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メルクニア戦記  作者: 風花
第三章
57/113

帝都の新緑

 帝都の空は、雲一つない深みのある蒼に染まっていた。

 この日のために磨き上げられた石畳の白、沿道を埋め尽くす民衆が振るう旗の赤、そして大聖堂を包む厳かな黄金の光。帝国全土が、かつてない高揚と、ある種の聖域に踏み入るような静かなる畏怖の中にあった。

 捕虜という屈辱の底から這い上がり、知略一つで帝国の歪んだ構造を書き換え、今や「帝国の心臓」とまで称されるようになった男。フラン・メルクニアが、帝国の太陽たるリリアーヌ皇女を妻として娶る。

 この、本来であれば不条理極まりない婚姻を、もはや「ノイズ」として否定できる者は、広大な版図のどこにも存在しなかった。彼がこれまでに積み上げてきた圧倒的な実績と、反対勢力さえも利益で沈黙させた「正当性」の前に、帝国そのものがひれ伏していた。


 大聖堂の控え室、フランは鏡の中に映る己の姿を、かつてないほど鋭く、そしてどこか遠い目で見つめていた。

 身に纏うのは、リリアーヌが自ら意匠を凝らし、最高級の織物職人に作らせた純白と黄金の婚礼衣装である。かつてアイアン・ピークの冷たい泥にまみれ、一族の身代わりとして死を待っていた敗残の将。あの時、彼の瞳に映っていたのは虚無だけであった。

 だが、今、鏡の中の男が纏っているのは、一人の女を生涯守り抜くと決めた「支配者」の風格だった。


「……不合理な計算だ」

 フランは自嘲気味に呟き、純白の手袋をはめた指先を整えた。

 これまでの彼なら、この婚姻さえも「皇女の支持率を最大化し、帝国の存続確率を九十八パーセントまで引き上げるための最適解」としてのみ定義しただろう。感情という変数は、計算を狂わせる不純物でしかなかった。

 だが、今、喉の奥をせり上がってくる熱い塊と、不規則に刻まれる鼓動を、いかなる数式でも説明することはできなかった。

 重厚な扉が静かに開き、背後からリリアーヌが現れる。

 ヴェールの下から覗く彼女の姿は、まさに帝国の至宝、あるいは慈悲深い女神そのものだった。フランが財政再建によって買い戻した、かつて他国へ流出していた伝説的な宝石たちが、彼女の白い肌の上で誇らしげに輝いている。

「……見惚れてしまったかしら。計算外の沈黙ね、フラン」

 リリアーヌが、いたずらっぽく、しかし潤んだ瞳で微笑む。フランは一歩踏み出し、その場に跪いて彼女の指先に唇を寄せた。

「殿下……いえ、リリアーヌ。私の人生において、予測不可能な事象は常に貴女からもたらされる。……この婚姻により、私の命、私の知略、私の未来のすべては貴女の所有物となる。もはや私に、己を『資源』として使い捨てる自由すらありません。……すべては、貴女のものです」

「ええ。貴公を使い潰す権利も、慈しむ権利も、すべて私が握るわ。……末永く、私の隣で世界を解き続けなさい。愛しているわ、フラン」


 大聖堂の鐘が、帝都全体を震わせるように鳴り響いた。

 扉が開放され、ステンドグラスから差し込む万華鏡のような光の中を、二人は並んで歩み始めた。

 参列者たちの顔ぶれは、帝国の縮図そのものだった。かつてフランを「敗将」と罵った貴族たちは、今や彼がもたらした繁栄の恩恵に預かり、心からの、あるいは合理的な服従を込めて深く頭を下げている。フランが数ヶ月をかけて、恐怖ではなく「利益」によって帝国を再構築した成果が、この調和の取れた静寂の中に結実していた。

 祭壇の前では、皇帝が厳かな面持ちで待っていた。

 その傍らには、南方の最前線からこの瞬間のためだけに、傷だらけの甲冑を婚礼用の外套で隠して帰還した鋼鉄卿の姿もあった。最強の武人は、一族を捨て、死を捨て、ついには帝国という盤面そのものを奪い取ったかつての「捕虜」を見て、満足げに鼻を鳴らした。

(見事だ、小僧。……貴様は、死を代価にせずとも、愛という重石だけでこの巨大な帝国を支える柱となったか)

 鋼鉄卿の無言の喝采が、フランの背中を力強く押した。

 神官が問いかける言葉は、もはや形式に過ぎなかった。

「――誓います。この命が尽きるまで、私は彼女の剣となり、盾となり、彼女が愛するこの帝国を、永久不滅の繁栄へと導くための計算を、一刻たりとも止めないことを」

 誓いの接吻が交わされた瞬間、大聖堂の外からは帝都中の民衆による割れんばかりの歓声が地響きとなって伝わってきた。

 それは、力と血統による支配に明け暮れていた古い帝国が終焉を告げ、知略と献身、そして一人の男の狂おしいまでの愛によって支えられる「新しき帝国」が産声を上げた瞬間であった。


 式の後、バルコニーから民衆の祝福に応えるリリアーヌ。その横で、フランは人知れず懐の手帳を取り出した。

 そこには、これまで書き殴ってきた冷徹な戦略や裏工作の記録ではなく、リリアーヌから贈られた一輪の押し花と共に、ただ一行だけ、万年筆の跡も新しく記されていた。

 ――『解:至上の幸福。以降の変数、不要。』

 フラン・メルクニアの「のし上がり」は、ここに一つの完成を見た。

 だが、彼の眼鏡の奥に宿る冷徹な光は、既に次の盤面……愛する妻が生涯をかけて愛でるであろうこの「帝国」を、いかなる外敵からも守り抜くための、さらに緻密で巨大な数式を組み立て始めていた。

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