理性」によって帝国を一つに束ね上げる手腕。それは鋼鉄卿のような武人には到底真似のできない、静かなる侵略であった。

「……面白い。帝国が手に入れたのは、単なる軍師ではない。リリアーヌという鞘を得た、最も鋭利で、最も制御不能な『知恵の剣』だ。奴は、あの皇女を婚姻というゴールへ導くために、邪魔なノイズをすべて排除するつもりだろう。それがたとえ、かつての自分の血族であってもな」


 鋼鉄卿は再び鉄槌を肩に担ぎ上げ、最前線へと背を向けた。

 その背中には、強敵を認めた時のような武人としての歓喜と、底知れぬ知略への畏怖が同居していた。

「よかろう、フラン・メルクニア。貴公が帝都で盤面を整えるというのなら、俺はこの地で、貴公が作り出す『新しい帝国』の防波堤として、いかなる外敵も通さずに暴れてやるとしよう。……せいぜい、その計算でこの世界を、そしてこの俺を驚かせてみせろ」

 南方の英雄が、北方の知略を「対等なる帝国の一部」として認めた瞬間だった。


 一族を逃がすための生贄であったはずの男は、今や帝国全土を揺り動かし、最強の武人でさえもその計算の一部として組み込む、真の支配者へと昇り詰めていた。

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